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| 8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.328 |
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食の思い出 第8回 「佐倉市臼井 鹿島園のうな重」 ![]() 1981年から住んでいる、わたしの第二の故郷、千葉県佐倉市。 残念ながら、思い出に残る店というのは、1店のみである。 というのも、都内遠距離通勤者の宿命で、自宅は寝に帰るところであり、 夕食は帰宅後、自宅でとるか、もしくは、 都内で食べてくるのが普通だったからだ。 たまの休みに出向くところは、昭和末期の新興住宅地らしく、 街道沿いにあるファミレスばかりであった。最多出演は、おそらくココスだろう。 そんな中にあって、唯一、思い出深い店は、 印旛沼水路にかかる小さな橋、鹿島橋のほとりにあった、鹿島園である。 現在もネット上にある写真を見ればわかるとおり、 昭和42年から変わらず営業を続けてきた割烹食堂らしいたたずまいで、 仮に今も健在で、現在のレトロブームに乗れば、 客が詰めかけるかもしれない。 わたしの家からは車ですぐであり、普通に利用はしていたものの、 現在鹿島園のあった付近には、ほぼ、薬局チェーンと病院しかなく、 どこにあったのかすら、よくわからなくなっている。 かつて私の家から鹿島園に行くためには、駅方面から国道296を 使って出るしかなかった。その後、染井野地区の大開発が入り、 田んぼの中を抜けていく古い農道にアクセスが容易になったため、 鹿島橋に抜けるには、この近道を使うことが多くなった。 この農道と296号と合流したすぐのところに、現在は、 小さいがモダンな建物の中村食堂というのが建っている。 この中村食堂こそが、かつての鹿島園だと、 さきほど調べたやっとわかった次第である。 かつての回り道だと、もっと佐倉方面にあったように錯覚する位置である。 ややこしくなった原因のもうひとつは、鹿島園とよく似た、 うなぎ屋の名店、菖蒲荘が少し佐倉よりにかつてあったのだが、 こちらも今は跡形もないことによる。 狭い範囲にかかわらず、どちらもなくなり、とにかくよく目立つどでかいマツキヨと、 大きな整形外科医院がどーんと建っているので、 どこがどこやらわからなくなってしまったのだ。 鹿島園の経営者が新装開店で起こした中村食堂は、 実は、鹿島園の面影がまったくない。 風情がどうの、以前に、メニューにうなぎがないのである。 ![]() 印旛沼がある佐倉は、もともと成田と並ぶ川魚料理の名店街で、 印旛沼を囲むように、西から、川ばた園、鹿島園、菖蒲荘が並び、 旧佐倉市街(鏑木町)に、最も古い名店、玉家があった。 今は、鹿島園と菖蒲荘が閉業し、文字通り半減してしまったのである。 うなぎにあまり関心がなかったわたしでも、 これはいかがなものかと思わざるを得ない。 さて、そんな鹿島園が、なぜそれほど思い出深いのかといえば、 わたしの両親と親戚連中の思い出があるからだ。 わたしの両親は、秋田県の出身で、父はとりわけ望郷の念が強く、 暇ができると里帰りをしたがった。しかし、昭和のサラリーマンの宿命で、 それほど休みがとれることもなく、せいぜいお盆休みに少し帰るだけである。 佐倉に越してから、父は病を患い、身体障害者となった。帰郷などほぼできない。 そこで、兄弟親戚の多い父の兄弟連中がたまに こちらに顔を見にやってくるようになった。 秋田の北部は、今でもかなり遠い。なかなか来れるものでもないので、 最もよく我が家の客人となったのは、 父のすぐ上の兄弟、わたしにとっての伯父である。 ![]() 彼は、名古屋在住で、比較的来やすく、父とも仲がよかったので、 しばしば我が家を訪れては、泊って行ったものだ。 名古屋といえば、エビフライ、しかし、伯父はそれを嫌っていた。 「あんなもんばかり、よく食わんがな。」と言い、好物はうなぎだという。 そこで、伯父が来るたび、地の利を生かして、 すぐ近くの鹿島園でうな重を食べるのが恒例になった。 鹿島園のうなぎは、大好物だという人と違い、 あまり差がわからない私がいうのもなんだが、 普通に美味しいうな重という感じであった。 麹町秋本ほど美味くはないが、価格が安かったことを 考えると十分に美味、という感じだ。 名古屋の伯父は、鹿島園に行くたび、 美味い美味いと喜んで食べていた。 父が亡くなり、葬儀があった時も、 名古屋の伯父と鹿島園でうなぎを食った。 そして、それが最後になった。 伯父もまた、数年後に亡くなり、そして、2019年、台風の豪雨で、 古い建物が床上浸水した鹿島園は閉業を余儀なくされたのである。 自然災害が原因で閉業、というのは、 わたしの思い出話に登場する店では唯一の例だ。 印旛沼のほとりにあった、というのが災いした。まことに残念である。 それほど、美味かったわけではない。 しかし、それはたいした問題ではない。あの昭和らしい風情のある立地であるとか、 建物、そして、当時をしのばせる最も近しい人物のひとりであった、 伯父を思い出すたび、 今は亡き鹿島園を無念とともに、懐かしく思い出すのだ。 |