NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.105
おNEWのクール・ビューティなイタリアン・カラーシャツ羽織って、もう1着持参で毎晩飲みまくっとるわし。 いい歳こいて、バーでシャツを着替えて飲み直すなんてハッピーなジジイはわしぐらいのもんじゃろう! サマーナイト・ロッカーの理想的スタイルを貫いておる(!?)わしは、あらためて70年代の「一発屋たち」を調べたんじゃが、ロックに限定しなければホントぎょーさんおるんで驚いた! やはりアメリカの音楽市場の競争のスゴさってもんは、日本やイギリスとは比較にならんほど熾烈なんじゃ。 一発当てたからといっても、それが以降の活動のギャランティーにはならんのじゃ。 その反面、何が当たるか分らないオモシロサがあるのも「American
Top 40」の特徴なのじゃ。 「新人が大ヒットする法則」なんてのは無いに等しいのじゃろう。 だからこそ星の数ほどのミュージシャンが、夢を追ってアメリカ進出にシャカリキになり続けておるのじゃ! アメリカ人には「開拓者魂」と「故郷愛」という相反する精神がともに強く宿っておるが、エンターテイメントの世界では、新人に対してハナから「Stranger(よそ者)」として意地悪に無視するか、「New Kids In The Town(かわいい新米くん)」として大歓迎する習慣かのどちらかであるとも言われておる。 あのビートルズでさえ、最初はアメリカのレコード業界でまったく相手にされなくて、仕方なくマイナーレーベルとの契約からスタートしたのじゃ。 それが一発当たったら、あっという間に全米制覇じゃった! そんな「大博打」の世界で、一度は夢を見ることが出来た連中のご紹介、第2弾じゃ! 毎晩夜空にまたたく星も美しいが、そんな中で一瞬キラリ!と輝く流れ星はもっと美しい!! |
全米トップ40が生んだ(?!)、70年代の華麗なる一発屋たち! 〜中編 70年代A ■ピンクレディー■ “ぬわに〜い???”となったじゃろう。 ピンク・レディーとは、あの日本のアイドルのピンク・レディーじゃ! ちいとばかりジョーダンから今回は始めてみよう。 いやジョーダンではないのじゃ、これが! 77年、彼女たちのシングル「Kiss In The Dark」がたった1週だけ「American Top 40」にランクされたのじゃ。(39位) わしも最初ラジオで聞いた時はタマゲタ! っつうか、わしゃそんな曲は知らんかったぞ。 当時ピンク・レディの事務所は、日本だけでは飽き足らず(!?)、真剣にアメリカン・ドルを掴みにいったんじゃ! そういえば、坂本九が歌った「スキヤキ」が全米No.1になったことは諸君なら知っておるじゃろう。 日本人が歌った曲で「American Top 40」に食い込んだのは、この2曲のみじゃ。 ウタダヒカルちゃんだってせいぜい120位くらいじゃっただろう。 ドリカムだってそんなもんじゃった。 最近話題のAKB48も先日アメリカ公演を行ったそうじゃが、あんまり受け入れられなかったそうじゃな。 日本人なら、九さんとピンクレディのチャートインの事実を記憶に留めておいていただきたい。 ■シン・リジー■ イギリスとアイルランドでは「国民的バンド」として君臨していた彼らじゃが、81年に解散するまでついにアメリカではまったく相手にされんかった。 母国とアメリカとの評価の差がこれほど激しいバンドもおらんじゃろう。 わしは70年代にイギリスを2回訪れたが、イギリスのロックファンはよく言っておったな。 「サッカーとシン・リジーの良さが分らんアメリカ人はアホだ!」と。 わしはすぐにこう返答したもんじゃ。 「オメーラだって、ベースボールとエアロスミスの良さがワカンネーだろう。 それと同じじゃよ」とな。 まあそんなやりとりはさておき、シン・リジーがアメリカで1曲だけ当てた曲があった。 それが「ヤツラは町へ」。 でも他にもいい曲いっぱいあるのに、アメリカでは再評価の兆しすら一向にない。 ロック史の七不思議じゃよ、まったく。 ■ユーライア・ヒープ■ シン・リジーのオハナシついでに、ユーライア・ヒープも語っておこう。 彼らもヨーロッパ全土で人気があったのに、アメリカではまったくダメ。 「American Top 40」にチャートインはもちろん無し。 じゃが「Top 100」にはかろうじて入るシングル曲をしぶとく発表し続けたせいか、アルバム(「スイート・フリーダム」)の方で1枚だけビッグ・セールにこぎつけた。 まさに執念じゃな。 ところが皮肉なことに、「スイート・フリーダム」は「アメリカナイズされ過ぎている!」って本国イギリスでは悪評プンプンで全然売れんかった。 いやはや、厳しい世界ですなあ〜。 彼らには イギリスや日本のロックガイド的書籍において必ず「ロック史上に輝く名曲」と絶賛される「七月の朝」という曲があるが、アメリカの有名ロックマガジン「ローリング・ストーン」には「退屈であくびが出そうな迷曲」とケチョンケチョンに書かれてあったのを読んだことがある。 ■ボブ・ウエルチ■ この人はフリートウッド・マックの過渡期に在籍していた悲運のお方。 バンドが通好みのブルースロックバンドから、アメリカン・チャートを賑わすポップ・バンドへと劇的な変貌を遂げるまでの、いわゆる「苦悩の低迷期」を支えておったのじゃ。 じゃから前期、後期、どちらのマック・ファンにも馴染みが薄い存在なのじゃ。 売れないマックを脱退後、パリスというリーダーバンドもダメで、仕方なくソロに転向したら、二発目のシングル「センチメンタル・レディ」が大当たり! そうなったら今度は不発だった最初のシングル「エボニー・アイズ」も当たった! 神様はボブを見放さなかったのじゃ。 日本では「エボニー・アイズ」のみの一発屋扱いじゃが、ソロ・アルバム2枚はアメリカでそこそこ売れたし、スノッブ(ちょいとヒネクレてはいるが独特のオシャレ感覚のある)なロック・ファンに愛されたロッカーじゃった。 |
■プレイヤー■ 70年代後半のAOR(アダルト・オリエンタル・ロック)ブームに乗ってデビューしたプレイヤー。 唯一の大ヒットは「ベイビー・カムバック」じゃった。 しかし正直なところ、この曲は日本のラジオではオンエアされることは少なく、バンドそのものもそれほど話題にならんかった。 ところが、アメリカではあまり売れんかったシングル「プリズナー・オブ・ユア・ラブ」の方は日本で話題騒然となった! というのも、日本のロックバンド世良公則&ツイストの「鉄爪」にイントロがクリソツ! わしらロック・ファンもオモシロガッテよく聞き比べしたもんじゃ! どっちがパクったかは知らんが、太平洋を挟んでの訴訟問題にはならんかったな。 どっちも全体的に良い曲に仕上がっておったから、それでええ! ■チェイス■ 70年代のロック界のブームのひとつに、「ブラス・ロック」ってのがあった。 要するにトランペットとかサックス等のブラスサウンドをフューチャーしたロックであり、代表格がシカゴであり、ブラッド・スゥエット&ティアーズ。 このチェイスはブラス・ロックの3番手と言われ、デビュー曲の「黒い炎」は大ヒット。 4本のトランペットの豪快な掛け合いが受けまくり、ついにデビュー・アルバムを全米No.1の座に引っ張り上げたもんじゃった。 ところが冴えないセカンドアルバム発表後にあっさりと解散。 アメリカでも典型的な「一発屋」として扱われておるバンドじゃ。 74年に再結成されたが、メンバー3名が飛行機事故で死亡。 生き残ったメンバーは、後に映画「ロッキー」の主題曲「アイ・オブ・ザ・タイガー」の大ヒットを飛ばしたサヴァイバーを結成しておる。 ■フリー■ 「American Top 40」がスタートしたのが1970年7月であり、確かその直後にチャートをぐんぐん上昇していた1曲と記憶しておるのがフリーの「オールライト・ナウ」。 まだ日本の「全米トップ40」は放送されていなかったが、FEN(アメリカ軍直営の極東放送)でよく聞いたもんじゃった。 フリーは元々へヴィなブルースバンドじゃったが、「オールライト・ナウ」だけは何故だか見事なポップ・チューンであり、彼らに見向きもしなかったアメリカ人もこれだけには拍手喝采じゃった。 同年開催された伝説のロック・フェス「ワイト島コンサート」でも、フリーの重量戦車の行進の様な“おもた〜い”演奏に退屈していた大観衆も、この曲では突然ノリノリになっておった! ■ピーターフランプトン■ 前回の前編では、「70年代No.1の一発屋はザ・ナック」と書いたが、ザ・ナックが出てくるまでは、ピーター・フランプトンがNo.1と言われておった。 それまでアメリカでは無名に近い存在じゃったが、ライブ・アルバム「フランプトン・カムズ・アライブ」が唐突かつ爆発的に売れてしまって、その後にシングルカットした3曲もチャートイン! ピーター本人もマネージメント側もしきりに「なんで突然こんなに売れちゃうのかわかんねー」的な発言をしておったのをよく覚えておる。 日本ではシングル「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」がよくラジオで流されており、トーキング・モジュレーターを効かせたギター・プレイにギター少年たちが酔いしれておったもんじゃ。 わしも、今でもトーキング・モジュレーターの音を聞くと条件反射みたいにピーフラ君を思い出すもんじゃ。 「一発屋さん」のテーマを書くにあたり、実は残念なことがあった。 20年前くらいにアメリカに行った時、ビルボード・チャートの一発屋さんばかりをが紹介された書 籍を買ってきたんじゃが、どうしても見つからんのじゃ。 あれがあったら、もっとオモロイ事を書けたかもしれんが仕方ない。 わしの記憶によると、ロックに限れば、一発屋はイギリス勢に多かった印象が強い。 今回シン・リジーやユーライア・ヒープのところでちょっと触れたが、やはりイギリスとアメリカとのロック文化には大きな隔たりがあるようだ。 いや人間の気質や嗜好に隔たりがあるということじゃろう。 それにアメリカは60年代にイギリス勢ロックに市場を独占されていた怨み(!?)もある。 「American Top 40」とは自国の音楽を育てて市場に出すための、いわばヨーロッパに対するアメリカン・ミュージックの権威復活を賭けたメディアだったのかもしれんなあ。 しかしThe-Kingには、アメリカからもヨーロッパからもオーダーが来ておることはわしも知っとるぞ。 ロックン・ロール文化で意地を張り合う両者をともにトリコにしてしまうThe−Kingのパワーとセンスにあらためて脱帽じゃ! The-Kingを愛する諸君よ、キミたちのアクションは正しい! グレイトじゃ!! 七鉄の酔眼雑記 〜ネットで里帰り わしが住んどる東京都の某下町は、連日キョーレツな猛暑続き。 しかもわしの部屋の真上は屋上だからモロ直射日光をくらっとる。 日中は40度を越えてんじゃないか?と思えるほど暑い! 冷房効かせても、“暑くはない”だけ・・・。 お陰で行動力や思考力は鈍り、代わりにビールの消費量は急増じゃ。こりゃ、何かに集中せんと夏を乗り切れんな〜と参っておったが、知らぬ間にハマっていたのがネット上で楽しめる「ストリート・ビュー」ってヤツ! 今や「You Tube」と同じぐらい、わしのオフタイムが占領されておる。 特にヨーロッパ各地の観光各地は充実しており、かつて訪ね歩いた場所を検索しまくっとる!ヨーロッパは石造建築文化のエリアなんで、基本的な町並みはそう簡単には変化しておらんから、訪れた当時の様子が思い出されて楽しいもんじゃ。 いやあ〜ネット文化ってのはスゴイもんじゃのお〜と感心しておったら、さらに驚くべき幸運な事実を発見! 日本の各地を検索しておったところ、今から云十年前、わしが小学校時代に毎日利用していた通学路が、100パーセント完璧に撮影されておったのじゃ! 当時のわしの家は山を切り崩した造成地に、学校は切り崩される前の山のふもとにあって、通学時間は小学生の足で40分くらいじゃったか。 その40分の道程が丸ごと楽しめちゃったのじゃ。 これには感激した! その通学路は川幅2〜4メートルぐらいの小川に沿った道のりだったために、周囲の環境はあんまり変化しとらんかった。 ザリガニを捕った橋のたもと、ランドセルを落としてしまった二つの小川の合流地点、近くに駄菓子屋があった急流地点など、「ストリート・ビュー」で通学路を追いながら、わしは完全にタイムスリップしてしもうたよ! 酒もロックもピンクのネオン街も知らんかったあの頃(当たり前じゃ!)、昆虫やザリガニ、それに草野球のことしか頭ん中になかったのお〜。 「ストリート・ビュー」に対して、プライバシーがどうのって、五月蝿い声も聞かれるが、わしは素直に感謝しとるぞ。 実は、先日オヤジ殿が亡くなったので、久しぶりに生地ともいうべきこの地を訪ねてみようかと思うとったが、この猛暑で計画はオジャン。 ネットで里帰りさせてもろたってわけじゃ。 GO TO TOP |