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8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.318 |
食の思い出 第3回 「麹町モンドールのハンバーグ」 ![]() 養老孟司の面白い言葉に、こんな趣旨のものがある。 「オリジナリティなんてものは、本当はない。 職人修行で言われるのは、まず、師匠の真似をしろ、である。 ひたすら真似をし続けて数十年、それでも師匠そっくりにはならないものだ。 その差こそがその人独自のものであって、それをオリジナリティと呼ぶ。」 前回の「交通飯店のチャーハン」でも触れたかと思うが、 いくら再現しようと努力しても決して再現することはできない。 それはどんな分野にでもいえることだけれど、料理もしかり。 チャーハンのような、非常にシンプルな料理すら、 作り手によって、まったく違うものになる。 まったく同じものを作るには、ファストフードのように、 意図して複製品を作るための原型づくりを設計しない限り、不可能である。 現在、最も市民権を得ている各種チェーン店、 フランチャイズ店の最大のメリットかつ最大の難点は、これだ。 「どこでもまったく同じ味が楽しめる、万人受けのスタンダードであるとともに、 どこにでもある陳腐な料理」ということだろう。 個人経営の店はこれと逆だ。 「その店、その作り手独自の味が楽しめる、ワンアンドオンリーであるとともに、 好き嫌いが分かれるアクの強い料理」となる。 さて、わたしは、小学生の終わりころまで、ハンバーグが大嫌いであった。 理由は、シンプルで、当時の代表的な庶民のハンバーグは 「小学校の給食かイシイのハンバーグ」だったからだ。 どう考えても、不味い。あれが美味いという人は、 今日ではさすがにいないと思う。 はじめて、美味いと思ったのは、近所の山王マンション1階の テナントとしてオープンしたハンバーガーショップである。 わたしが麹町中学に通いだして間もなくのことだ。 当時、両親は共働きで、ふたりともすぐ近所に勤めていた。 母は休日でも午後2時くらいまで近くの服飾店でパートタイムをしていたため、 わたしに3百円を渡して、ハンバーガーでも食べてね、 と言い残すことが多かった。 そのハンバーガーショップは、マクドナルドが一般的ではなかったころの 個人経営店であった。しかも当時としてはかなり高額な300円であったと記憶する。 今と比較すればたいしたものではないが、当時は、 はじめて「ハンバーグっておいしいものなんだ。」と思ったものだ。 その後、高校に通いだしたある夏の土曜日の午後、 父から家に電話があり、ちょっと来いと呼び出された。 どこでもそうだろうと思うが、父と息子は、どこかしら確執がある。 わたしは強烈な個性の父があまり好きではなかった。 しかし、この日の午後は違った。呼び出されて向かった先は、 住んでいた社宅からすぐ近く、 父の勤め先の麹町会館からは目と鼻の先に位置する、小さな食堂であった。 当時は、屋号すらわからなかった。看板もなにもない、 カウンターで10席もない、隙間に立っているような小さな店である。 その強烈に古い建造物、強烈に狭く、歩くとこびり付いた油でヌルヌルして 転倒しそうな店内、空調が効かず、ドアが全開なまま、強烈なニンニク煙が立ち込める、 麹町なんて立地にはありえないようなワイルドな店は、 数年後、「モンドール」という屋号であることが判明した。 ぶっこわれて点燈しない看板が たまに外に出されるようになったからである。 ネット社会の今日では、1つ星どころではなく、 最悪の評価を得ること間違いなしである。 店内を小さなゴキブリが徘徊しているし、 店主のおやじはいつもがーっと淡を切っているし、 相方の奥さんと調理しながら、夫婦喧嘩をしているのである。 最悪を通り越して、マイナス100点でもおかしくない。 そんなモンドールに向かうと父が満面の笑みをたたえて、 わたしに席をとっておいてくれた。 言っておくが、ガラガラではない。それどころか、 土曜の午後に限らず、お昼時は常に行列ができる店だったのである。 わたしが中学に通っていたルートから少しずれていただけで、 気が付かなかったが、ここは、昔から麹町のサラリーマン知る人ぞ知る店であった。 いつも気難しい父が、ニコニコしている、というだけで異様だったが、 もっと意外だったのは、基本、食に興味がなく、 「なんでも腹がいっぱいになればいい。なんなら、 生のコメ食って、腹を火であぶればいいくらいだ。」とまで言っていた父が、 「これが美味いんだよ。」とニコニコしているのである。 それは、モンドール名物の「鉄板焼きハンバーグもやし付き」であった。 鉄板にのったハンバーグの脇に、他の具材が隠れて見えないほど 山盛りのモヤシが添えられ、モヤシをかきわけると、 フライドポテト、ニンジンのグラッセ、目玉焼きが顔を出す。 主役のハンバーグには、どうやって入手したのか作ったのか不明の、 オレンジ色っぽいデミグラス系ソースがたっぷりとかかっていた。 そのすべてが、鉄板に盛られた油の海に浸かっている感じなのだ。 間違いなくラードである。 このギトギト具合を見ただけで、お上品で繊細な人は卒倒するか、逃げ帰るはずだ。 こんなものを初めて見たわたしは、恐る恐る口をつけた。 それから、先は語る必要もない。 このハンバーグ鉄板は、わたしの人生の中で、指折りの伝説となった。 強烈に覚えているが、まさしく、こんなに美味いものを食ったことはなかった。 昼間からこんな料理を食いながら本当にうれしそうに ビールを飲んでいた夏の午後の父を忘れることも決してないだろう。 ![]() さて、わたしはちょくちょくモンドールに顔を出してはいたが、 やがて、面白い運命の偶然で、恐ろしく長い期間、この店とかかわることになった。 早稲田大学を卒業したわたしは、家は千葉の佐倉に越したものの、 自分の出身地である麹町に通勤することなったのである。 そうとなれば、当然、あのモンドールが待っている。 わたしは、週に最低1回は通ったと思う。 あまりに行列が長くてとても時間がないと判断せざるを 得ないことが多かったが、できる限り通った。 あるとき、いつも通り、ランチにハンバーグを注文し、カウンターに座ったところ、 となりでハンバーグ大のもやし付きをもぐもぐと豪快に食べているおやじに見覚えある、 ふと見たら、鳩山邦夫代議士であった。 自民党本部も歩いてほどない距離なので、きっと愛用の店なのだろう。 そうして、なんだかんだで、34年が過ぎたのである。 仕事がトラブった時ほど、ここの料理は切れ味抜群であった。 それはきっと誰しも一緒だ。カラダにいいものを、なんて考えていたら食えない。 不健康そうなものほど美味いのだ。 しかし、時を経て、さすがに店主も奥さんも歳をとった。 ご亭主は特に具合が悪そうな日が増えた。 わたしの体の80パーセントくらいは、あのラード肉で出来ていると自信を もって言い切れるくらいになったあるとき、モンドールは、 白い紙に赤いマジックでそっけなく書かれた「本日休業」が、 いつもあけっぱなしだったのに、ぴっちりと閉じられた扉に張られたままとなり 、いっこうに開店する様子がなかった。 そして、そんな日が知らないうちに淡々と過ぎていき、わたしは、 長年ともに通った同僚と、「モンドールがなくなったら、もう麹町に通う意味がない。 と同意しあうようになった。その同僚も言葉通り、自主退職し、わたしはとうとうひとりで、 「本日休業」の札がはずれる日を心待ちにするようになった。 しかし、心の底ではわかっていた。 もう、復活することはないだろう。そして、いくら似たようなコンセプトの店を探してみても、 決してモンドールの味はしない。100パーセント失望する。 それもいやというほどわかっていたのである。 わたしも退職し、モンドールのことは忘れていたあるとき、 やぼ用あって麹町に出向いたおり、ふとモンドールがどうなったか確かめにいった。 薄々、予想はしていたが、すでのそこには建物そのものがなく、更地になっていた。 わたしの脳裏に浮かんだ言葉は、「諸行無常夢の跡」であった。 もう、これ以上、この金言を文字通り身に染みたことはない。 夢の跡は、更地になると、狭く小さかった。 泣けるほど、哀しいほどに小さかったのである。 |