8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.4



           
ファーザー・オブ・ロックンロール (ビル・ヘイリー・ストーリー)
bill haley
 頑固8鉄です。

 みなさん、THE KINGのファッションでキメて、イカすロックンロールを聴きながら、お元気でお過ごしかな?
ロック音楽を「発明」した偉大なアーティストは誰でしょう?エルビス?ヴィンセント?リトル・リチャード?
いいえ、答えは、ビル・ヘイリーです。

 1925年、ミシガン州ハイランドパーク生まれのビル・ヘイリーは、本名ウイリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー・Jrという、じゅげむじゅげむのように長い名前。立派な名前にふさわしく、当時は比較的裕福な家庭の出身で、当時出回ったプロフィールにある「貧しい家庭から単身、身を興し云々」というのは、受け狙いのウソだったそうです。
貧しい子「ねえ、ビル、この自転車、君の? いいなあ。」
ビル「そうかい? じゃあ、君にあげるよ。」
貧しい子「うっそ〜!」
という感じの子供時代だったという近所のおばさんたちの証言が残っております。

そういうヘイリーが気にいっていたのは、ギターを弾いて唄を歌うこと。両親の影響で、特にジミー・ロジャースやボブ・ウイルスのようなヒルビリーが好みでした。
子供会だのスーパーのバイトだので唄っていたヘイリーは、10代のある日、ひょんなことから応募したシルバー・ヨーデルのコンテストで、チャンピオンになってしまいます。
これに味をしめた彼は、「シルバー・ヨーデラー・ビル」の呼び声高くバンドを結成、地元のラジオ・ショーに定期出演したり、小さな独立系レコード会社で次々に吹き込みをしたり、おおっぴらに音楽活動を始めます。
しかし、今も昔もそうですが、音楽でメシを食うなんてのは至難の技で、地元の小さなラジオ局でDJ兼管理人兼掃除人という感じの職を見つけました。
1940年代を通じて、彼のバンド「フォア・エイシズ・オブ・ウエスタン・スイング」及び「ビル・ヘイリーズ・サドルメン」は、地元の人気バンドとして活躍、残っている録音を今聴いてみても、かなりいい感じのウエスタン・スイングバンドであります。
bill haley
ところで、DJをしていたビルくん、1950年代になると、なんだか世の中変わってきたな〜という感じをいだくようになります。
「たるいのやめろ! もっとビートの効いたやつが聴きてえ!」とか、「なんかラッパみたいなのがブーブーいうのがいい!(あとでビルはどうやらサックスのことだと気づいたといいます)」とかいったリスナーのリクエストが増えてきた。
どうもそれはリズム&ブルースといわれていた黒人音楽らしいと気づいたビル君は、そういったレコードをどんどんかけたりするだけでなく、そんなにウケるんなら自分のバンドでも同じようなのをやってみようかな、と賢明な判断をしたんです。時は1951年かそこらのことでありました。

右写真→ 50年代前半のオリジナル・コメッツ(左から、ビリー・ウイリアムソン、ジョニー・グランデ、ジョーイ・ダンブローザ、マーシャル・ライトル、ディック・リチャーズ。上がビル・ヘイリー。)

 ヘイリー(もう子供ではないのでビルくんではない)のR&B風録音の第1号は、黒人R&Bバリトンサックス奏者兼歌手、ジャッキー・ブレンストンの「ロケット88」(クルマの名前ね)を、当時まだ物珍しかった電気ギターを全面的にフィーチャアして攻撃的にカヴァーしたものでした。
これが、売れたのなんのって10000枚も売れた。気を良くしたヘイリーは、サドルメンなんてだっさ〜い名前を止めて気の利いた「コメッツ」にし、ついでにカントリー衣装も捨ててタキシードにし、「サンダウン・ブーギ」だの「リール・ロック・ドライヴ」だの「ロッカ・ビーティン・ブーギ」だの、タイトル聴いただけで気前が良くなるようなのをたくさん作って出した。どうすれば客にウケるか徹底的に研究しながら、ヒルビリー、ウエスタン・スイング、リズム&ブルーズ、ディキシーランド・ジャズなどをミックスしていき、まったく独自の音楽を作り上げていったのです。
そのうち1952年の「ロック・ザ・ジョイント」がとうとう全米チャートに顔を出すところまでいってしまいました。

今では考えられませんが、当時は人種差別が当たり前だった時代。音楽産業も「カントリーチャート」とか「R&Bチャート」とシロクロははっきりわかれており、相互乗り入れはほとんどありませんでした。ところが、ヘイリーのレコードは「シロなのかクロなのか聴いただけではわからない」という、刑事コロンボも杉下右京も困ってしまうような「変な代物」だったわけです。
しかし、こうなっては、ヘイリーを放っておいたら大金をトイレに流すようなものと気づいた好事家あり。デイブ・マイヤーズというこの男、ヘイリーをニューヨークに連れていき、ちっぽけなフィラデルフィアのエセックスレコードなんかやめさせて最大手のレコード会社「デッカ」と契約させようとしたわけです。
このとき、運のいいことに、ヘイリーと面談したのが大物プロデューサーで、大人気の黒人ジャンプ・ジャイブ音楽のルイ・ジョーダンで大儲けしていたミルト・ゲイブラー。ゲイブラーは、「この手は絶対ウケる時代だ」と知っていたんですね。
早速契約となりましたが、当時世間ではド田舎で得体の知れない音楽をしているヒルビリー野郎といきなり契約する大手なんてありませんから、世間は度肝を抜かれたそうです。

最初の3曲「ロック・アラウンド・ザ・クロック」「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「A・B・C・ブーギ」は1954年に吹き込まれました。
なにせ大手のレーベルですから、宣伝上手。ぐんぐんチャートでのびまして、30年代からの大物ジャズ歌手、ビッグ・ジョウ・ターナーのカヴァー盤である「シェイク・ラトル・アンド・ロール」がとうとう全米トップ10入り。
さらに、当時問題になっていた非行少年をテーマにしたハリウッド映画「暴力教室」のテーマにヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を使いたいという申し出があり、映画音楽に進出したわけですが、フタを開けてみたら1カ月前の魚の煮付けのように大変なことになっていたのです。

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55年〜第2期コメッツ(左から、ルディー・ポンペリ、アル・レクス、ジョニー・グランデ、ラルフ・ジョーンズ、ビリー・ウイリアムソン、フラニー・ビーチャー。下がビル・ヘイリー。) ビル・ヘイリーと彼のコメッツ オン・ステージ(50年代)


「暴力教室」の冒頭で流れるこの曲に熱狂したワルガキどもが、映画館内で大あばれし、史上悪名高い「座席切り裂き熱」が流行し出します。
びっくらこいたのはヘイリー本人ですが、もうこうなっては止まりません。とうとう全米どころか全世界を巻き込む大騒ぎとなっていったのです。
こうして世相の変化の中で、社会問題化、社会現象化した、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、あれよあれよという間に全米ナンバー1、全世界ナンバー1となり、丸顔、小太り、30代、5人の子持ちのお人よしヒルビリー男、ビル・ヘイリーはいつの間にか、反抗期の少年たちが尊敬する「世界初のロックスター」になっていたのでした。

実はここまでは、「やりい!! 宝くじ3億円あったりー!」みたいに景気の良い話なのですが、これから話が複雑になります。
「世界一のトップスター」になり、巨万の富を得たまではよかった。おとぎ話にも後日談ありのことわざどおり、これで話はおわりません。
この「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が社会現象になった1955年をもって「ロック生誕の年」とするのが通説ですが、明けて1956年、出るわ出るわ、ロック野郎。ネコも杓子も芋虫もみんな合い言葉は「ラケンロール」になってしまいました
筆頭はエルビス、カール・パーキンズ、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイスなどなどから、もともと、R&Bで比較的過激なスタイルを持っていたチャック・ベリーだのリトル・リチャードだのまで、ブームに乗ってどんどんヒbill haleyットを出す。
というわけで、1957年には、実際は30代のおっさんで、アイドルからは程遠いヘイリーの人気はもう終わっていたのです。 まあ、しかし、フツーのヒトが300年くらいこつこつためても無理なくらいの金額を稼いでしまったのですから、めでたしめでたしのはずだったのです。

ところが、今も昔も東も西も、世間は生き馬の目を抜くくらい恐ろしいところ。ボサッとしてると尻の毛まで抜かれてしまいます。
ここで、ヘイリーの特徴的な性分である「他人を疑わないお人好しぶり」が思いっきり裏目に出てしまいます。
「とんでもないペテン野郎」に資産運用を任せてしまうのです。「単に、昔から友達だから〜」というのがヘイリーの言い分だったそうですが、「友達」と思っていたのはヘイリーのほうだけということに本人が気づかなかったのが運の尽き。
ほとんどすってんてんになったのも知らずにタカをくくっていると、挙げ句の果てに有り金持ち逃げで行方不明という鬼の世間ではよくある話。今度は自転車程度ではすみません。
バブルマネーは身につかないとよくいったもので、気が付いたら一生かかっても払いきれないような巨額の借金だけが残っていたのでした。

しかし、ボーッとしてても誰も助けてくれません。もう一頃のような人気は望めないものの、高いギャラがとれるうちに働きまくらなくては、と、世界中をツアー、というかドサ回りし始めますが、1963年ごろからは、いわゆるリバプール時代でビートルズがヤアヤアやってきたりして、もう大変です。

60年代後半のコメッツ(左から、アル・ラッパ、ルディー・ポンペリ、
ビル・ヘイリー、ニック・ナストス、ジョン"バンバン"レイン)





 なんとか活路を見いだそうと、ヘイリーはコメッツを連れて、西部bill haley劇の悪漢のごとく、メキシコへ拠点を移しました。
ヘイリーは、50年代の自分のヒット曲のスペイン語リメイク盤から、当時流行だったツイストを演奏したものまで、工夫を凝らしながら、メキシコの小さなレーベルを渡り歩き、その甲斐あって、いつの間にか「ミスター・ゴーゴー」としてメキシコ一のヒット・メーカーになっていきました。
しかし、もういい加減家族の待つ郷里へ帰りたいよ〜おかあちゃーんと言ったかどうか知りませんが、コメッツのメンバーも一抜け二抜けしていって孤立していきます。
ヘイリー本人も引退を目論んで、風光明媚な片田舎、ベラクルスにマンゴー農園を購入し、農園主を目指しますが、この人やっぱりお人好しで商才ないのか、また失敗。
どんなヒトでもそうですが、借金だらけで夢のない人生を送っていれば、いいかげんいやになってヤケクソになるのが人情です。このころからヘイリーの酒癖が突然悪くなりだしました。ひとたび酒におぼれると雪だるまが坂道を転がり落ちるが如し、いつの間にかヘイリーは深刻なアル中男になってしまっていたのです。 

                    ビル・ヘイリーと彼のコメッツ オン・ステージ(60年代)→

 
 ところが、世の中捨てたモンじゃありません。またチャンスが巡ってきたのです。事の発端は、遠くヨーロッパのスエーデンです。
ここに、熱狂的なビル・ヘイリー&コメッツのファンがおりました。この人、とうとうソネットという自分のレコード会社を興しまして、ガキの時分に熱狂したヘイリー本人に是非ウチの会社と契約して欲しいと持ちかけたんですね。
さらに、本国アメリカでも、ヘイリーが出演したリチャード・ネイダー主催のリバイバル・ショーが大ヒット。 70年代に入り、50年代ロックリバイバルは本格化し、ビル・ヘイリーと彼のコメッツは第一線に華々しく復帰を果たしたのです。
こうして、鶴の恩返しのごとく、ヘイリーは再び堅実に稼ぐソネットレコードのレコーディング・アーティストとして、リバイバルショーのライブアーティストとして活躍します。また、1974年には、50年代の青春を甘酸っぱい思いで描いたジョージ・ルーカスの低予算映画「アメリカン・グラフィティ」が思わぬ大ヒットとなり、主題歌として使われた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」も再びヒット、続いてやはり50年代の風俗を描いたTVコメディ「ハッピー・デイズ」の主題曲にも同曲が使われ、これまた番組が大ヒット。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は再び全米ナンバー1になり、2度のトップヒットという他に例を見ない大ヒット曲となりました。

 ← リバイバル・ショーのビル・ヘイリー(70年代)

さて、これで、大スターに返り咲き、未来は明るいと思われた矢先、ヘイリーの言動がボタンの掛け違えのように、支離滅裂になってきました。実は、すでに脳腫瘍に蝕まれていたのです。そして、彼は、家族とも友人とも離れ、テキサスのハーリンゲン峡谷に小さな家を買ってひとりで暮らしはじめますが、マスコミの取材を徹底拒否し、どこにも顔を出さず、完全な引退生活に入ります。
地元の保安官はそんなヘイリーを心配し、ヘイリー最晩年の友人となりましたが、時々、人里はなれた山の中で、自分が誰なのかもわからずにたたずむヘイリーをよく見かけるようになったといいます。 1981年のある日、様子がおかしいことに気づいた保安官がヘイリーの自宅を訪れ、ベッドで冷たくなっているヘイリーを発見しました。 検死結果は急激な心臓発作による自然死。 病気で苦しみぬいた日々がウソのような、とても安らかな死に顔だったといいます。享年55歳。

ヘイリーは生前こんなことを言っていました。
「みんなロックは悪魔の音楽だとか非行の原因だとかうるさい、くだらないとかいろいろ言うけど、そういってる人たちだって若いころ同じことを言われてただろ? チャールストンは悪魔の音楽だからやめろとかさ。そんなことないよ。僕はただ、みんなが楽しく踊れる音楽を作りたいと思い続けただけなんだ。それに、僕は魚釣りが趣味の普通の男だよ。本当はスターなんて柄じゃないんだ。」

今振り返ってみると、ヘイリーの偉業というのは残された録音物を聴けば誰にでもわかります。 しかし、ヘイリー本人は、最晩年まで、自分が成し遂げた偉業をたいしたことだとは思っていなかったのです。
しかし、最後のインタビューで、「あなたは歴史書に登場するような大人物ですが、なんと表現されたら嬉しいですか?」と尋ねられたヘイリーはこんな風に答えたそうです。

「ファーザー・オブ・ロックンロールと呼ばれたい。」

今日、ほとんどの音楽書、歴史書にはこう書かれています。
「ビル・ヘイリー 1925〜1981 ファーザー・オブ・ロックンロール」

さて、いかがだったでしょう?
20世紀音楽の歴史の流れを変えた、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」から、早くも50年以上が過ぎた今日、生き残ったオリジナル・コメッツのメンバーは、昨年もツアーを行い、まだ現役。わたくし、光栄にも、ベーシストのマーシャル・ライトル先生から、直筆のサインとメッセージをいただいたことがあります。
そこには、「YOU'RE NEVER TOO OLD TO ROCK !」と書かれておりました。
そうです!いくつになっても、ロックするのに、歳とりすぎなんてことは絶対にないのです!!
わたくしも、数年後に50代突入が迫っておりますが、まだまだ、これから!
THE KINGのNASSAUに袖を通し、フラップ・シューズに足をすべらせて、かわいいあの子とロックするのじゃ!!
心意気は、いつまでも、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」といきたいものであります。


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