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| 8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.329 |
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食楽器の思い出 第1回 「アカデミー・ギターとトーカイ・キャッツ・アイ」 前書き 振り返ってみたが、あちこち抜けはあると思うが、 少なくとも73個の楽器を持っていた。 うち、64個を売却し、今は、9個しかない。 分野もバラバラ。凄く変なものもあれこれ持っていた。 これでは、貧乏になるわけだ。 なぜこんなことになっているのか、 改めて反省してみるつもりである。 幼稚園で持ったカスタネット、小学校のハーモニカ、 私世代の多くの人は、このあたりからスタートしていると思う。 それ以外で、なにか別の楽器をいじっていたという人は、 たぶん、親がなにかやっていた人か、 バイオリン、ピアノ教室などに通っていた(親に通わされた) 人なのではないだろうか。 わたしの「家庭内楽器」第1号は、ウクレレで、小学校1、2年生のときに 買ってもらったのではなかったか。 誕生日のプレゼントで、銀座の松屋デパートか新宿伊勢丹だったはずである。 当時、600円くらいだったように記憶する。 ギターを弾くのが趣味だった父が選んでくれた。 わたしは、毎日、ものをなくし、怪我が絶えない、 きわめて落ち着きがなくて気の散りやすい子供で、 あらゆることに興味があった。 ウルトラマン、野球、お笑い、映画、おもちゃ、缶蹴り、漫画、SF小説、 本屋でみかけるプレイボーイのセンターフォールド、あらゆることだ。 わたしのヒーローはクリント・イーストウッドだったり、長嶋茂雄だった。 音楽番組は見たこともないし、ジャイアント馬場の16文キックや 素晴らしいスタイルのプレイボーイモデルのほうが人生でずっと大事なことだった。 音楽が好きだったなどということだけは記憶にない。 わたしの両親は、秋田の寒村の出身だが、 地元は戦前から町営の楽団があったそうで、 父も母もメンバーだったらしい。 当時の写真を見ると、父はハーモニカ、 母はアコーディオン(ダイアトニック・ボタン式=手風琴)であった。 東京に出てくる前に、父は、秋田の楽器店で、 ナイロン弦ギターを手に入れ、それを大事に持って上京した。 それは、完全に壊れてしまうまで、 わたしが40歳くらいになるまで、家にあったのである。 あまり音楽に明るいわけではない父は、 これで、数少ないレパートリーをいつも練習していた。 覚えているのは、「禁じられた遊び」と「ジプシーの月」だ。 それ以外は、バタヤン風の弾き方で、いくつかの昭和歌謡を弾いていた。 当時よくいるタイプの普通の男だろう。 父は、わたしにギターを弾きなさいとは言わなかったし、 私自身興味もなかった。 ウクレレをなぜ買ってもらったかといえば、 それはひとえに牧伸二のせいである。 テレビでお笑い番組を見るのが好きだったからだ。 そのウクレレで、わたしは、「弦楽器でコードを弾く」ということを始めて覚えた。 もちろん、安物で、乱暴な子供が扱うのだから、 飽きて放り出しっぱなしにしたあげく、ネックが折れてそのままゴミとなった。 そこで、中学生くらいになると、なんとなく、父のギターをいじるようになった。 きっかけは父ではなくて、当時、東京の理科大に通うために、 秋田から上京してきた従兄である。 父の持っていたギターは、どこのなにかいまだにわからない代物で、 サウンドホールの中のラベルには、academy guitarと書いてあった。 実際に手に取ってみると、当時すでに、ガタガタで、 ネックは今にもはずれそうなほど倒れ、 地割れみたいなヒールクラックが入っていて、コインが数枚入るほどだった。 性質の悪い親戚に貸したら、ケースはなくなり、 酷い状態で戻ってきたそうである。 それを直す金もなかったのだ。 そのギターを手にとった従兄は、不具合を気にする様子もなく、 難曲「アルハンブラの思い出」をスラスラと弾きこなした。 「禁じられた遊び」フルコーラスもできたし、 当時流行りのサイモン&ガーファンクルも弾いて見せてくれたのである。 その後、大人になってから知り合ったほぼすべてのギタリストが 、「弦高があとコンマ3ミリ低くないと」などというのをよく聞いたが、 そんな微妙なことしないと弾けないものってなんだろう、とつい、考えてしまう。 それはこのころの思い出がもとになっているはずだ。 よく家に遊びに来ていた従兄は、あれこれとギターのイロハを教えてくれたが、 わたしは、たいして弾けないし、弾けるようになりたいとも思わなかった。 ときどきいじって遊んでいた程度だ。 そして時が流れて、15歳になったとき、父が突然、 山野楽器でギターを買ってくれた。 なにをきっかけにしたのか記憶にないが、カタログを先にもらって、 あれこれ検討し、これが欲しいんだけど、 といったものがトーカイギターのキャッツアイCE400であった。 これは、ラインナップ中の下から2番目のモデルである。 選んだ理由は、あまり高いものはねだっては悪いし、 単板でできたモデルで一番安いものということで選んだ。 当時の価格で4万円である。 これを選ぶ時点で、わたしは、今日まで引きずる衝撃体験をしている。 キャッツアイよりもずっと値段が張るので、選外にしたが、 これをいつか手に入れたいと願ったものは、ピックギターである。 どこのメーカーのアーチトップか記憶にないが、 これを銀座山野楽器近くにあった楽器店(名前を失念)で弾いてみている。 推測だが、おそらく、ギブソンL-4のナチュラルカッタウェイだったはずだ。 しかし、貧乏育ちのわたしは、キャッツアイでも贅沢だと思っていた。 キャッツアイはよく鳴った。 当時、元ネタのマーチンは触ったこともない。 比較しようとすら思わなかった。 そして、このタイプのギターが最も映えるのは、 ブルーグラスだということも知っていた。 1970年代当時、高校生になったわたしは、 ビル・モンロー、フラット&スクラッグスなどのLPを手に入れ、 お気に入りになっていたからだ。 そして、のちに大学サークルにはいって、ブルーグラスバンドに加入したのも、 キャッツアイがあったからである。 18歳かそこらで、すでにマーチンを持っているブルーグラス仲間がたくさんいるなか、 わたしはこのキャッツアイで最後まで押し通した。 さらに、その後20年近く、ネックはよじれて、 サイドには大穴という状態でもそのまま、これを使い続けた。 わたしは、長年かけて、これで、ほぼあらゆることを覚えた。 ジャンルごとに異なるコード・フォーム、コード・プログレッション、 スケール理論、ピッキングのタイミング、ストラムの多様性、 ジャズ、ロックンロール、カントリー、フォーク、ブルース、あらゆることだ。 ずっと後になって、このギターの設計者である須貝さんと不思議な縁で友達になったが、 それはまた別の話である。 |