8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.96
                                                                                       
              
           50年代のニュー・オーリンズR&B

 こんばんわんたんめん!コンガ8鉄です。
なんか違うが、気にしない!ロックンロール工房部の工場長やまりりんの登場により、スッカリ影と髪も薄くなり、後ろから肩を叩かれそうでオロオロしているエロティーチャー! あなたの8鉄! わたしの頑固8鉄をお忘れなくどうぞ!  さてさて、フランス軍楽隊のブラスバンドにセカンドラインビート、ラテン音楽のシンコペーションなどをガンボのようにごった煮にして、煮詰めたようなニュー・オーリンズ音楽は、世界3大珍味のひとつ!
以前書いた、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、ボビー・チャールズは、にニュー・オーリンズ・リズム&ブルース界隈から出て、世界的な活躍をしたアーティストですが、50年代のニュー・オーリンズには、彼ら以外にも素晴らしい人たちがたくさんいます。
そんな中から、今回は、わたくしのお気に入り2大アーティストをご紹介。

 ★スマイリー・ルイス

 我が国にも、「スマイリー・小原」っていう、粋な「踊る指揮者」がいましたが、ルイスさんも、世界に名だたるニュー・オーリンズ音楽の人ですから、はじめから粋そのもの。
スマイリー・ルイス(オヴァートン・エイモス・レモンズ)は、40年代から50年代にかけて活躍した野太い声のブルーズ・シャウターで、そのバイタリティと暖かみのある、おおらかな歌声は、スマイリーというステージネームそのままの明るさに満ちたものでした。
「ルイスは、ニュー・オルリンズで最も不運な男だった。彼は1952年に出たスローなブルース曲、「ベルズ・アー・リンギング」で、小さなコンボをバックに歌って名声を得たが、同じようなスタイルだった後続のファッツ・ドミノの大成功の影に隠れてしまい、大きな成功とは生涯無縁になってしまった。」と、後年、ジャーナリストのトニー・ラッセルが記しています。
ルイスは、ルイジアナ州のレイクチャールズ近くにあるデクインシーという小さな町で、3人兄弟の2番目として生まれました。母のリリー・メイは、彼がまだ小さいときに亡くなっていますが、後年、ルイスは母のことを歌った「リリー・メイ」という歌を残しています。10代のとき、友達と機関車に乗っては加速する前に飛び降りる遊びをしていたルイスは、降り損ねて、そのままニュー・オーリンズまで行ってしまったのだそうです。そのとき、たまたま乗り合わせたアイリッシュ系の家族に気に入られたルイスは、その家族の姓をそのままステージネームにし、前歯がないことから付けられたニックネーム「スマイリング」と組み合わせて、スマイリング・ルイスと名乗るようになります。その後、家族とともにニュー・オーリンズに引っ越した彼は、ギターの腕前を活かして、フレンチ・クオーターにある様々なバーを回り、チップを稼ぐ生活を始めました。
なんだか、古い時代を舞台にした渋いアメリカ映画みたいな展開だなあ。
1938年、結婚したルイスは、奥さんの実家で暮らし、子供が生まれてからは、飲み屋街に引っ越して、日雇い仕事をしながら、夜はバーでギターを弾き、歌うようになります。
「俺は、昭和の枯れすすきぃ〜♪」「おっ!いいぞ!次は帰り船をやってくれ! んで次はお富さん!!」
なんてやりとりが聞こえて・・こないって?そらそうだ、ここはニュー・オーリンズだもん、ダンナはん。
第二次世界大戦が始まると、ルイスは兵役に就き、従軍慰安のためのバンドに参加する傍ら、ブーギウーギ・クラブのハウスバンドのメンバーとして活動。終戦後は、そのまま、フレンチ・クオーターのバーボン・ストリートで演奏する生活を続けました。



1947年、デラックス・レコードに招かれたルイスは、ローカル・ヒットを出しますが、デイブ・バーソロミューの誘いでインペリアル・レコードと契約。ここから、1952年に出た「ザ・ベルズ・アー・リンギング」がとうとうR&Bチャートでヒット。1954年には、後にファッツ・ドミノのヴァージョンで有名になる「ブルー・マンデイ」(作者はバーソロミュー)のオリジナルを吹き込み、翌1955年には、ヒューイ・ピアノ・スミスのピアノをフィーチャーした「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」をリリース、R&Bチャートでヒットを記録しました。
その後、インペリアルの社長、ルー・チャッドの提案で、ロックンロール・ブームにコバンザメのごとく便乗したポップソング路線で行こうということになりましたが、結局、うまくいかず、60年代に入ってからは、リー・ドーシー、アーマ・トーマスといった新しい時代のアーティストたちの前座を務める程度の存在になっていきました。古くから活躍した先駆者だったけれども、スターという立場に立つことは一度もなく、ステージに行くにも路線バスを使っていたそうです。
その後、ルイスは、オーケー、ドットといった古参レーベルを転々としますが、65年に胃癌で亡くなりました。
ルイスのインペリアル時代のシングルは、それぞれ10万枚以上売れたことはありませんでしたが、ファッツ・ドミノ(「ブルー・マンデイ」)、ゲイル・ストーム、デイブ・エドモンズ(「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」)、エルヴィス・プレスリー(「ワン・ナイト」)、さらには、エアロスミス(「シェイム・シェイム・シェイム」)など、他のアーティストがカヴァーしつづけ、今日では多くがスタンダードとなっています。



 ★ヒューイ"ピアノ"スミス
ピアノ・スミス
 なんだ?こりゃあ?っていう、ニュー・オーリンズ発の冗談珍品R&Bの代表みたいに思われてますが、実際のところ、1950年代のニュー・オーリンズ音楽の一番おいしいところを一手に魅せてくれるのが、ヒューイ"ピアノ"スミス&ザ・クラウンズ。
彼らの2大レコードは、お笑いビョーキネタソングの「ロッキン・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー(ロッキン肺炎とブギウギ風邪)」(1957年)、同じくビョーキネタの「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(高血圧)と両面ヒットになった「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」(1958年)。どちらも、立派なミリオンセラーで、ゴールド・ディスクになっています。 

 ピアノ・スミスの演奏スタイルは、当時大変な影響力を持ち、ロックの形成にも大きな役割を果たしたと言われています。それは、ピート・ジョンスン、ミードラクス・ルイスといった古いブギウギとジェリー・ロール・モートンのジャズなどを基にし、そこにニュー・オーリンズR&B特有のセカンドライン・ビートを効かせたスタイルの先駆者であるプロフェサー・ロングヘアのスタイルを踏襲したものでした。しかし、どのヒットも目立ったピアノソロを弾いていないところが渋い、といえば渋い。それより、ピアノ・プレイなんぞよりも、曲そのものがおもしろいかどうかの1発勝負に持ち込んでいるところが潔いと思います。

1934年、ニュー・オーリンズ生まれのヒューイ"ピアノ"スミスが最初に歌を書いたのは、8歳のときで、15歳のときには、ギターのエディ・ジョーンズ(後のギター・スリム)と組んで、ライブ活動をして有名になりました。1952年、18歳でサヴォイ・レコードと契約。53年には、後のニュー・オーリンズ・ファンクの始祖のひとり、アール・キングとも吹き込みをしています。
1955年、スミスは21歳で、スペシャルティ・レコードの新進スター、リトル・リチャードの最初のピアニストになりました。また、同年、ロイド・プライスをはじめ、ニューオーリンズきってのR&Bチャートで大ヒットアーティストたちのレコーディング・セッションに参加、特に「ゾーズ・ロンリー・ロンリー・ナイツ」(アール・キング)、「アイ・ヒア・ユー・ノッキング」(スマイリー・ルイス)は、とりわけヒットになりました。
そして、1957年、ついに、女声ボーカルそっくりに歌う風変わりな男性ボーカリスト(?)、ボビー・マーチャンと組んで、自身のグループ、「ヒューイ・ピアノ・スミス&ザ・クラウンズ」を結成。スペシャルティ・レコードのプロデューサー、ジョニー・ヴィンセントのエイス・レコードと契約し、脳味噌が溶けてしまったようなサウンドの「ロッキン・ニューモニア〜」をはじめ、馬鹿馬鹿しくも楽しげな、50年代ニュー・オーリンズを代表する傑作を次々にヒットさせました。
1958年には、「リトル・チキン・ワーワー」、「ウエル、アイル・ビー・ジョン・ブラウン」、「ドント・ユー・ノウ・ヨコモウ」、「リトル・ライザ・ジェーン」などが続き、「ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット」「ハイ・ブラッド・プレッシャー」で2枚目のゴールド・ディスクを獲得。
1959年には、フランキー・フォードがスミス作の「シー・クルーズ」(実際は、スミスのボーカル・パートをフォードのボーカルに入れ直しただけ)がポップ・チャートで大ヒットと快進撃が続きました。
60年代に入り、スミスは、デイブ・バーソロミューの誘いで、インペリアルに移籍しますが、ヒットは出ず、何度かカムバックを果たそうとしましたが、うまくいかずに「エホバの証人」に入信して、音楽業界を去りました。この手の音楽ファンとしては、大変残念なことですが、スミスはその後、まったく姿を見せることなく現在に至っています。

 さて、当時のニューオーリンズには、ほかにも、フロッグマン・ヘンリー、プロフェッサー・ロングヘア、アール・キング、リー・ドーシーといったアーティストから、デイブ・バーソロミューやアラン・トゥーサンのような名プロデューサー、世界的に有名なスタジオ・セッションマンのリー・アレン、フランク・フィールズ、アール・パーマー、有名な裏方さんのコジモ・マタッサなどなど、キリがないくらい重要人物がいますが、それはわたくしの肩叩きが無ければまたの機会に!こうして彼らの写真を改めて見ると、さり気なくニットタイをしているスマイリー・ルイスに蝶タイのピアノ・スミス、THE KINGではこのような必須アイテムもしっかりリリースしてまいりましたね。アメリカはじめカナダやニュージランドあたりのショップからもTHE KINGの製品を卸してけれーってハナシがジャンジャン来ているようでありますが、全てお断りしているらしいですよ! わたくしもこれ以上ライバルが増えて欲しくありませんし、
あまり宣伝して欲しくないのよね、ここんちのお品は!  ほな、みなさん、ごきげんようさようなら!!


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