8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.61
                                                                              DOO WOPPIN' AND DREAMIN' vol.2

こんにちは。頑固8鉄、略して、頑固8です。
ぜんぜん略されてねえし!

さて、みなさんジューシーな夏をどうお過ごしでしょうか?
ジューシーだったのは、14まで・・・(どないだ?)
いえいえ、いくつになっても、14歳気分を忘れたくないものです。
いつだって夢見る10代の強い味方が、ポップ音楽。
そして、50年代のアメリカで、ポップ音楽ヒットは、無数のドゥーワップグループが占めていたのです。そんな、☆の数ほどあるドゥーワップグループの中から、今回は特にわたくしが大好きな白人系ドゥーワップグループのうちからいくつか紹介したいと思います。

1 「ディス・アイ・スウェア」と「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」
  ジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ


ジミー・ボウモント&スカイライナーズは、たくさんあるドゥーワップグループのひとつ、というよりも、アメリカのポップ音楽史においても重要な意義を持つグループのひとつ、といっていいでしょう。
リードシンガーでリーダーのジミー・ボウモントが目指したのは、フォア・フレシュメンのように洗練された白人グループでありながら、泥臭い初期の黒人ドゥーワップの支持層にも受けるような、ゴージャスで、しかもソウルフルな音楽でした。
そして、スカイライナーズは、実際にそれをやってのけた世界最初のグループになったのです。

1958年、ピッツバーグで結成されたスカイライナーズは、1945年のチャーリー・バーネットのジャズ曲、「スカイライナー」にちなんで、名づけられました。

大ヒットになった「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」は、メンバーの実際の失恋体験をもとにした歌詞にボーモントがメロディをつけた、という、いかにも若々しい(当時全員10代だった)作品だったにもかかわらず、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされ続け、スタンダードナンバーとして定着している名曲です。
「君と別れてから、食欲も性欲もないんだ・・」という・・・えー、まあ、その、そんなこともあるかもしれません。中年以降になるとごくフツーにあったりしますが、その場合は、すぐに病院にいったほうが早いでしょう。
あ、そんなくだらないこといってる場合じゃなかった。スカイライナーズの話でした。

この曲の歴史的真価は、なんといっても、多くの簡素なドゥーワップグループのサウンドを含む、いわゆる50年代当時の「ロックレコード」のサウンドとはほと遠い、ストリングス入りのスイートなサウンドにありました。
しかし、ボーカルは、本物の黒人グループと比較して、まったく遜色のない、ソウルフルなもので、ボーモントは黒人音楽チャートでもトップを獲得。
最初に有名になった「ブルーアイド・ソウル」(白人ソウル)歌手だと言ってもいいでしょう。

また、この曲は、ポップチャートだけでなく、R&Bチャートでも大ヒットした、初めてのストリングス入りソウルサウンドで、少し後に大ヒットしたドリフターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」、60年代の黒人音楽(フィル・スペクターサウンド)や、ロイ・オービソンの作り出したサウンドの先駆けになりました。
ロマンティックでゴージャスな、オーケストラ付きのロック、とでも言うべきサウンドの原点は、1958年のスカイライナーズ・サウンドにあるのです。

その「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」のもっとも感動的な部分は、紅一点メンバー、ジャネット・ヴォーゲルによる、ラストノートの高く舞い上がるファルセット(ハイ・C)で、このラストの大受けのおかげで、これほどのヒットになったといっていいかもしれません。(女性ボーカルでもここまで高い音はなかなか出せないのだそうです。)

最初に全国に紹介されたのは、ディック・クラークの人気テレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」でしたが、その後アラン・フリードが、ファッツ・ドミノやジャッキー・ウイルソンといった有名黒人アーティストたちとアポロシアターで公演させたために、多くの黒人音楽ファンも獲得。
1960年には、これまた今日ではスタンダード入りしている名作の「ディス・アイ・スウェア」を含む、アルバム「スカイライナーズ」をリリース。
「イッツ・ハップンド・トゥデイ」、「ロンリイ・ウエイ」などがシングルでもヒット。

しかし、その後、大手のコルピクス・レコードに移籍したりしたものの、ヒットには恵まれなくなり、60年代前半には早くも解散してしまいます。
60年代後半から始まったリチャード・ネイダーの50年代ロックリバイバルの波にのり、再結成。
しかし、リバイバルブームが終わる70年代後半に入ると、それぞれメンバーがショウ・ビジネスから引退。
さらに、シンス・アイ〜の呼び物だったジャネット・ヴォーゲルが自殺。
次々と不幸に見舞われたスカイライナーズですが、ジミー・ボウモントの不屈の活躍により、メンバーは一新されたものの、現在でも現役で活躍しています。

70年代に有名になった、我が国でもおなじみのコーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーが最も敬愛するグループは、ジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズだと言ったそうですが、そのスカイライナーズを今日でも、生で鑑賞することができる、というのは素晴らしいことです。

2 「モールス・コード・オブ・ラブ」 カプリーズ

 1957年、ニューヨークの高校に通うイタリア系のガキ・・・もとへ、ティーンネイジャーだったニック・サンタマリア(リーダー。リード)により、全員イタリア系で結成。当時、まだ15歳前後でした。
グループ名の由来は、1950年代車のリンカーン・カプリ。当時は、キャデラックス、エドセルズなど、車名にちなんだネーミングのグループがたくさんありました。
日本だったらどうなるんだろう。コロナズ、カローラス、ダットサンズ・・・なんか、ししょうもなー、つう感じが濃厚ですね。
1958年、当時よくあるパターンですが、彼らも学校のダンス・パーティや教会などで経験を積んだ結果、さすがイタリアン、なかなかいい男ぞろいでもあり、運良くレコード会社の目にとまって最初のシングルを吹き込みます。
これが、「ゼアズ・ア・ムーン・アウト・トゥナイト」で、59年に小ヒットします。
しかし、当時、これまたよくある話ですが、ニック・サンタマリアが兵役にとられたことをきっかけに、グループは解散、彼らは全員、仕事に就きますが、2年後、ニックの帰還を待って再結成。
そして、DJのマレーザKが彼らの2年前のヒットを覚えていて、ラジオで流したところ、問い合わせが殺到、カプリーズをアポロシアターに出演させたところ大受けし、「ゼアズ・ア・ムーンアウト・トゥナイト」はとうとう再発されて、14週間に渡るロングラン・ヒットを記録します。
「やったぜ!これで俺らもヒーローだぜ!」と、意気揚々、彼らは、仕事をやめて再び音楽活動に専念します。しかし、世の中そんなに甘くない。おじさんだって働いても働いてもたいした収入にならない、なんてのはごくフツーのことで・・・・、あ、いつの間にかわたくし自身のグチに・・・。
とにかく、その後、いくつかレコードを出したもののパッとせず、再びニックの脱退を期に解散。1962年、ニックは音楽で食っていくことをあきらめて、ニューヨークの警察官になります。いきなりおまわりさん、ですからすごいですが、ま、これもよくある話です。
さて、ヒットとは無縁ながらも、それぞれメンバーは独自に音楽活動を続けますが、ここからが急激に「滅多にない話」に突入。
1982年、アンビエント・レコードがかつての名グループによる新しいドゥーワップ復活を企画した際に、カプリーズにも声がかかります。そして、リーダーのニックが再び復帰し、ついに、ニックの手になるオリジナルソングの名作、「モールス・コード・オブ・ラブ」が世に出るのです。
これは、当時、全国区で人気のあったコーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーによってカヴァーされ、大ヒットとはならないまでも、最もリクエストの多いドゥーワップ曲、アカペラで最も多くとりあげられるドゥーワップ曲のひとつとして、息の長いヒットとなり、今日では50年代の古典曲とならぶクラシックとなっています。
その後、1998年のドゥーワップリバイバルでも頻繁に活動していましたが、ニック・サンタマリアも警察官を退官。2007年、カプリーズのほうも、健康状態の都合で引退し、グループは消滅することになりました。

3 「デニース」 ランディ&ザ・レインボウズ


 ランディ&ザ・レインボウズは、60年代初期に出てきたグループで、この手の白人ドゥーワップとしては、かなり後発のグループです。
特徴は、初期のドゥーワップにはあまり見られなかった、サーフィン的はサウンドで、聴いた感じでは、ジャン&ディーンやビーチボーイズといった、カリフォルニアのグループのように感じますが、実際は、ニューヨークのグループです。

彼らの最初にして最後の大ヒット(要するに一発屋)は、「デニース」(ファミレスソング・・なわけなくて、デニースという名前の女性を唄ったもの)で、これは1962年にでましたが、後のビーチボーイズ的なカリフォルニアグループのサウンドを先取りしたものでした。
後に、ヨーロッパでは、ブロンディがカヴァーしてリバイバルヒットになったりもしています。

しかし、リーダーのランディ(ランディ・サファト)は、その後もグループを維持しつづけ、今日でも人気のあるライブグループとして活躍中です。
2001年には、もうひとつの「ランディ&ザ・レインボウズ」(元メンバーのマイク・ゼロが率いるグループ)とミックスメンバーで、PBSショウのステージにたち、改めて有名になっています。



4 「リメンバー・ゼン」 ラリー・チャンス&ジ・アールズ



ラリー・チャンス&ジ・アールズも60年代にデビューしたニューヨークのグループで、62年の「リメンバー・ゼン」のヒットにより全国的に知られるようになりました。
多くの1発屋グループと違い、ほかにも、「ネヴァー」、「アイ・ビリーヴ」などがチャートインするヒットとなっています。
ラリーの作るヒットは、シンプルながら耳に残るメロディーを伴った印象深いもので、とりわけ、黒人っぽい歌い方をするドゥーワップ系白人歌手として評価の高い、ラリー・チャンスのドスの効いた声がそれをさらに補強していました。

当初は、当時多くの白人ティーンネイジャーが、街頭で歌うという、初期の黒人ドゥーワップグループのまねをするのがはやっていた時期で、ご多分にもれず、彼らもそうやってレコードプロデューサーの目にとまり、プロデビューしたわけです。

現在でも、メンバーを変えつつも、ラリー・チャンス&ジ・アールズは、活動を維持してきていて、昔のヒットに支えられつつ、ライブバンドとして人気を集めているようです。



多くの白人グループのうち、特に歴史的評価が高いグループをとりあげたわけですが、特徴はみな、比較的後発(50年代末から)だということです。
というのは、初期の白人グループと違い、商売上黒人音楽を利用しようとした人たちはひとりもおらず、本当に黒人グループが好きで、マネをしているうちに自分たち独自のサウンドを創り上げたグループばかりだからです。

彼らの実力が一番わかったのは、黒人向けのラジオ放送でした。
黒人のラジオDJたちは、アールズやカプリス、スカイライナーズなどを聴いても、白人グループだとはわかりませんでした。そして黒人向けのラジオ番組で流されて、評判になり、ヒットに結びついていったのです。
その事実こそが、彼らへの最大の賛辞であった、と言われているのでありました。

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