8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.80
                                                                                                                                

 
  ドゥーワップ株式会社物語〜ザ・ドリフターズ



 頑固8鉄なんですけどもね、ザ・ドリフターズ、なわけですよ。

オーッス!ババンババンバンバン♪・・・歯みがけよー・・・じゃあないんですけども。

やあ、困ったなあ、これは。聴けば極楽、観れば天国、語るは地獄・・なんですよ、ドリフターズはね。これは無理だぜ、ベイベエー、ってことで避けてきたんです。

理由は簡単で、ニューヨークで1953年に結成されて以来、最もよく知られているドゥーワップ〜R&B〜ソウルヴォーカル・グループなんですが、あまりに歴史が長く、解散、分離、統合などを繰り返しながら、まるで会社のように「屋号」が生き延びているので、全然異なる音楽性の、様々な「ドリフターズ」が存在するからです。

代表的なリード歌手は、ベン・E・キング、クライド・マクファターですが、この2人だけで本2冊は書けちゃうくらいの人ですし、歴代のメンバーを書いただけで、このコラムの字数が埋まってしまうほどの歌手数(65名)だったりします。ヒット曲の売り上げ総数にいたっては、シングルが2億1400万枚、アルバムですら、1億1400万枚という・・・なんか、もう、書くのもアホらしくなるくらいのスーパー、いや、もはや「妖怪グループ」なわけ。

主立ったドリフターズは、1953年結成の、リード歌手、クライド・マクファターと彼のバッキング・グループから成る「オリジナル・ドリフターズ」。もうひとつは、ベン・E・キングがいた「ドリフターズ」の二つ。3つ目は、「8時だよ!全員集合!」の・・・いや、三つ目はウソ。ま、とにかく、このふたつにでも絞らないととても説明し切れないだろうと思います。途中途中で違うのも混じっては来ますが、
あー、めんどくせー、この原稿投げてしまいたーい。





 1 オリジナル・ドリフターズ

 ビリー・ワード アンド ザ・ドミノウズのリード歌手だったクライド・マクファターは、ドミノウズ加入前の1950年にアポロシアターでデビューした当時から、ずば抜けて人気のあるテナー歌手で、オンナのコたちの黄色い声援に守られて、独立を目指していました。

えー、さて、話の発端は1953年春のある晩のこと。マクファターが抜けた後のドミノウズがバードランド(ジャズで有名なライブハウス)に出演したときに、たまたま来ていたアトランティック・レコードの社長、アーメット・アーティガンが、マクファターがいないことに気づきました。

「あららららーっ?オタクの大スターのクライド君はどしたんだいー?」なんて訊いてみたら、びっくり仰天トコロテン、「もう、やめちゃったよーん」なんて返事が返ってきた。めちゃめちゃフットワークが軽いアーティガン社長、びっくりなんかしてられない、こりゃまたビッグチャーンス!とばかり、すぐに鉄砲玉みたいに店を飛び出し、まっすぐアップタウンに向かい、そこらのバーだのラウンジだのをしらみつぶしに回ったあげく、ついにクライド・マクファターを発見。

「おやあー?シャチョさん、こんなとこでバッタリ会うなんて。お元気い−?」なんてマクファターが言ったかどうか知らないが、「もし、契約してくれるんならなんでも言うことを聞きます!」と言ったアーティガン社長。マクファターが出した注文は、「自分をバックアップするグループを作っておくんなまし」ということだったそうです。その通り、バックグループが出来て、ドリフターズと名付けられましたが、それが、今日まで連綿と続く、すべての「ドリフターズ」の起源となるとは、当時、誰も思っていなかった。

さて、まずは、クライド・マクファターのゴスペル仲間を呼んできてはみたものの、ちと、違うかなー、みたいな雰囲気だったもんで、第二弾の人選をし、ゲルハルト・スラッシャー、(サカンドテナー)、アンドリュー・スラッシャー(バリトン)、ビル・ピンクニー(バリトン)、ウイリー・ファービー(ベース)というラインナップで、「マネー・ハニー」を吹き込み、売り出したところ、大ヒットになりました。

この後、ベースのファービーが「一身上の都合」で辞めたため、ビル・ピンクニーがベースをつとめることになりますが、「サッチ・ア・ナイト」、「ハニー・ラブ」、「ビッグ・バム」、ピンクニーのベース・リードを呼び物にした「ホワイト・クリスマス」とヒットが続きます。しかし、1954年の5月にマクファターがいよいよ本格的にソロ・アーティストを目指して脱退。

「えーっ??また辞めちゃうのおお?勘弁してよう、クライドくーん!」と、アーティガン社長が言う間もなく、マクファターは辞めちゃった。で、マクファターが「ドリフターズ」の権利を持っており、利益の大部分を自分のものとしていたのですが、辞めるときに、権利をジョージ・トレッドウェル(マネージャー)というおっさんに売り払ってしまったのです。すなわち、「ドリフターズ」の名前の使用権も同時に売ってしまった。マクファターとしては、「自分がいなければ、どうせ長続きはしないだろう」と思っていたようですが、そうはいかなかった、というのが、ドリフターズの歴史をものすごくややこしいものにしてしまった元凶なのです。あー、これからどんどんややこしくなるぞおー。

マクファター抜きのドリフターズは、デヴィッド・ボーンを後釜に雇いますが、うまくいかず、だめかなーと思いきや、次のリードに雇われたジョニー・ムーアが「ルビー・ベイビー」でヒットを出します。



 しかし、なにしろ、権利をクライドのマネージャーという赤の他人が持っているので、メンバーは全員、単なる雇われ人。安月給が問題となりました。

「なんだ、これ?売り上げをすんげえ伸ばしてやったのに、雀の涙みたいな安月給のままじゃないか!これは、経営陣にもの申さないといかんな!」なんて具合に、不満を述べた部長さん、じゃなかった、ビル・ピンクニーはあっさりクビになってしまいます。「部長が辞めるならお伴します!」みたいな感じでアンドリュー・スラッシャーも辞めちゃう。

でも、リードのジョニー・ムーアを中心に、新しいメンバーで吹き込んだ「フールズ・フォール・イン・ラブ」が思わずヒットしちゃったり、はたまた、今度はリードのムーアが辞めたり・・また、戻ってみたり・・・と、ああ、もうわけわからんっ!

とーにかくう、「ざけんなよ!こんな安月給でやってられっかよ!すぐにクビだと言われるし、えーい、もう、辞めた辞めた!」っていう人が続出するわけ。

でもって、58年の、ボビー・ヘンドリクスがリードをとった「ドリップ・ドロップ」を最後にヒットが止まり、入れ替わり立ち替わりの混沌の中、結局、全員、権利を持っているトレッドウェルにクビになってしまうのでした。ちゃんちゃん。

なんかなあ、ドリフターズは曲が全部素晴らしい!はい、おしまい!ってことでもいいんですが、歴史を書くと、まるで、不況で右往左往している中小企業の社史みたいな感じになってしまって困ります。

 2 ビル・ピンクニーズ・オリジナル・ドリフターズ

ますます、わけわかんないことに、一度辞めたはずのビル・ピンクニーが、「おれたちがやっぱ、ホンモノのドリフターズだっぺ?」と、かつてのスラッシャーだのボーンだのと組み、「ビル・ピンクニーズ・オリジナル・ドリフターズ」として活動を始めます。

このグループも旧オリジナル・ドリフターズのメンバーだのが入れ替わり立ち替わりするのですが、結局、ピンクニーが「オリジナル・ドリフターズ」の名前を使う権利を獲得しました。しかし、ヒットが出ない。延々と仕事は続き、21世紀に入って、PBSのドゥーワップ51に出演したりもしますが、独自のヒットは出ないまま、2007年にピンクニーが亡くなってしまいます。社長が死んでも、どっこい生きてる中小企業のごとく、まだまだ看板そのものは生きていて、現在でも、ピンクニーの流れに属する「オリジナル・ドリフターズ」は現在も活動中です。あー、ややこしい。



 3 ベン・E・キング&ザ・ドリフターズ

ちょっと話が戻りまして、権利を持っている大カブトムシ、じゃないや、大株主みたいなトレッドウェルさん、ドリフターズ全員をクビにしたときに、まだ当面の間、ドリフターズをアポロ劇場への出演させる権利を持っていることに気がついた。1958年に、トレッドウェルは、ファイブ・クラウンズのマネージャーに掛けあい、この連中を新しいドリフターズとして、アポロに出演させることにしました。メンバーは、ベン・E・キング(リード)、チャーリー・トーマス(テナー)、ドク・グリーン(バリトン)、エレスベリー・ホッブス(ベース)。

こうして、割と単純な、けちくさい理由からスタートしたこのグループが、奇しくも、大ヒットを連発し、今日、一般的に最もよく知られている、ドリフターズとなるのでした。

最初に出たのが、「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」で、これが思わぬ馬鹿当たり。場外満塁ホームランをかっ飛ばしちゃうのです。これは、ストリングスのオーケストラアレンジで唄われた最初のロックヒットと言われるもので、今日ではローリングストーンが選ぶ歴史上最も偉大な曲500選にも選ばれています。

それから、同じような、壮大なオーケストラ付きのポップバラードがどんどん続きます。「ダンス・ウイズ・ミー」、「ディス・マジック・モーメント」、そして、「セイブ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー」(ラストダンスは私に)で、とうとう、全米ポップチャートナンバー1を獲得。やりい!!

しかーし、ここでまたまた、同じような問題にぶち当たってしまいます。

「これだけトップクラスの売り上げを達成しているのに、なぜ我々の給料は上がらないのでしょうか、いかりや部長、じゃなくて、パターソンマネージャー。」

「それは、株主が全部、利益をがめているからじゃないか。志村くん、じゃなかった、えーと、チャーリーくん。」

「こうなったら実力行使、強硬手段で行くしかないのであーる!ヘイヘイホー!じゃねえや、エイエイオー!」

とかなんとか、また「ドリフのサラリーマン物語」みたくなってしまう。

結局、ベン・E・キングは、割に合わないドリフターズを辞めて、ソロになり、「スタンド・バイ・ミー」を大ヒットさせて大成功しますが、代わりに入社、じゃない、加入したルディ・ルイスのリードがまた実力派で、「サム・カインド・オブ・ワンダフル」、「プリーズ・ステイ」、「オン・ブロードウェイ」など、続々とヒットさせて、ドリフターズも負けていませんでした。



 さらに、メンバーは入れ替わり、昔、「オリジナル・ドリフターズ」にいた、トミー・エヴァンスやジョニー・ムーアが戻ってきたり、荒井注が辞めたり(嘘)とか、なんだかんだあって、えーっと、その、要するに、「アンダー・ザ・ボードウォーク」(渚のボードウォーク)がヒットしたりまだまだ活躍するわけです。しかし、「新しいドリフターズ」の当初から変わらずにいた唯一のメンバーだったチャーリー・トーマスが1967年に辞めてしまって、またまた、当初とはまったく異なるメンバーのグループになりつつ、まるで会社のように生き延びていくのでした。

たいてい、「ドリフターズ物語」は、この1960年代後半あたりでおしまい、なんですが、実は、まだまだあるわけ。1970年代からずっと現在まで続いているのですからね。

さて、アトランティックレコードを切り上げたドリフターズは、イギリスに本拠を移します。メンバーはぜんぜん固定しないままですが、ムーアやルイス、キングといった歴代リードシンガーも戻ってきて、イギリスで活躍するようになります。



 1970年代から1980年代にかけて、出たり入ったり忙しいジョニー・ムーアを中心に、動き続けますが、このあたりからは、音楽史というより、「会社の人事異動記録簿」の世界。だれそれが辞めた、だれそれが入って、また戻って、死んで、コネ入社で・・・と延々続きます。あー、これだからドリフターズはいやなんだ!いや、音楽そのもの素晴らしいんですけどね。しかし、中心人物だったジョニー・ムーアは1998年に亡くなり、いよいよわけがわからないことに。すでに亡くなったトレッドウェルの未亡人だの娘だのが「ドリフターズUK」なんて会社を興したり、バッタモンが出てきて、トレッドウェル家が訴訟を起こしたり、「会社人事録」どころか「民事訴訟録」になっていきます。

こうなると、もう、音楽云々は関係なくなっちゃって、「著作権を巡る諸問題とその解決」みたいな、やーな感じの世界になってしまいますが、結局、「ドリフターズの名前を使う権利」は、正式にはトレッドウェルさんちにあります、ということで一件落着しているようです。

ちょっとかわいそうなのは、チャーリー・トーマスを中心にした「ベン・E・キング&ドリフターズ」の元メンバーたち。「ドリフターズ」を名乗り、「俺たちこそホンモノだ!」と主張していて、76年にはちゃんと登録商標も許可されていたのですが、2000年にトレッドウェルに裁判で負け、取り消されています。まあ、その前には「オリジナル・ドリフターズ」があるので、そちら側から見たら、ベン・E・キングのドリフターズもバッタモンなわけですが。

まあ、しかし、そんな「会社のゴタゴタ」みたいなことがあっても、ドリフターズの音楽が素晴らしかったことも大ヒットを記録したことも歴史的に重要なグループであることも事実。その証に、「オリジナル・ドリフターズ」も、「ベン・E・キング&ザ・ドリフターズ」も「ヴォーカルグループの殿堂入り」をしています。また、双方のグループがヒットグループだった全盛期のメンバーたち(クライド・マクファター、ビル・ピンクニー、ゲルハルト・スラッシャー、ジョニー・ムーア、ベン・E・キング、チャーリー・トーマス、ルディ・ルイス)は、すべて「ロックの殿堂入り」を果たしています。



 あー、会社は、違った、ドリフターズはめんどくさい。ババンババンバンバン・・と。


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