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| 8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.336 |
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食の思い出 第12回 「西早稲田3丁目 幻の街と天ぷら定食」 ![]() さて、今回は、記憶の迷宮を旅するエピソードの最難関となる話だ。 忘却は、聴覚から始まり、嗅覚に終わる話は以前書いた。 今回の話は、世間で言われる5W1Hにまつわる話である。 いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのようにして、 というテーマを立てて記憶を掘り返す。 すると、たいてい、どこでについては、赤坂のどこそこで、 交通会館の地下、など、かなり特定ができる。 誰が、は、自分なので、これは当然満たされる。 なにを、はさすがにとんかつだったりハンバーグだったりで、 これもいける。 なぜは難しい。腹が減ったから、安かったから、 うまそうに見えたから、いくらでも後付けで考えられる。 どのようにして、というのは、テーマがわからない。 いつ、は結構難しい。わたしは、これが苦手項目だ。 これにそって考えると、今回は、「学生時代らしきころ(いつ)、 早稲田のどこかで(どこで)、安かったから(なぜ)縁側に座って(どのようにして) 天ぷら定食(なにを)を食べた」となる。 一番はっきりしているのは、縁側で(HOW)と、 天ぷら定食(WHAT)だけである。 あとは、まったく漠然としていて雲をつかむような話だ。 わたしの脳内のどこかに残っている記憶の残渣をいくら漁ってみても、 出てくるのはせいぜい、「おそらく、早稲田のどこか」「学生時代付近」くらいである。 なぜ、こんなことになってしまったのか。 ![]() 1980年に早稲田大学に入学したわたしは、1984年まで法学部に在籍していた。 法学部というのは、大隈講堂がある正門から入ると、すぐ左手にある8号館のことだ。 普通は、正門を使って出入りする。 8号館脇には、もうひとつ構内に出入りする南門があるので、そちらでも良い。 南門の脇には、レストランびおーるという、小さな洋食店があり、 わたしの法学部の友人グループでよく利用した。 8号館から奥に向かって進んでいき、 商学部を右折してから左手に折れると、西門に出る。 わたしは、本来たいして用もない西門をよく利用した。 なぜかはまったく記憶にないが、こちらから出ると、 サークル仲間と常連で通っていた ロック喫茶「ジェリージェフ」があったからかもしれない。 そして、おそらく、その西門を抜けたどこか、 付近一帯のどこかに、その店はあった。そのはずである。 なんとなく、そう思うのだが、もしかすると、高田馬場、 もしくは、同じ音楽サークルの先輩が住んでいた上落合あたりだった可能性もある。 45年前という、ぼんやりした記憶のかなたから聞こえてくる声と風貌は、 おそらく、同じバンドメイトだった、よっちゃんだと思う。 なにより、鮮明に脳裏に残るのは、夏の季節感とうららかな午後の風、 風鈴の音、そして、とても店とは思えない、古い木造日本家屋の縁側で、 瓶ビールを飲みながら、天ぷら定食を食べた記憶だ。 これは、特別な記憶で、普通最も忘れてしまいがちな、 風鈴の音であるとか、ハレーションを起こしたかのような、 まぶしい夏の陽光であるとか、古くて渋い色味になった縁側の 木の質感をまざまざと思い出すことができるのである。 そして、そんな記憶のひだの中に埋もれた天ぷら定食は、 なぜかわからないが、人生で一番素晴らしかった 食べ物の記憶として、燦然と輝いているのだ。 いつ、について、学生時代らしいと推理するのは、場所の記憶、 早稲田近辺のどこか、と結びついているからである。 ついでに、よっちゃんの顔が思い浮かぶので、 卒業後、帰郷してしまった彼がいたとすれば、学生時代以外ないからだ。 なぜか覚えている詳細である縁側も夏の日も、その懐かしい日本の風情が 素晴らしかったから天ぷらがうまかったみたいなことなのかしれない。 大昔のことであり、まるで記憶は本物か幻か、それすら曖昧だ。 最もわからないのは、開け放した民家の縁側で、風鈴の音を聞き、 外の風景も満喫しながら、天ぷら定食を食べることが出来た店が、 いったい早稲田近辺のどこにあったのか、である。 まるで、時代劇の中みたいな、そんな店が都心の学生街のどこかにあったのか。 どう考えても、そんなシチュエーションは、まるで夢の中のようで、 新宿区という都心での出来事とはとても思えない。 今となっては、立派な縁側のある古い木造住宅は、古民家と言われ、ある種、 慎重に修復された、非常に趣のある、高級なものという印象がある。 川越、香取、さまざまなところで、こうした昭和初期の建物は、 観光名所と化しているのだ。しかし、かつては、田舎にいけば、どこにでもあった。 しかし、そんな今でいう「古民家和食処」みたいな店が、 副都心ど真ん中の学生街に存在したか。 しかも、わたしの記憶では、この天ぷら定食は、500円で、当時ですら、 貧乏学生向けの格安価格であったと思う。 そんな店がどこにあったのだろう。これが最大のミステリーなのだ。 今となっては、すでにそれをたどるのは困難だろうと思いつつ、 現代の最強ツール、インターネットを駆使して、調査してみた。 結局、45年前の天ぷら定食を見つけることは無理であった。 「早稲田西門、1980年代、食堂 定食屋 天ぷら」 などのような検索をいくらかけたところで、 どこかで記憶と齟齬を生じる地点しか発見できず、地点の特定はできなかった。 わたしの朧気な記憶では、 西門をでて、しばらく行ったどこかなのだが、 現在からさかのぼって20年ほど前までの西門商店街付近の 写真や動画をいくら探しても、それらしい雰囲気の地点は見つからない。 古い木造民家が、狭い道路の片側もしくは両側に立ち並ぶような街並みが あったはずなのだが、それらしいところがまったく見つからないのである。 やはり、馬場とか落合、もしくは、中央線沿線のどこか、他の場所だったのだろうか。 そうしてネット上をうろつくうち、1枚の写真が目に留まった。 それは、1983年の西早稲田3丁目を捉えた古いモノクロの風景写真である。 これは、見覚えがある風景だと本能的に感じた。 このどこかかもしれない。もしそうなら、店は、写真の風景のどこかであるはずだ。 1983年撮影ということは、わたしが大学3年生のときであり、時期もほぼぴったり一致する。 しかし、この写真の街並みは、現存しないことが判明したのである。 https://dagashi.wpx.jp/tokyo/waseda1.html 都の西北にある早稲田大学の西側、新宿区西早稲田三丁目は、 かなり前から気になっていた地域だった。かつての淀橋区戸塚町二丁目に当たるこの界隈は、 戦災で焼け残ったおかげで、入り組んだ路地に板壁の住宅が立ち並ぶ町並みが、 1980年代まで見られたからである。 そんな西早稲田三丁目地区も、再開発事業によって大きく姿を変えてしまい、 とくに早稲田大学に近い東側では昔の面影はまったくない。 おかげで、1983年に撮った写真(このページの写真)の場所が特定できずに非常に悩むことになった。 (「東京 昭和の記憶」から) ![]() ![]() ![]() ![]() 西早稲田3丁目が再開発で消えたのは、 1990年代前半のことだったらしい。 未読であるが、参考文献もある。斎藤隆さんという、当時現地に住んでおられた方が 書かれた「再開発で消えた故郷 西早稲田・大日坂」である。 なお、この斎藤隆さんという方、なんと驚いたことに、わたしと同い年(1961年生まれ)、 現在は私と同じ、佐倉市在住とある。引っ越したのは、 通称大日町といわれた西早稲田3丁目の東側が消滅することが決定した 平成3年(1991年)ころのことだろうから、わたしが中野区江古田の官舎を出て、 佐倉に越したのとほぼ同時期である。 偶然にも、まったく、わたしと同じプロフィールなのだ。 しかし、もちろん、証拠もなければ、確証もない。 もしかすると、このあたりだったかもしれないという漠然とした印象が残るだけである。 まったく違う場所でなく、早稲田大学西門を出てずっと歩いたどこかであったとするなら、 消滅した大日町(西早稲田3丁目)の木造住宅群のどこかであった可能性はあると思う。 さて、天ぷらといえば、早稲田には、現存する最古参の老舗がある。 早稲田若松町にある、てんぷら高七である。 ここも学生時代、何度か足を運んだはずだ。 近くに下宿していたシメくんという、音楽サークルの後輩がいて、 彼の下宿によく遊びに行ったからである。 当時から激安価格でうまい天ぷらが食えるとあっては、 貧乏学生だった我々がいかないわけがない。 しかし、こちらの店は健在でも、一緒に行った後輩のほうが、先に逝ってしまった。 世の中も人も、どんどん移ろっていく。 ![]() わたしの遠い記憶は、本当に事実を記憶しているのだろうか。 なにか秋田の田舎で起きた出来事と、 学生時代の体験ががごちゃごちゃになったりしていないだろうか。 そのあたりを追及すると自信がなくなる。 しかし、どこかで、よっちゃんと、夏の日に、縁側でのんびりと瓶 ビールを飲みながら食べた500円の天ぷら定食は、なぜか忘れられない。 夏の青空の下、将来のことなど憂いても仕方ない。 なんとかなるさ。 そんな高らかな笑いとともに食べた天ぷらは格別の味であった。 人生、そんなものである。 |