8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.90
                                                                                       
              
         美しき国境―テックス・メックス音楽
 
 みなたま、こんにちわんだふる! 祝! 東京スカイツリーオープン!  祝! わたくしのこのコーナーも90回!の頑固8鉄です。
今回は、ラテン音楽でありながら、アメリカ南部特有の音楽でもある、テックス・メックス(テハーノ)音楽のご紹介。
レス・ブランクが1976年に撮った「美しき国境」「CHURAS RONTERAS)。
アメリカ合衆国テキサス州とメキシコ共和国ヌエボ・ラレード州の国境地帯の両側で演奏される土着の音楽(アメリカ側ではテハーノ、メキシコ側ではノルテーニョと呼ばれる)を扱ったドキュメンタリー映画です。
現在も不変の人気があるジャンルで、多くの有名アーティストがいますが、このドキュメンタリーでとりあげられたミュージシャンたちは、みなテハーノ音楽の創世記に重要な役割を担った人々ばかりでした。当時のメキシコ系アメリカ人のほとんどが貧しく、音楽にお金を払うことができなかったために、演奏者側である彼らの多くは、音楽では十分な収入を得ることはできず、様々な職業につきながらも、歴史にその名を残しています。

ナルシソ・マルティネス

 いったい誰なの? こちらのおとっつぁんは? って思われるナルシソ・マルティネスは、コンフント音楽の父と言われるアコーディオン奏者。
1911年、メキシコ、タマウリパスのレイノサ生まれで、生まれてすぐに両親がアメリカに移民。一家は農家の手伝いをして生計をたてていたため、いろいろな街を転々として過ごしたようです。やがてアコーディオンに興味を持った彼は、1930年ころから演奏をはじめ、35年から、優秀なバホ・セスト(メキシコ式12弦バス・ギター)奏者のサンチャゴ・アルメイダとデュオを組みます。
マルティネスは、右手のメロディーボタンのみでコードを含むソロを演奏し、それまでのアコーディオン奏法では当たり前に使っていた左手ボタン(コード&ベース)を放棄してアルメイダのバホ・セストに任せました。左手とのコンビネーションから解放されたことでメロディーパートを変幻自在に操ることでできるようになり、これまでになかった非常にすばやく、ノリのいい演奏を聴かせました。この変革は後続のアコーディオン奏者ほぼすべてに採用され、今日でもテハーノ・アコーディオン奏法の主流となっています。
1936年、マルティネスとアルメイダは、ブルーバードとRCAでレコーディングをし、最初「ラ・チカロネラ」が大ヒットとなりました。ブルーバードでは40年代に入るまで、たくさんのインストルメンタルを作曲、演奏し、評判を呼びました。
1946年になると、イディール・レコード専属のアコーディオン奏者となり、様々なアーティストの伴奏者としても有名になりますが、ブルーバードとRCAの自己名義のレコーディングは、テキサスを飛び出して全国区で有名になっていきました。このころから、彼は、すのすばやくトリッキーなプレイスタイルから、「エル・ウラカン・デ・ヴァイェ」(峡谷のハリケーン)として知られるようになっています。
しかしながら、そうした、革新的で優れた音楽活動にも関わらず、音楽では十分な収入を得ることはできず、生涯通じて、トラック・ドライバーや動物園の飼育係として生計を立てていました。
60年代に入ると、新しいスタイルのコンフント音楽ミュージシャンが続々と登場してきますが、マルティネスはパイオニアとしての名声を維持し、1980年代には、ナショナル・ヘリテイジ・アゥオードをはじめ、次々に受賞。1991年には、テキサス州が、ナルシソ・マルティネス・サン・ベニート・カルチュアル・アート・センター設立。
マルティネス本人は、1992年に亡くなりましたが、今マルティネス・アート・センターでは、日でも名を冠したフェスティバルが定期的に開催されるなど、テキサス・メキシカンの歴史的偉人として、多くの人々の記憶にとどめられています。



                                       ☆リディア・メンドゥーサ

「それが、物語歌であれ、ワルツであれ、ポルカであれなんであれ、関係ないの。私は歌を歌うとき、その歌を生きるのよ。」
「ラーク・オブ・ザ・ボーダー(国境のヒバリ)」と呼ばれたリディア・メンドゥーサは、テハーノ・ミュージックで最初にスターになった女性歌手。1930年代のことでした。
彼女は、1940年代と50年代に、北米と中米エリアのラテン音楽にたいへんに大きな影響を持ちました。
現在、79歳になる、テキサス州のサンアントニオの名士であり、デル・ブラボー・レコード・ショップのオーナーであるサローメ・グティエレスは、回想します。
「彼女の歌をはじめて聴いたのは、1950年のことで、場所はメキシコのヌエボ・ラレードだったよ。メキシコの人気女性歌手やブラジルの歌手もいたね。だけど、リディアが最高だった。」
グティエレスは、リディアと親しくなり、現在でも彼女の使用していたギターやステージ用のドレス、当時の宣伝用看板など、さまざまな記念品を保管しています。
リディア・メンドゥーサは、テキサス州ヒューストンで生まれ、メキシコ人の両親に育てられました。11歳のときに、メンドゥーサ・ファミリー・バンドの一員としてレストランや街角で演奏して、投げ銭をもらうようになります。一家は、ビーツ・ピッカーをしていましたが、バンドのほうが手っ取り早く儲かるくらい、地元の売れっ子だったそうです。バンドだけで十分食べていけるくらいだったというから、相当なものです。
1934年、明るい歌声としっかりしたギター演奏でめきめき人気が出たリディアは、ソロで、タンゴ曲の「マル・オンブレ」を吹き込んで、地元でヒットします。
当時、グループ(ファミリー)から離れて、ソロでギターの弾き語りをするテハーノの歌手というのは、あまりおらず、ましてや、女性歌手となるとかなり珍しい存在でした。
もうひとつの大きな特徴は、彼女の歌唱法。有名ラテン歌手に多い、専門の教育を受けたオペラ的な歌い方ではなく、彼女はごく自然な歌い方をし、「貧しい人々のためのテハーノ歌手」と呼ばれたのでした。映画の中のインタビューで、リディアが述べた言葉、「歌に生きる」の意味は、残された彼女のレコードを聴くと、誰にでもわかると思います。
なお、リディアのレコードで聴けるアコーディオンの伴奏は、ナルシソ・マルティネスで、彼はその後、テハーノ音楽の一形式であるコンフント音楽の元祖のひとりとして歴史に名を残すことになります。
1999年に、長年の功績が讃えられ、ナショナル・メダル・オブ・アーツを受賞したリディア・メンドゥーサは、2007年に91歳で亡くなりました。


ドン・サンチャゴ・ヒメネス

 サンチャゴ・ヒメネス(ドン・サンチャゴもしくはサンチャゴ・シニア)は、1913年、サンアントニオの生まれ。
父から8歳でアコーディオンを教わり、20歳でラジオ番組で演奏をはじめ、1936年にデッカからレコード・デビュー。トトロチェ(ダブル・ベース)、ダイアトニック式アコーディオン、バホ・セストという、現代でもスタンダードになっているコンフント編成で吹き込んだ最初のレコードでした。
ドン・サンチャゴは、インペリアル、メキシカン・ヴィクターなどでも吹き込みをし、コンフントアコーディオン音楽の古典「ラ・ピエドレラ」、「ヴィヴァ・セギン」など、たくさんのローカル・ヒットを出しています。
1976年にチューラス・フロンテラスで再び世間に紹介された彼は、77年に息子のフラーコ・ヒメネスとレコーディングをしますが、1984年に亡くなりました。
彼が使用したのは、ホーナーの2ロウ(2列)ボタン式ダイアトニック・アコーディオンで、その伝統的で素朴な暖かみのある音楽は、息子のサンチャゴ・ジュニアに引き継がれ、時代の変遷に流されない古典として今でも多くの人に愛されています。





 ☆ フラーコ・ヒメネス

レオナルド"フラーコ"ヒメネスは、1939年テキサス州サンアトニオの生まれですから、今年で73歳のスクイーズ・ボックス(アコーディオンのこと)の王様です。

子供のころ、やせていたことから、父に、「エル・フラーコ(スペイン語で、やせっぽちの意)」とニックネームがつけられました。しかし、もともとはサンチャゴ・ヒメネスのステージ・ネームなので、父から芸名を譲り受けたことになります。
父のバンドで7歳から修行を始めたフラーコは、オーセンティックなアコーディオン奏法をもとに独自の個性的なスタイルを編み出し、60年代にテキサスのロックバンド、サー・ダグラス・クインテットに参加して有名になりました。
次に、映画「チューラス・フロンテラス」に写されたフラーコの見事な演奏に感服して全米に彼を紹介したのは、ライ・クーダーでした。(アルバム「チキン・スキン・ミュージック」)。
それをきっかけに、世界中をツアーしながら、有名アーティストになっていったのですが、サンアントニオの伝統的なコンフントスタイルを離れることはなく、1986年には、父サンチャゴの曲「アイ・テ・デホ・エン・サンアトニオ」でグラミーを受賞。
オーギー・メイヤーズ、ダグ・サーム、フレディ・フェンダーと組んだテキサスのスーパー・グループ、テキサス・トルネードウズでも90年にグラミーを受賞し、さらに、1996年、1999年もベスト・メキシカンーアメリカン・ミュージック・アワォードを受賞。世界で最も有名なテハーノ音楽家、アコーディオン奏者となっています。

要するにこっちの方がウケそうだぁぁぁぁ! なんてウケ狙いで世間の顔を見ながら、音楽をするのではなく、自分自身の音楽を愛し続け、ブレる事無く突き進んだ立派な方なのであります! このようなミュージシャンこそ我々はもっと評価するべきではないでしょうか?と思う3年H組の担任、頑固8鉄でありました。 それでは、みなさま さようなら さようなら さようなら!

 ブレる事無く突き進んでいるのはTHE KINGも同じ!
シャツを新調して、いいえスーツもいいですよ! リフレッシュ気分でこの時期外出しましょうね。


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