ROCK FIREBALL COLUM by NANATETSU Vol.104


 目の覚める様な強烈なスカーレット/ダークレッド・パンツがThe-Kingよりリリースされ、モウショで多少モウロウとしていた気分も爽快! 「The-King RED」に触発されて、己が限りなく熱かった時代を思い出すべく、今回は「American Top 40」を題材としてみたい。
 このラジオ番組を覚えておる諸君も多いことじゃろう。 1970年7月からスタートしたビルボード・シングル・チャートを40位から1位までカウントダウン方式で紹介していく番組じゃ。 60年代の末期、ロック・シーンは一時的に長尺な「アルバム偏重主義」になっておったが、「American Top 40」の波及効果によって50年代のようなシングル盤の勢いがシーンに蘇り、ドでかい!アメリカの音楽市場がおおいに活性化されたもんじゃ。
 そして、日本でも1972年からその日本語放送ともいうべき「全米トップ40」がラジオ関東で放送され始めた。 エルヴィス・ファンにも馴染みの深い湯川れい子女史がDJを担当していたこの番組は、日本に洋楽を根付かせることに大きく貢献したと価値付けされておるな。 実際わしもよお聞いたもんであり、シングル盤とLP盤との買い分けに役立った有難い番組じゃった。
 そのお蔭ともいうべきか、70年代はわしのシングル盤のコレクションがドド〜ン!と増えたもんじゃ。 今回はそのシングル盤コレクションの中から、大ヒット曲1曲しか知られていない、いわゆる「一発屋」を紹介してみたい。 邦楽の世界で「一発屋」と呼ばれる方々の中には正真正銘の「一発屋」が多いが、洋楽の場合は、その後のヒット曲こそ無いものの、映画音楽の世界とかスタジオミュージシャンとして、本国においてはそれなりに充実した音楽活動をしておる方々も少なくない。
 じゃがなんせそこまでの情報なんて日本には入ってこない時代じゃから、あくまでも“日本では「一発屋」扱い”されておる方々という注釈を付けておこう。 まあ「大ヒット1曲」とはいえ、日本とは比較にならんほど熾烈なアメリカン・チャート内の競争を勝ち抜いた末の栄光じゃ。 冷やかしは抜きで、それなりの敬意を表してご紹介してしんぜよう。



「American Top 40/全米トップ40」が生んだ(?!)、華麗なる一発屋たち!
                                ◆
前編〜70年代編@◆


 
まずは一発屋というだけで片付けてしまうには、その一発があまりにもデカかったバンドとアーティストをひとつづつご紹介しよう。 一発というより激発! いや、本人にしてみたら思わぬ暴発!だったのかもしれんなあ〜なんて下手なジョークかましてもショーガナイな。 偉大なる一発屋、それはアメリカでは「Shooting Star(流れ星)」と呼ぶのじゃ。 なかなか味のある表現じゃのお〜。 ではでは、忘れ難きShooting Starのご登場じゃ!


■ザ・ナック


 「ロック史上最大の一発屋〜The Biggest Shooting Star of Rock」と言えばこいつらじゃろう。 
シングル「マイ・シャローナ」は全米6週連続1位で、ラジオのスイッチをひねればこの曲ばっかり!状態。 アルバム「ゲット・ザ・ナック」もバカ売れ!!
 軽快なリズムに乗って、♪〜マママ、マイ〜シャロナッ! マイ〜マイ〜マイ〜ハァッ!!〜♪ってフレーズは今も耳にこびり付いておるのお〜。 ビートルズの再来!って騒がれておったが、デビュー当時の勢いはビートルズよりもスゴかったんじゃないかのお。
 でもあえなくコレで終わってしもうた。 なんでじゃろう・・・ロック界の七不思議じゃが、ある評論家が彼らの失墜をクソ真面目にこう語っておったのは笑ったな。 「あまりにも売れ過ぎて、労働意欲を無くしたんでしょう」 と。 人間、稼ぎ過ぎは良くないってことなんじゃろうかのお。 まあ、そうとでも言っておかないと納得できないような、巨大な閃光をブッぱなしてあっけなく消えたバンドじゃった。


■テリー・ジャックス■
 テリー・ジャックスの名前は知らなくても、唯一のヒット曲
「Season In The Sun/そよ風のバラード」を耳にしたことがある人はゴマン!といるはずじゃ。 1974年全米年間ヒットシングル1位になり、全世界で1,100万枚を売ったとされる、当時のギネスもののビッグヒット曲じゃ。
 これから自殺をしようとする少年が家族や友達に別れを告げる歌詞、葬送行進曲ポップ編といった美しくもしめやかなメロディは、それまでの大ヒット曲のパターンからは考えられない異例のナンバー。 テリー自身のルックスもキャラも、写真の通り、まるでモグラくんのようでぜ〜んぜんスター的じゃないが、曲だけが一人歩きっつうか、勝手に高みに昇りつめてしまった!って感じじゃ。
 この曲は時代を越えてカヴァーされ続けており、2000年にはウエストライフが大ヒットさせよった。 当時わしは東南アジアにおったんじゃが、タイ、ベトナム、カンボジアなんかでもしきりにラジオから流れていたのには驚いた!
 ちなみに原曲はフランスの人気シンガー・ソング・ライターであるジャック・ブレルによって書かれており、それに目を付けたのがアメリカの国民的バンド、ビーチ・ボーイズ。 しかし紆余曲折あってビーチ・ボーイズ・ヴァージョンは日の目を見ることはなく、テリー・ジャックスの手に渡って大爆発したのじゃ。


 お次は、70年代中期から日本でもおおいに愛されたブーム「ウエストコースト・サウンド(WCS)」の中の一発屋たちじゃ。 WCSの代表格はイーグルスとリンダ・ロンシュタッドとジャクソン・ブラウン。 この3者の存在があまりにも大きかったので、日本では彼ら以外のWCSの面々のほとんどが一発屋のようなイメージが強いが、それはまったくの誤解じゃ。 ビッグ・ヒット・シングルが1枚というだけであり、アルバムワーク、セッションワークにおいては各人が長きに渡って活躍しておるので、そのこともどうかお忘れなく!

 

■アンドリュー・ゴールド■

 WCSと言えば、アメリカ西海岸の海風のような“さわやか〜”とした曲調が多かった中で、アンドリューの書く曲は珍しくパンチが効いており、また当時は珍しかったマルチ・プレイヤー(楽器を何でもこなすプレイヤー)としてもアンドリューは知られておった。 その2つの個性が合体して大ヒットに繋がったのが「ロンリー・ボーイ」じゃったな。
 軽快なロックンロールの曲調の中で使用楽器の特性を活かしきった、当時のヒット・シングルの中では出色の作品じゃった。 余談じゃが、いくらマルチ・アーティストとはいえ、「ロンリー・ボーイ」が収録されたアルバムのライナーノーツまで自ら書いてしまい、その冒頭で「このアルバムの価値を見抜いて入手した諸君! そのスバラシキ感性を湛えよう!」ってかましておったのは少々呆れてしもうたな。 


■ランディ・ニューマン■
 この人、とかく日本では評判が悪かったのお。 来日の際に日本酒飲んで大暴れした!ってのはジョーダン。(それはレッド・ツェッペリン) 彼の最大のヒット・シングル「ショート・ピープル」が背の低い日本人をバカにしとる!って噂になったからじゃ。 どこか人を喰ったようなイジワルセンコーみたいな人相も悪評に拍車をかけておったな。
 「ちっこいヤロウなんか、どっかへ消えちまえ云々」っつう歌詞の真相じゃが、一時期放送禁止の騒ぎになった時に「“ちっこいヤロウ”とは自分自身のことなんだ」とランディさんは弁明しておったな。 まあ大ヒットの原因の何割かは、この放送禁止騒ぎもあったんじゃろうな。 わしは問題の歌詞なんかより、なんでこんな曲が大ヒットするんじゃろう・・・と不思議じゃったが、調べてみるとこのランディさん、実は音楽家として大変な博識として業界では尊敬を集めており、「ショート・ピープル」の大ヒットは業界を上げて祝福されておったそうな。

 

■J.D.サウザー■

 ウエストコーストの業界切っての「レディー・キラー」として有名じゃが、この人は古くからWCSの数多くの曲作り、セッションに参加していたとされる職人肌のシンガーじゃった。 色々と調べてみたが、その活動歴はどうも判然としない。 どうやら金にまったく執着がなかったらしく、仕事をした証であるジャケット・クレジット(名前表記)にも無頓着じゃったらしい。 だから仕事の記録があまりないのじゃ。
 このクールさにまた女が惹かれるんじゃろうが、あまりにも飄々と生きるJ.D.に対して、その才能をきちんとした形にするべきだ!と周囲がJ.Dをけしかけて仕事をさせたのが
シングル「ユア・オンリー・ロンリー」
 哀愁のウエストコースト・サウンド!という形容がピッタリ!の憂いを含んだアコギ・サウンドに全米の女性がうっとり! まさに一夜にしてウエストコーストのレディーキラーから全米的スターの座に駆け上がってしまったのじゃ。 でもスターの座に執着するような努力はせず、以降も風の吹くまま、気のむくままの音楽活動に戻っていった。 チキショー、どこまでもイカス野郎じゃ!



 ここで、チョイと目をイギリスの方へ向けてみよう。 60年代に「アルバム優先(偏重?)主義」を作り上げたイギリス勢も、「American Top 40時代」の到来によって、徐々にシングル盤主体の活動を余儀なくされていった。 そして70年代中期になるとあからさまにシングル・ヒットを狙ったポップ・ロック・バンドが多数出現してきおった。 その中の代表的な一発屋をご紹介しておこう。

■ベイビーズ■
 ヤロウのくせして “カワイ子ちゃんたち”なんて名乗りやがって、テメーら魂胆見え見えじゃ!とわしは毛嫌いしておったが、
「イズント・イット・ア・タイム」はええ曲じゃった。 60年代の人気モッズ・バンドじゃったスモール・フェイセスを連想させるような、R&Bフレーバーが漂うソウルフルな佳曲じゃ。 黒人女性のコーラスもなかなかキマっておった。
 因みにじゃな、ヴォーカルのジョン・ウエイトは、その後バッド・イングリッシュなるバンドを結成しおったものの、ここでもリーバイスのCMにも使われて全米1位に輝いた「When I See You Smile」1曲だけで終わってしもうた。 一発屋ならぬ「二発屋」じゃ。


■ミスター・ビッグ■
 クイーン、パイロットと並ぶ、コーラス御三家バンド。 唯一のヒット・シングル「ロミオ」はヨーロッパでバカ受けしておったが、アメリカでは歌詞が問題視されたこともあって、チャートインはせんかった幻のヒット曲じゃ。 一番の「♪〜僕は朝、君は朝日〜♪」ときて、二番の「♪〜僕はグラス、君はお水〜♪」ってのがイカンかったようじゃ。 「あのなあ〜ちょっと考えすぎじゃねーのか」と思えるエピソードじゃが、35年ぐらい前はそんな時代だったのじゃ。
 ミスター・ビッグといえば、80〜90年代に大活躍した同名バンドがあるが、それとはまったくの別物。 後輩さんたちは、正統的ロック・バンドでありながらシングル・ヒットにも恵まれたまさにビッグ・バンドじゃったが、ロック・ファンなら「一発屋」で終わった先輩さんも覚えておこう!



さて最後は、女性シンガーの「一発屋」じゃ。 70年代という時代は、女性ロッカー/シンガーに対して大々的に門戸が開かれた時代であり、優秀な女性たちが次々とデビューしよった。 その数、個性の種類は、今よりもはるかに多かったのお。 彼女たちの活躍が、「全米トップ40」という番組に大いに彩りを加えてくれたことは間違いない。 そんな女性陣の奮闘の中で、わしにとって忘れ難きお二方をご紹介しておこう。


■イヴォンヌ・エリマン■

 70年代中期に大ディスコ旋風を巻き起こした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」。 わしはそのサントラ盤を友人から借りて聞いてみたが、あんまり楽しめんかったな。 じゃが1曲だけオキニがあった。 それがイヴォンヌ・エリマンなる女性シンガーが歌った
「キャント・ハブ・ユー」。 「これだけはよぉデキタ曲じゃのお〜」などとエラソーにのたまわっておったら、何と!いつの間にかシングル・カットされて全米1位になってしもうて、これにはわしも驚いた! わしの感性と世間様の感性が一致した当時の数少ない例じゃったな。
 このイヴォンヌ嬢、どっかで聞いた名前じゃな〜と思うとったら、エリック・クラプトン・バンドのバック・コーラス隊のお一人だったんじゃ。 クラプトン・バンドの時は、御覧の通り(←)泉ピン子さん似(?!)の“村一番のイモ掘りネエチャン”みたいなお姿じゃったが、この曲の大ヒットで一気に垢ぬけてしもうた! 女ってのは変われば変わるもんじゃのお〜と、当時の七鉄青年はびっくらこいたもんじゃ。



■リッキー・リー・ジョーンズ■

 前回特集の「ジャケ買い」で取り上げてもよかったが、わしはジャケットの良さで彼女のLP「浪漫」を買ってしまい、デビュー曲にして大ヒット曲になった
「恋するチャック」はその後にオキニとなったのじゃ。 今でも“酒欲増進剤”として重要な一曲なんじゃ!
 実はこのお方も、前出のイヴォンヌ嬢同様、どこかで見た気がしてのお。 そうしたらやはりわしの記憶は正しかった。 リッキーはデビュー前の一時期、“酔いどれピアニスト”として人気のあったトム・ウエイツの彼女であり、トムのアルバム「ブルー・バレンタイン」の裏ジャケ(→)に映っておったのじゃ。(ジャケットはスカーレットじゃった!)
 一度見た“いい女”の記憶ってのは薄れることはないな!って当時は何の足しにもならんクダラン自信をもったが、ガッコの勉強もこれぐらいオツム良かったらな〜。

 インターネットも映像作品も無かった70年代、本当にラジオ番組が熱かった! 「全米トップ40」の他では、NHK-FMの「軽音楽をあなたに」なんかで話題のアーティストのLP収録曲の大半をチェックできたりと、まさにラジオは音楽ファンにとって必需品、無二の親友じゃった。 そしてラジオが生んだ、「American Top 40」が生んだスバラシキ「一発屋」たち。 機会があれば、「一発屋」たちのその後なんかも語ってみたいもんじゃ。
 さてさて、スバラシキ過去を満喫したら、現実に立ち向かう勇気が湧いてきおったわい! モウショ ニモ マケズ ダークレッド・パンツをかまして、都会の雑踏へ繰り出すぞおー! 2010年真夏の夜に蘇った熱きロックンロール・フィーリングを炸裂させるぞおー。 皆さんご承知の通り、The-Kingは一発屋ではなく、ひとつひとつのステップを登ってきておるぞ。 東京スカイツリーが完成する頃には、本気モードで攻めてくるに違いない!
 




七鉄の酔眼雑記〜真夏の夜の夢?!少年時代のバイブルと35年ぶりの再会!

 (←)この2冊の本はな、わしの少年時代のバイブルだったんじゃ。 2冊ともわしは60年代の半ばに初版本を親に買ってもらった記憶がある。 一時期、勉強もせんとこればっかり読んでおったので、両親に隠されたか、捨てられたかで、いつの間にかわしの前から消えてしもうていた。 もちろん、とっくの昔に廃刊になっておる。 ところがつい先日、あるルートを通してゲットできたんじゃ。 35年ぶりくらいの再会ではないじゃろうか。
 保存状態も大変よろしく、手にした時は夢でも見ておるような気分になり、気が付いたら夜通し読み耽っておった。 ものの見事に小学生の頃の自分に回帰しておったよ。 譲って下さった方に感謝状を書いたら、「感謝状返し」まで頂いてしもうたよ!
 実はな、ロックとロック・ファッションをこよなく愛する他に、わしにはもうひとつの「顔」がある! それは「ベースボール・レコード・マニア」、「野球記録オタク」の顔じゃ。 その出発点となったのがこの2冊なんじゃな。 今ではブ厚い広辞苑並みの記録集を愛読するわしじゃが、この2冊で基礎ってヤツをしっかりと学んでおるから、「野球記録広辞苑」なんざちっとも怖くない!

 表紙やタイトルだけ見ると「小学生向け」の初歩的な「野球ガイド」のようじゃが、実の内容は大人にも読み応えのある充実した内容じゃ。 んで小学生だったわしがもっとも夢中になったのは、この2冊の中に半ば付録的に掲載されていたプロ野球の「歴代記録集」じゃった。 年度別優勝チーム、首位打者、ホームラン王、最多勝利投手などが集められており、「技術指導編」なんかよりもこっちに夢中になってしまったんじゃな。 まるでスポンジがすぅ〜と水を吸い込むがごとく、小学生のわしの頭ん中は「野球の記録」でいっぱいになっていったのじゃ。 ついでに選手名を覚えることで、漢字の勉強にも大いに役立ったんじゃな。
 2年前の夏じゃったか、プロ野球がTV放映される時に「セ・パ両リーグ誕生60周年企画」と題して、イニングの合間に古い記録のクイズがテロップにて画面に出題されたんじゃが、難なくスイスイと言い当てていくわしに、家族の者は唖然! 居酒屋でもこの特技を披露していたら若い女性客から「キモイじいさん」みたいな目で見られてしもうた。 あの時のクイズの答えは、ぜ〜んぶこの2冊の記録集に掲載されとったよ! まだまだわしの脳みそは衰えておらん!って自信をもったもんじゃ。
 昔は「小学生」相手の本でも、一冊の内容のレベルが高かったと思う。 一般販売される書籍の絶対量が少なかったから、当然内容は吟味されており、子供にも大人にも役に立ち、こうしてジジイになっても読み返したくなる書籍が多かったのお。  若返りの秘訣として、こんな自己啓発も悪くはないじゃろう。 今回は運良くタダ同然で入手できたが、 少年期の愛読本なら少々値が張ってもええ、と新しいお金の使い方を決めた!




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