8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.5



eddie cochran           

 こんにちは、エディー・小倉です。
いや、嘘・・、頑固8鉄でございます。

すっかり春めいてまいりましたこの頃、いかがお過ごしでしょうか?
「THE KINGのナッソー、春っぽいモデル、ホスイなあ・・」なんて、お小遣いを計算しているそこのあなた!ナッソー・ジャケットといえば、エディー・コクランですよ!

さて、1938年ミネソタ生まれのレイ・エドワード・コクランことエディー・コクランは、ごく一般的な家庭の出身で、12歳のときにスクールバンド(いわゆるブラバンね)でドラムスをたたくのが夢でした。

しかし、学校バンドではよくあること、なぜかトロンボーン担当になってしまいます。
「えーっ・・ま、いっか・・仕方ない」と、ボントロを始めるのですが、今度は、ブラバンの先生が、「君はボントロに向いてないねえ・・クラリネットにしなよ。」と言ったとか言わないとか。「気まぐれでモノを言うんじゃねえ!先公!」なんて、怒るのがロックンローラーっぽいのですが、当のコクランは「クラリネットって何?」っていう始末。
「オレのおお!イカすドラマーの夢はどうなったんだああああ!」と叫んだかどうか知りませんが、うまくいかずに興味を失いつつあった青春のある日、兄貴のビルからケイ製のチープなギターを借りて興味を持ちます。そして、「ギターコードブック」を見ながら、コードを覚えて弾くのが日課、という、まるで今の日本の中学生と全然変わらない生活を送っていました。


eddie cochran
ジュニア・ハイスクール時代の1951年、コクランは、別の中学校バンドでウッドべースを弾いていた仲間、コニー・スミスと出会います。そして意気投合した二人は、53年に、ギター2本とベースによるトリオを結成、アマチュアとして、あちこちのスーパーやパーティなどで演奏して、日銭を稼ぐようになるのです。
「なんか、オレ、才能あるかも・・かっけーかも・・モテっかも・・」と思ったかどうかわかりませんが、ハイスクール進学後も、ギターばかりいじって、様々なギグに顔を出し、「高校なんか辞めてプロのミュージシャンになりたい。」という淡い夢を抱くようになったコクランくん。

当時の彼のお気に入りは、チェット・アトキンズ、ジョー・メイフィス(ともに、カントリー&ウエスタンのギタリスト)とジョニー・スミス(ジャズ・ギタリスト)などで、常人には演奏不可能に思える有名なメイフィスの早弾きなども、完璧コピーでこなしていた。
コクランは、ロカビリー・シンガーというイメージがありますが、もともとは、今でもよくいる「ギター小僧」だったわけです。

1954年、とある、セミプロのウエスタンバンドを見にいった、コクランは、清水の舞台から飛び降りるつもりで、「メンバーに入れてください。」と言ってみたところ、バンドのボスが、「おれっちのバンドで唄を唄っていたハンク・コクランっつーのがいてよお、そいつと組んだらよかべさ!」というのです。
ハンク・コクランは、エディーとは血縁関係でもなんでもないのですが、プロのミュージシャンになっていたハンクがエディーをすっかり気に入って、「リード・ギター、うまいねえ!一緒にやろうぜ!」と言ったものですから、エディーはとうとう念願かなって、高校を辞め、プロ入り。
当時のカントリー音楽界は、なんとかブラザースというデュオが大流行。たまたま、姓が同じで、ルックスも近い感じだったふたりは、「コクラン・ブラザーeddie cochranス」として、えっちらおっちら売り込みを始めます。

そして、「タウン・ホール・パーティ」「ホームタウン・ジャンボリー」に出演した、コクラン(偽)兄弟は、1000人単位の観客を前に演奏するチャンスをモノにしました。さらに、これらは、アマチュアやローカル・ミュージシャンを紹介するテレビ番組でもあり、コクラン・ブラザースの知名度は急上昇したのです。
続いて、ハリウッドのサンセットレコードから、ドカントリーなシングル、「マイ・フィドル」「トゥー・ブルー・シンギング・スターズ」をリリースするところまでいき、オーソドックスなカントリー・デュオとして順風満帆に見えたコクラン(偽)兄弟、1955年の終わり頃、出演したダラスのライブショーで、びっくり仰天の体験をしてしまうのでした。

同じショーに出演した、メンフィスはサンレコード在籍アーティスト、エルビス・プレスリーのステージを見てしまったのです。
「がーん!!!!なんなんだ、これは・・・・。か、かっけぇぇ・・」とショックを受けたコクラン(偽)兄弟、サンレコード近くにオフィスのある、エコーレコードと契約、ロッカビリー方面へ向けてまっしぐら走り出すのです。
明けて1956年、コクラン(偽)兄弟は、テレビ番組「カリフォルニア・ヘイライド」に出演するなど、仕事が爆発的に増えていくのですが、すっかりロカビリーが気にいってしまったエディーは、ソングライター兼マネージャーのジェリー・ケイプハートのすすめで、「ピンク・ペグ・スラックス」というロカビリーソングをリリースします。
しかし、結婚していて、いかにも落ち着いた雰囲気のハンクのほうは、当時のロカビリーのノリにうまく合わず、コクラン(偽)兄弟はとうとう解散。
「よぅーし!こうなったら、ルックスだけが売りのアイドルなんかにならないぞ!ぜーったいホンモノのミュージシャンになってeddie cochranやるんだ!」と決心した17歳のエディー・コクランは、単身、新しい時代の音楽、ロックンローラーを目指すのです。

やがて、ケイプハートの助力で遂に大手のリバティレコード入りしたコクランは、今日では古典となっているエルビス風ロカビリー曲「トゥウェンティ・フライト・ロック」をリリース、さらに、映画「女はそれを我慢できない」に出演し、「トゥウェンティ・フライト・ロック」を唄いました。
なにしろ、THE KINGでもおなじみの、有名な、ナッソー・ジャケットを着たルックス抜群のイケメン、エディー・コクランです。どんどん知名度があがっていくのです。
ところが同じころに録音した、アイドルっぽいベッタベタのロカ・バラード、「バルコニーに座って」のほうが大ヒット、あまりこの曲が好きでなかったコクラン本人が一番びっくり仰天してしまいました。
「げ!かっけえロカビリーのほうが当たると思ったのに・・」と思いつつ、「じゃあ、同じようなので柳の下のドジョウを狙うか・・」という業界の常套手段にのっとって、その手の2番煎じを出そうと画策するのですが、全然ヒットしません。
もはやコクランは「一発屋」として消えるかと思われたのですが、1958年になって、やっと早いテンポのロカビリー曲、「ジェニー・ジェニー・ジェニー」がトップ100の下のほうひっかかり、続いて出た「サマータイム・ブルーズ」が、とうとう馬鹿売れの大ヒット。真の「エディー・コクラン・クラシック」が誕生するのです。

「サマータイム・ブルーズ」は、エディー・コクラン独特の作品で、偽兄弟コクランブラザースとも、お手本にしていたエルビスとも全然違う、独自の熱狂的でクレイジーな「カントリー・ロック」でありました。
そして、その路線を守るように、「カモン・エブリバディ」、「サムシング・エルス」が続いて、どちらも大ヒット、エディー・コクランは、間違いなく、初期ロカビリーとは一線を画する、新しい時代のロカビリー・スターになったのです。

1959年、コクランと同時期に人気が出たジーン・ヴィンセントがイギリスでの人気がすごく、酒飲み仲間として親友だったコクランもヴィンセントとともに、イギリスに出向きます。
そして、ジャック・グッドのテレビショーに出演したふたりは、イギリスで本国以上の人気を得るようになります。
本国アメリカにいるときは、ライブショウやテレビ出演よりも、仲間内とスタジオにこもって音楽制作に没頭する時間が多かった元ギター小僧のコクランは、イギリスでの熱狂的なモテぶりを楽しんでいました。
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しかし、思わぬ悲劇でエディー・コクランの物語はあっけなく、突然フィルムが切れて中断した映画のように、すべて終わってしまうのです。
1960年、再びイギリスツアーに出たふたりは、たまたま乗り合わせたタクシーの運転ミスによる事故に巻き込まれ、ヴィンセントは大けが、車外に放り出されて頭を強打したコクランは、意識を回復することもなく、息を引き取りました。
音楽的にも興行的にも大成功し、スタジオ活動でクリエイティブな大望をいだいていた矢先の突然の悲劇でありました。

さて、今日、大活躍するロック・スターにも、エディー・コクランに魅せられて、「オレは新しいコクランになる!」と決心した人がいます。
おなじみのブライアン・セッツァー。エディー・コクランの愛用したグレッチ6120のギターの響きと、ドスの効いたコクラン流ロカビリー唄法は、まさにエディー・コクランそのものであります。

そして、日本には、おなじみの我らが、THE KING!
有名なナッソー・ジャケットのエディー版までリリース(わたくしも即買いました!)する徹底ぶりで、わずか21歳で亡くなった伝説的なコクランの栄誉を称え続けているのです!
頭の薄い中年日本男児のわたくしが、ナッソー着てグレッチギター持って唄ったところで、エディー・コクランには到底なれませんが、心意気だけは、「サマータイム・ブルーズ!」と行きたいところであります。



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