8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.81 |
50〜60年代のアメリカン・ガール・ポップ こんばんはー、お腹に優しい頑固8鉄です。 何を言いたいんだか、自分でもわかりませんが、今回は、50〜60年代に活躍したアイドル歌手(ガール・ポップ)をご紹介。といっても、THE KINGの読者なら、とっくにご存じでしょうが、中年になって改めて聴いてみると、「理屈抜きでいいなー、ズッヘッヘー!」なーんて気分になりますから、お勧めのことあるよ〜! まず、トップバッタ、いや、イナゴちゃうね、トップバッターはこのおねいさん! ☆コニー・フランシス フランシスは、我が国でも「カラーに口紅」や「ヴァケイション」がカヴァーされて、知名度が高い人ですが、50年代後半から60年代前半にかけて、トップ10に12曲を送り込んだ女性歌手。これに匹敵するのは、ブレンダ・リーだけです。 アマチュアコンテストに出場した当初、イタリア系の人らしく、アコーディオンを抱えた歌手「コンスタンス・フランコネロ」だったのですが、もっと覚えやすい名前にしなさいな、とアドヴァイスされ、「13歳のフランシスちゃん」になった彼女は、MGMからデビュー。1955年のことでしたが、その後もぜんぜん当たらず。 MGMもクビにしたがってるし、大学行くことにして、歌手やめちゃおっかなー、とか思いつつ、これで最後だあ、と吹き込んだ「フーズ・ソーリイ・ナウ」が思いがけないヒットになり、1958年にとうとうミリオンセラーになりました。 その後、ニール・セダカ&ハワード・グリーンフィールドのソングライターコンビが書いた「ステューピッド・キューピッド」がトップ10入り。セダカ&グリーンフィールドは、「フォーリン」、「ホエア・ザ・ボーイズ・アー」も提供して、どちらもヒット、さらに、「リップスティック・オン・ユア・カラー」、「フランキ−」とヒットが続いて、コニー・フランシスは、最も多くのトップ10ヒットを生み出す女性歌手となっていきました。 ティーン・ポップではなく、大人の歌手として大成する決定打となったのは、1959年にペリー・コモ・ショーで歌った「ママ」で、レコードはイタリア語と英語の両方で歌われたものが発売されてどちらも大ヒットし、以後、たくさんのアルバムを他国籍語ヴァージョンで吹き込むことになります。 1961年には、自身のテレビショーを持ったり、流行のバラエティ番組に出たり大活躍、映画界にも進出(ボーイ・ハント)、エルビスと同じように大スターへの道を歩んでいきました。彼女が売ったレコードはアメリカ国内だけで9000万枚にも及びます。 しかし、イギリス大襲来で影が薄くなり、最後のトップ10ヒットは、62年の「ヴァケイション」となりました。 しかし、今、tubeで、当時のライブ映像を見ると、その圧倒的な歌唱力に驚愕します。稀代の大歌手、といっていいのではないでしょうか。 CONNIE FRANCIS IN BERLIN '61: "WHERE THE BOYS ARE" - LIVE! ☆ブレンダ・リー リーは、ジョージアの貧しい家庭出身で、わずか6歳で地元の小学校で注目を集め、ラジオショーに出演するなど、子供の歌手としてデビューしています。 わずか10歳で、父が亡くなり、一家の稼ぎ手としてカントリー&ウエスタンの世界で活躍し出すという、大変な苦労人だったようです。 そして、1955年、有名カントリーシンガーのレッド・フォーリーに見いだされた彼女は、翌年、わずか12歳で、デッカと契約。5フィートに満たない小柄な体格でよく響く大きな声を持っていたので、「リトル・ミス・ダイナマイト」として、カントリー界のスターへの道を歩き出しました。 しかし、時代はロック期に入っており、カントリーよりもポップチャートで大ヒットを連発し、世界的スターへと躍り出ます。 1958年から1962年にかけて出た「スイート・ナッシンズ」、「オール・アローン・アム・アイ」、「フール・ナンバー1」、「ユー・キャン・ディペンド・オン・ミー」など、出すレコードがことごとくトップ10に入りました。 特に、1960年の代表作「アイム・ソーリー」は有名。 その後、1970年代以降は、再びカントリー音楽界に戻り、現役で活躍中です。 Brenda Lee - I'm Sorry ☆レスリー・ゴーア 「涙のバースデイパーティ」、元のタイトルは「イッツ・マイ・パーティ」って言うんですけど、日本でもヒットしましたから、覚えている年配の方も多いんではないかしら。 歌ったのは、レスリー・ゴーアというアメリカの女の子で、当時、まだ16歳だったそうですが、本国では、彼女は単なるアイドルではなくて、1960年代のティーン・ポップを代表する歌手として今日でも有名です。 さて、ゴーアは1946年、ニューヨーク生まれ。有名なヒット曲に、「サンシャイン・ロリポップス・アンド・レインボウズ」というのがあり、いかにもカリフォルニアの明るくさわやかな風を連想させる曲なんですが、実は薄ら寒い東海岸出身の人なんですね。ちょっと意外です。ゴーアはユダヤ系の都会育ちで、お父さんは成功した衣料品製造会社の経営者でした。 最初の大ヒット「イッツ・マイ・パーティ」は、彼女が女子校に通っていたときのもので、キャッチーなメロディと当時にしては斬新なコード展開の曲調、それを見事に歌いこなしたゴーアの歌唱力が相まって、「アイドルが一応歌も唄ってみました」的なノリを超えた見事なものでした。結果、後にグラミーにノミネートされたりしています。 その後を追って出た、「イッツ・マイ・パーティ」の続編ともいえる内容の「ジュディズ・ターン・トゥ・クライ」、「シーズ・ア・フール」、して、当時としては際立って風変わりな歌詞で、フェミニズムの走りともいえる「ユー・ドント・オウン・ミー」、「メイビー・アイ・ノウ」、「ルック・オブ・ラブ」とトップ10ヒットが続き、ポップス・アンド・レインボウズ」で再度グラミーにノミネート。プロデューサーは、駆け出しのころのクインシー・ジョーンズでした。 しかし、彼女はそのままゲーノージンになってしまうことを選ばず、大学に進学します。歌手活動は週末だけ。当時の大ヒット歌手にしては全く異例のことで、あっさり消え去るかと思われていたようですが、結局、60年代を通じて、世界的に最も成功した女性歌手となっていったあたりに、この人の並ではない実力を見て取る事が出来ます。 やがて、60年代も終わり、サイケディックの時代がやってくると、さすがに古き良きティーン・ポップの伝統をひっぱってきていたゴーアも人気を失っていきました。1967年のお馬鹿映画「バットマン ザ・ムービー」でプッシーキャットに扮して出演した際に歌った「カリフォルニア・ナイツ」が最後のヒットとなりました。 Lesley Gore TAMI SHOW いずれにせよ、50年代、60年代に彼女たちが歌い、残した録音の数々は、50年以上を経過した現在聴いてみても、存分に楽しく、ワンパターンだの絵空事だのとどんなに批判があろうと、このキュートで明るいサウンドは、思わず耳をそばだててしまう魅力に満ちていることは確かだと思います。 ヴィヴァ!ガール・ポップ! |