8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.7 |
オリジナル・ギター・ヒーロー(リンク・レイ・ストーリー) みなさん、こんにちは。頑固8鉄でございます。 さて、ロック音楽が好きなら、知らない人がいない、ジミー・ヘンドリックス、ジミー・ペイジ、ザ・フー、レッド・ツェッペリンなどなど、ハードロックの有名バンドやギタリストをご存じですよね? そして、ハードロックでお馴染みになり、それ以降、今では、すっかり当たり前になってしまったディストーションの効いた爆音エレキギター。あれは、誰が始めたのでしょう? どこにでもいそうなサラリーマン風のスーツに帽子のお父さんが、音楽スタジオに行くと、「ギョワアアアアアンンンン!グイーンンン!!!」なんてエレキで爆音出しながら、芋虫みたいに身をよじらせて弾いているギター小僧がいました。にこにこと微笑みながら、お父さんは、休憩中のギター小僧に近づきます。 お父さん「ねえ、坊や、どこでそんなこと覚えたんだい?」 ギター小僧「今流行っているロックバンドでこうやってるんだ。どうやるのかギターマガジンの記事に出てたから、同じようにやってるのさ!」 お父さん「そのロックバンドって、もしかして、レッド・ツェッペリン?」 ギター小僧「ちげーよ!!そんなジジイバンドじゃねえよ!」 お父さん「ツェッペリンがジジイなら、ジミヘンはどうなっちゃうんだ?ザ・フーは?」 ギター小僧「なにそれ?化石かなんか?」 お父さん「化石か・・。ようし!じゃあ、これはどうなんだあああああああああああああああ!!」 お父さんがスーパーマンのようにスーツを脱ぐと、下から現れたのは、黒の革ジャン、帽子をとると、ヅラのようなリーゼント!大昔のロックンローラーそのものです! そして懐からドラえもんのように取り出したのは、めっさ古くて安―い50年代のダンエレクトロ・ギターリン!(当時のメンズ雑誌に出てる通販用ギター。) お父さんがそのギターをアンプにつないで狂ったように弾き出すと、「ドギャアアアアアンン!!!!!!ギュイイイインンン!!!ブワオオオオオンン!!!」 「か、かっけぇ・・・」ギター小僧は、目を丸くして卒倒していまいました。 お父さんの正体は、実は、「ハードロック・ギターの発明者」リンク・レイだったのです!! と、まあ、ずいぶんくだらない空想で始まりましたが、リンク・レイは、1958年にリンク・レイ&レイメン名義で出したシングル、「ランブル」たった1枚で、ロック・ギターの歴史を塗り替えてしまいました。 1958年といったら、あーた、まだ、バディ・ホリーが生きてた時代、レッド・ツェッペリンが 出る10年前です。 「ランブル」以前、エレキギターは、ジャズコードをクリーンな音で鳴らす楽器、という使われ方が一般的で、40年代以降、最もフツウにエレキが使われていたジャズはもちろん、過激なスタイルのジャンプ系ブルーズ、1950年代に入ってからのロカビリーやロックンロールに至るまで、基本は同じでした。 レイが「ランブル」でやってみせた、歴史的な変革、というのは、「ディストーション(ファズ)サウンドの発明」と「パワー・コードの発明」です。 「ディストーション」というのは、今では当たり前のように使われている「音をゆがませる」ことで、「パワーコード」というのは、ハードロック以降、一般的になった「5度インターバル」のコードフォームのことであります。 「50年代のリンク・レイ」↑ 1929年、ノースキャロライナ生まれの変わり者、フレッド・リンカーン・レイこと、リンク・レイは、非常に貧しい家庭の生まれで、しかも、母がチェロキー系ネイティブ・アメリカンだったため、人種差別時代の苦労を味わった世代の人でした。家には、ラジオを買う金もなく、お金持ちの家の近くまで行って、家の中から漏れてくるラジオの音を聴いていた、といいます。 レイは、朝鮮戦争の古参兵で、本格的に音楽に取り組みだしたのは、復員してからでした。 兄弟のヴァーノン、ダグ、友人のショーティ・ホートン、ディクシー・ニールと組んだ彼は、「ラッキー・レイ&パロミノ・ランチ・ハンズ」として、カントリー音楽やウエスタン・スイングを演奏し、ワシントンDCのテレビ番組「ミルト・グラント・ハウス・パーティ」に出演、ファッツ・ドミノからリッキー・ネルソンに至るゲストスターたちのバックバンドとして活躍するようになります。 レイの初期のアイドルはチェット・アトキンズで、こうした活動を続けていたわけですが、プロ活動を続けつつも、実は、カントリー・バンドには飽き飽きしていました。 「軽くブラシでたたくだけのドラムズや、ワーワーうなってるスティールギターには、ほとほと飽き飽きしたんだよ。馬鹿馬鹿しいくらい飽きて、辞めたさ。」 1956年、兵役についている間にわずらった重い結核がもとで、左肺を切除したレイは、唄を唄うのが困難になりましたが、そのころ、エルビス・プレスリーのバックにいた、スコティ・ムーアのギターを聴いたレイは、「ロックンロールこそオレがやりたいことだ!」と確信、独自のエレキギターのサウンドを作ることに熱中したといいます。 レイの演奏は、当時としては、はちゃめちゃな爆音ギターだったのですが、彼は、ギターアンプのツィータースピーカーに鉛筆で穴を開けてセッティングを工夫すると、ディストーション(ファズトーン)サウンドが出ることを発見したのです。 当時は、リヴァーヴ以外、ギター・エフェクターなんてものはない時代でした。 そんなある日、「ストロール」の大ヒットを飛ばしていた、ドゥーワップ・グループ、ザ・ダイアモンズのバックを勤めることになった彼ら。 「お!イカすベース!イカすリズム!ちょいと、かっけえギターフレーズでも弾いてみっか!」と言ったか言わないか知りませんが、本来、ドゥーワップ・コーラスの曲である「ストロール」を、コードソロ主体のギター・インストルメンタルにしてみたのです。 これに目をとめたのが、ケイデンス・レコードオーナーのアーチー・ブライヤー。 レイの演奏を生で聴いていたブライヤーの娘さんが、「これって、すっげえ、かっこよいですわ!これまで聴いたこともないイケてるギターよ!!お父様!そうだ!この曲をランブルと名付けましょう!」とおっしゃったおかげで、「ランブル」は、1958年に日の目を見ることになるのです。 当初は、歌詞がないインストにもかかわらず、その凶悪な曲調とタイトル(ランブルは、「チンピラのけんか」を意味するスラング。)で、放送禁止になったりしていた「ランブル」ですが、おかげさまでの大ヒット。しかも、アメリカのみならず、イギリスでも大ヒットになりました。 ← 「リンク・レイとダンエレクトロ・ギターリン」 リンク・レイは、ファッション的にも、大変にクールで、実演でも人気がありました。 80年代に、50年代のレイの写真を見て、すっかり虜になってしまった人に、現在大活躍中のギタリスト、デック・ディカーソンがいます。 「どれほど、格好良かったかわかるかい?脂ぎったポンパドール(リーゼント)、白黒ツートーンの革ジャンと同じツートーンの靴、そして、ダンエレクトロのギターリンを抱えてニヤニヤしてるんだぜ。すごいのは、そのどれもが、シアーズ・ローバック社(チープな物販専門の商社)の通信販売アイテムだってことだよ!」 実際のレイは、酒は一切呑まず、ヤクはもちろん、タバコも吸わず、おまけに、徹底したヴェジタリアンで、ハンバーガーも食わない、という、まるで、修行中の坊さんみたいな人でしたが、かなり複雑な人柄で、普段は皆が認めるいい人なのに、切れやすいところがあったり、精神的に極端に女性に頼るタイプの人だったらしく、女性トラブルが常に絶えなかったりしたようです。 その後、リンク・レイ&ザ・レイメンは、1950年代の終わりから60年代後半にかけて、「ローハイド」、「エイス・オブ・スペイズ」、「ジャック・ザ・リッパー」、「バットマン・テーマ」など、ハードロックインストルメンタルを次々にリリースしますが、一方で、イギリスでもアメリカでも、最初の「ランブル」で衝撃を受けてギターをはじめた少年たちが、次々と有名になっていきます。 代表格は、ザ・フーのピート・タウンゼント。 「リンク・レイこそが、オレにとっては、キングだったんだ。なにしろ、ランブルでぶっ飛んだんだよ。あれを聴かなかったら、ギターなんて弾き始めなかったと思う。」 タウンゼントは、レイそっくりに弾くことからスタートし、それが新しい時代のロック、「ハードロック〜ヘヴィメタル」への道を切り開くことになりました。 さらに、レイの影響をモロに受けた、ジミー・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、マーク・ボランといったギタリストたちが、新しい世代のハードロックのヒーローとなっていったのです。 しかし、レイ本人は、50年代の古い世代のミュージシャンとしてヒットを出すことが出来ず、忘れられていきます。そして、1970年代には、度重なるプライベートな女性問題が積み重なって、表舞台からは遠ざかっていきました。 映画音楽の分野では、タランティーノの「パルプ・フィクション」を筆頭に、さまざまなアクション映画のテーマとしてレイのギター音楽がとりあげられましたが、ヨーロッパに引っ越してからは、知る人ぞ知るミュージシャンとして、ドサ廻りを続ける生活のまま、2005年にデンマークで亡くなりました。76歳。 「70年代のリンク・レイ」 →↑ 振り返ってみれば、リンク・レイは、1968年ころから始まる、ハードロック・ムーブメント(ヘヴィ・メタル)の10年先を行っていました。レイは、ローリングストーン・マガジンが選んだ「世界で最も偉大な歴史的ギタリスト100」のひとりに選ばれており、また、本国のふるさとであるメリーランド州は、1月15日を「リンク・レイの日」と定めています。 最晩年のステージを、DVDなどで見ると、70代になっても、相変わらず黒い革ジャン、オールバックのヘアスタイルで、孫くらいの世代のロックファン相手に、ダーティにハードロックするレイの勇姿は、かっこいいの一言。歴史的な音楽的功績という側面では、レイは早過ぎた天才であったものの、彼を知る多くの人が言うようにその人生は、はちゃめちゃで、決して幸福なものではありませんでした。 しかし、どんなにロックな人生を送ろうとも、彼の功績がかすんでしまうものではありません。 ← 「2000年代のリンク・レイ」 THE KINGでは、レイのようなレザー・ジャケットも、シアーズ社通販ものっぽいチープなアイテムも出してはおりませんが、その心意気は、 レイと同じように、「あくまでロックンロール!」であります。 |