8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.84
                                                                                                                                   
                       最も有名な「ロックンロール写真」〜 アーセル・ヒッキー


 みなさん、こんにちは。頑固8鉄です。
お頑固?じゃないや、お元気?

さてさて、アーセル・ヒッキー。
誰だ、そら?

焦る引き籠もりくん?

え?知ってる?さすが、THE KINGの読者様!
 
いえいえ、わたくしは、今まで知らなかったのですよ。
だけど、歌を聴いたことなくても、どこの誰なのか知らなくても、きっと、この1枚の写真は見たことがある。私もそのひとり。35年も前からよーく知っている写真なのに、果たして誰なのか、今まで知らなかったのです。

 「ロカビリーの殿堂」によれば、この人、「ワン・ヒット・ワンダー」(いわゆる一発屋)ならぬ、「ワン・ポーズ・ワンダー」(一写屋?)として有名な方でした。もちろん、ちゃんとした音楽家で、殿堂入りもしている偉人です。
この写真は、1976年に出版されたローリング・ストーンの「イラストレイテッド・ヒストリー・オブ・ロックンロール」の扉に使用されたものです。私も出版された当時、おこずかいを貯めて、洋書を買いましたし、今でも持っています。この有名な、70年代までのロック全体の歴史を綴った歴史書の始まりを飾ったのは、エルビスではなくて、ヒッキーの写真だったわけです。
今眺めても、実にインパクトがある写真で、「50年代のロック・ファッション」の代表的なイメージ写真のひとつと言っていいのではないでしょうか。ね?The-Kingさん?ボクの例のナッソーちゃんととって置いてくれてますよね??

さて、「ロカビリーの殿堂」から公認されるほど、たった1枚の写真だけで知られるアーセル・ヒッキーとは、どんな方なのでしょうか?殿堂のHPなどで調べてみました。


 アーセル・ヒッキーは、1934年、ニューヨークの医師の息子として生まれたのだそうです。恵まれた家庭、というわけでしたが、アーセルがわずか4歳の時に父が亡くなり、母は神経を病んで、入院したままとなり、ホームに預けられたアーセルは、そこで育ちました。15歳のときから、ダンサーだった姉と一緒に、カーニバルなどで、旅回りをする芸人生活をしますが、その姉も交通事故で失ってしまい、叔母の家で暮らすことになります。
なんとまあ、ずいぶん苦労した人だったのですね。

 1954年のあるとき、エルビスの「アイ・ドント・ケア・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン」を聴いてロックンロールの大ファンになったヒッキーは、芸人生活で磨いた歌とギターで、地元のファイン・レコードに吹き込みをするところまで行きますが、まったく何も起こりませんでした。よくあることですよね。そんなに誰も彼も有名になれるはずもない。でも、音楽は大好きだ。若いし、リーゼントも決まってるし、なかなかハンサムなナイスガイだ。そう簡単に諦めちゃわないでしょう。
1957年になり、たまたまコンサート会場で、おなじみエヴァリー・ブラザースのフィル・エヴァリーと出会い、アドヴァイスを求めます。
「あのう、僕は、僕は、どうしたら有名になれますかっ!?」「えーっとね、何か自分で書いた曲を持っておいでよ。」とフィルに言われたヒッキーは、その夜、「ブルーバーズ・オーヴァー・ザ・マウンテン」を書きました。書いたはいいけれど、エヴァリーはもうツアーに出てしまっているし、メジャー音楽業界にコネもなにもないヒッキーは、売り込む際に、どうしたらいいかさっぱりわからず、とりあえず、業界人の経営するスタジオで、売り込み用の写真を撮った。それがこの有名な1枚だったのだそうです。
膝を曲げて、ギターをマシンガンのように構えてとったポーズは、ヒッキー自身のアイデアだったと言われています。ギブソンのゴールドトップES295もかっこうよく決まっています!
ご覧の通り、残念ながら、モノクロ・フィルムで撮られていて、カラーは存在しません。普段は、ブラックやグレイのスーツ、ブラックのシャツにホワイトタイといったスタイルだったそうですが、彼自身の記憶によると、このフォトセッションのジャケットはオレンジ、イエローのライニング付き、パンツはラスト(煉瓦色)で、ステッチが入っていたそうです。
そして、この写真をとったラヴァーンという人物がアーセルに音楽マネージャー兼ベース奏者のマイク・コーダを紹介し、コーダが「ブルーバーズ〜」のレコーディングをセットしたのです。が、しかし、またしても何も起こりませんでした。
「なーんだ・・やっぱり、だめか・・」
アーセルは、叔母の家に戻り、何か仕事に就くことを考えます。だけど、やはりショウ・ビジネスを夢みる彼は、有名なクラブであるタウン・カジノ(ディーン・マーティン&ジェリー・ルイスが出演したり、サム・クックが出たりしていた)に行き、オーナーの紹介で、キャブ・キャロウェイが出ていたグレン・カジノのラウンジで働くことにしました。そんなある日、エピック・レコードが「ブルバース〜」に目を止め、自社で再レコーディングをして、リリースしたいと申し出てきたのです。
photo 3
これが運良く、アメリカのヒットチャートの75位に入ります。そして、翌年、リッチー・ヴァレンスがカヴァーしたり、ずっと後の、1968年にはビーチ・ボーイズがトップ100に持ち込むなど、大ヒットというわけではないけれど、よく知られた曲になっています。

Ersel Hickey - Bluebirds Over The Mountain


Ersel Hickey.....You Never Can Tell

続いて58年から59年にかけて様々な曲を書き、吹き込みますが、ヒットは出ず。60年にはエピックとの契約が切れて、カップ・レコードに移り、自作自演するよりも、他のアーティストに提供する曲作りに精を出すようになります。
そして、結果として、R&Bの大物ジャッキー・ウイルソン、ラヴァーン・ベイカーに曲を提供するなど、ソングライターとして活躍。
ヒッキーは、その後、ロカビリーの殿堂入りもし、2004年、70歳で亡くなりました。


あー、なんだか、このアーセルの写真と同じナッソーとパンツなどあればなー、などと空想してしまったあなた。「アーセル・ヒッキー・モデル」(しぶーい!)リクエストなど出してみてはいかが?(結果どうなるか知らんけどもー)


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