8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.6 |
ザ・ヴォイス(ロイ・オービソン・ストーリー) 皆様、いかがお過ごしでしょうか、頑固8鉄です。 今回は、THE KINGのNASSAUでもお馴染みのロカビリアンであり、その後「ザ・ヴォイス」というニックネームのとおり、世界一の歌手と言われるようになったビッグ・アーティスト、ロイ・オービソンの物語をお送りします。 この人の1964年のヒット「オー!プリティ・ウーマン」は、そんなに困難な曲じゃないほうですが、バラードものの「クライング」「イン・ドリームス」なんかは、「声域3オクターブ半」という人間離れしたオービソン以外歌えません。素晴らしい曲ばかりの偉大な作曲家、世界一のシンガーと世界中で認められながらも、誰も真似が出来なかったために、長年にわたり伝説の中に葬られてきた大歌手、ロイ・オービソン。 オービソンは1936年、テキサス州のヴァーノンに生まれました。 テキサスというところは、合衆国南部でもかなり特殊な地域で、基本的には石油と天然ガス産業が中心。 資源がありますから、大変リッチな州ではありますが、労働者階級は油田でどっこらどっこらスコップもってクレーン動かしてるようなごっつい人達ばっか。もともとはメキシコだったのをアラモ砦の戦いで独立し、後年合衆国に編入されたという歴史もあり、一言で言うとメキシコっぽい「マッチョな土地柄」なのです。 しかしテキサス人も人の子、ウシくんやイノシシくんではありませんから、マッチョじゃない人だっているのは、どう考えても当たり前。瓶底メガネでガリガリのロイ少年なんか特にそうです。 「みんなと同じようにふるまうのが大変だった。とにかく、雄牛みたいなのがかっこいいとされていたんだよ。僕もエルパソ天然ガス会社で、信じられない暑さの中できつい仕事をした。」 たいして裕福でない家庭出身のロイくんはハイスクールを出て、学校の友人たちと同じようにどすこいどすこい働いていましたが、カントリーやポップ音楽が好きで、ハイスクールの同級生とバンド活動も続けていました。 毎日、昼間働いて、夜もバンドしてあとは寝るだけ。これじゃあまずいなと思ったか、とりあえず大学に行くことにしましたが、ここでも「なんかなあ〜、なんにも面白くないなあ〜」とボケーとしていた彼は、1年で中退、とうとうバンドに力を集中します。 右写真→ ロイ・オービソン&ティーン・キングス(50年代) このバンド「ウインク・ウエスターナーズ」は、一応カントリーバンドなのですが、時はちょうど1955年、ロック時代の到来です。「ティーン・キングス」と名前を変えて、オリジナルのロック曲を作り、ノーマン・ペティのスタジオでレコード吹き込みまでしますが、リリースすらされません。 ハムスターみたいなヘンな顔だし、ビン底メガネがずり落ちるし、ぜーんぜんロック向きでない美声だし。 到底駄目か、と思った矢先、何を思ったかテネシーのサン・レコード・オーナー、サム・フィリップス。 ティーン・キングスをサンに呼びいれるのです。 最初にサンで出たのは、「ウービ・ドゥービ」という、なんかアマゾンあたりの見たこともないヘンな動物みたいなタイトルのノベルティー曲。ペティのところではぜんぜん売れなかったロイのオリジナルです。 これが、ロックブームのどさくさに紛れてまあまあ売れた。でもあとは何をしようがビクともしない。 ロイくんは、「僕はやっぱりバラードに向いてると思うんだがなあ……。」と思っていました。 そして、彼は自分の本当の天分を活かすための模索に入っていきます。 下↓写真 全盛期のオービソン(60年代前半) レコードのパンフレット7↓ そうした努力が実ったのが、フレッド・フォスターという男が経営する小さなレーベル、モニュメントに移った時でした。フォスターは先進的なことが好きな人物で、ロイとうまく話があった。 ここで、彼は自作のバラード曲「オンリー・ザ・ロンリー」を吹き込みます。 「孤独」「ブルー」といった言葉、美しいメロディー、流麗なストリングス・オーケストラにロックするボレロリズムを絡めたバック、高く舞い上がるファルセットという構成は、「オペラ的」で、驚くべき声域を持つ美声をうまく活かしており、誰にもマネの出来ない素晴らしい出来映えでした。 ロック時代以降、切り捨てられてきた要素、「美しいバイオリンの調べ」とか「感傷的なメロディー」とかを復活させ、テキサス人らしくメキシコ音楽の要素を加えて、瞬く間にポップ・ヒットとなった「オンリー・ザ・ロンリー」を追って、オービソンは更にこのスタイルに磨きをかけ、「クライング」「イン・ドリームス」「ラニング・スケアード」「イッツ・オーヴァー」「リーア」など、次々にヒットを連発していくのです。 また、サングラス、全身黒づくめ、まるで腹話術師みたいに口もほとんど動かさず直立不動で、レコードそのまんまに唄ってみせるステージでの姿も伝説となっていき、60年代前半のビートルズ・ブームの中でもオービソンの人気は、衰えませんでした。他とは比較のしようがない「孤高の音楽」だったからかもしれません。 そして、1964年に、比較的とっつきやすいハードなロック曲「オー! プリティ・ウーマン」が桁違いの世界ヒットになりましたが、気が付いたら4年ほどの間に22曲もチャート首位に送り込んでおり、もう大変なスーパースターです。 しかし、家族を大切にする優しいパパであり、リモコンヒコーキだのバイクだのが趣味で、豪邸や高級車なんかにも関心がなかった彼は、マスコミにたいして異例なほど露出度が低く、「プライベートをあかさずとらえどころのないスーパースター」として、ますます伝説化していくのでした。 写真左← ロイ・オービソンとビートルズ そんな大成功のさなか、突然のバイク事故で妻を失ったロイは、ショックで仕事ができなくなってしまいます。そして、曲を作るのもレコーディングもやめてしまった彼はツアーをし続けることで心の整理をしようとしますが、これがますます悪い事態を招きました。 父子家庭で父親不在だとなにが起こるかわからない。 翌年、留守宅が火事になり、3人の子供たちのうち2人を失ってしまうという、運の悪さ。 さらに、オービソンはMGMに移籍していたのですが、さっぱりいいものが出来なくなっていたのです。 自分が作り出した名曲群を超えようとして超えられないという、芸術上のスランプです。 そんなこんなの不幸が重なり、いつの間にか、ロイ・オービソンは60年代の伝説となって表舞台から消えていきました。 1969年、ツアー中に知り合ったドイツ人女性バーバラと再婚し、人生を立て直していたロイに再び転機が訪れたのは80年代近くのことです。 70年代終わり、フレッド・フォスターと組み直したアルバムは、心臓病の手術のすぐ後にレコーディングされたもので、あまり出来があまりよくありませんでした。続いて出たアサイラム録音も、素晴らしい自作曲があるものの、いかにも病み上がりで失敗に終わるなど、なかなか突破口が見えないロイに、いよいよ追い風が吹き始めました。 オービソンの黄金期の曲、「ブルー・バイユー」をリンダ・ロンシュタットが、「クライング」をドン・マクリーンが復活させてヒットさせ、子供時代にオービソンをアイドルにしていたデトロイトの新進ロッカー、ブルース・スプリングスティーンが自作曲「サンダーロード」の歌詞の中にオービソンを登場させると同時に、「ハングリーハート」など、いかにもかつてのオービソン調の曲をつぎつぎにヒットさせていったのです。 そして、カントリー界での活躍が実ったか、自身もエミルー・ハリスとのデュエット曲「ザッツ・ラヴィン・フィーリング」が大ヒット、グラミーを受賞します。 そんななか、オービソンに1本の電話が入ります。 「僕は、子供のころからロイ・オービソンの大ファンだったんだよ。だけど、雲の上の人だと思っていた。だから、話が出来るなんて考えたこともなかった。でも、このままじゃ悔いが残るだろ。だから思い切って電話してみたんだよ。そしたら、あのレコードと同じ優しい声で"やあ、ジェフ。テキサスまで遊びに来なよ。"っていうんだ。天にも昇る気持ちだった。その日のうちに荷物をまとめて飛行機に飛びのり、3000キロも離れたテキサスにあるロイの自宅に行ったよ。」と語るのは、ジェフ・リン。ウエストコーストのロックスターで名うてのプロデューサー。 この一本の電話をきっかけにして、オービソンの運命は再び大きく動き出したのです。 80年代の半ばの覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズ(ジェフ・リン、ジョージ・ハリスン、ボブ・ディラン、トム・ベティ、ロイ・オービソン)のヒットをきっかけに、オービソンは再び現役の人気スターとなりました。 そして、その後、オービソンは、全盛期を超える素晴らしい曲を次々と作ります。これらはアルバムとしてまとめられ、大々的に発売される予定になっていました。 写真右下 トラヴェリング・ウイルベリーズ(左からボブ・ディラン、ジェフ・リン、トム・ペティ、ロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン) 発売間近の1988年、息子と母が暮らす実家へ遊びに行き、大好きなリモコン飛行機で遊んだりした後、くつろいでいたロイは突然心臓発作で倒れ、救急車で搬送されるまもなく、帰らぬ人となりました。 享年53歳。死後、発売されたアルバム「ミステリー・ガール」はあっという間に全米アルバム第1位になりました。 作曲家の殿堂入りをした時、オービソンはこんなことを言いました。 「こういう仕事というのは、仲間に入りたくてやっているようなところがある。これでやっとみんなの仲間に入れた気がする。」 死後、再びヒットした「オー! プリティ・ウーマン」でグラミーを受賞したときは、バーバラ未亡人が代理出席し、こんな事を言いました。 「ロイは、生前、よく"僕は名誉とか富とかあんまり興味がないんだ。ただ、みんなが覚えていてくれたらそれだけで満足なんだ。"と言っていました。きっと、ここにロイが来ていたら一言こういうと思います。"みんな、覚えていてくれてありがとう。"」 伝説の中に閉じこめられていた「孤高の大歌手」は、伝説のイメージそのままで蘇り、世界中の人々をもう一度感動させた後、本当に伝説の世界へ旅立っていったのです。 写真下↓80年代のロイ・オービソン たとえ、一般的なものとは違っても、独特で風変わりであっても、いいものは時代を超えていい、のです。 それは、THE KINGの製品も同じ! すっかり春めいてきた陽気の中で、イカスPISTOL PANTSを履いたら生ツバゴックン状態のボックスプリーツのNASSAUを颯爽と羽織って、50年代のオービソンを気取っりながら、自分の未来に思いをはせてみてはいかがでしょうか? |