8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.317
食の思い出 第2回 「早稲田大学周辺ー稲毛屋の豚汁定食、 レストランびおーるのナポリタン、わせだの弁当屋のから揚げ弁当」 その1 「恋する豚汁定食ー早稲田稲毛屋の豚汁定食」 今はもうないが、かつて、第二学生会館というのがあった。 大学音楽サークルのたまり場があったのが、 1階ラウンジの一角。地下には、学生向き定食屋の稲毛屋があった。 ここの経営者、安井さんは学生会館の立地する地所の地主のひとりだったと思う。 そして、学生向きの廉価な食堂を家族で経営していた。親子経営である。 その彼が1階の空いたスペースでレンタルレコード というのをはじめたのは、1981年だと思う。 サークルの先輩がめざとく見つけて、 わたしは、早速、店番のアルバイトを始めた。 学生なので、授業にも出なくてはならず、すべてのシフトを埋められない。 そこで、もうひとり、またひとり、と増えていったなかに、わたしは潜りこんだ。 仕事は、借りに来た客がカウンターに持ってくるレコードに 傷やゆがみがないか簡単な検品をしてから貸し出す。 当時は完全な現金商売で、まだクレジットカードも ポイントカードも一般的ではなかった。 レジスターも完全手動、計算は電卓の時代である。 学生相手の小さな店は、客足はたいしたことはなく、小さな元手で小さく稼ぐ。 地面が遊んでいるのはもったいないので、 税金分だけでも稼ぐことにしたという感じの経営だ。 バイト仲間は、ほとんどが同じサークルの仲間なので、 働いているという実感がない。 レコードは、古いジャズファンで、元トランペッターでもある 安井さんの趣味の一環である。そもそも儲けようなどと思ってもいなかったに違いない。 ほとんどをわれわれ学生に任せてしまって、 自分は本業の定食屋に専念していた。 開店と閉店しか顔を出さない安井さんがすべてを整えてあるところで、 あとはアルバイトが指示通りにすればいい。 マニュアルなし、規則決まりなし、精神論なし、研修なし、ノルマなし。 コンプライアンスがどうしたこうした、言葉遣いがどうしたああした、 お客様がすべったころんだ、 現代ではなにかとかまびすしいあれこれが一切なにもなかった。 どうふるまってもよかったのだ。 「みんな、学生なんだし、常識もあれば、知恵もあるでしょ、じゃあ、あとはよろしく。」 大柄で筋肉質なうえにタップリ脂がのった安井さんは、 いつも油で汚れた白いエプロンで手をぬぐいながらにこやかに言ったものだ。 われわれ学生バイトも、好きなレコードをかけっぱなしにしていてもよかったので 、趣味と実益を兼ねてもいた。 ある時、安井さんは、私を含む、 バイトの中の当初メンバー3人を呼び出した。 「もうだいぶ長く働いてもらっているから、 ボーナスはないけれど、ごちそうするよ。」 そういって、とても貧乏学生が入れない、 かなり高級そうな中華料理店で酒と夕食をふるまってくれたこともある。 ペコちゃんみたいな顔をした大柄な安井さんは、 面白いくらいパクパクとよく食べ、よく飲んだ。 安井さんの長男、やっくんという、わんぱくな男の子も店で遊んでいた。 まだ小学生で、わたしにも懐いていた。レンタルレコード店にも よく銀玉鉄砲片手に遊びに来ていたので、 わたしは暇な時間に撃ち合いごっこに付き合ったりした。 まだ幼い彼の妹の面倒も見たこともある。 レコード店のレジ席で、彼女を膝にのせて、 漫画を描いてあげたりしたものだ。 そんなバイト生活の中、まかないというのではないが、 バイトメンバーは地下の定食が割り引き格安で食べられた。 その中では、豚汁定食が絶品で、これほどうまい豚汁は後にも先にも食べたことがない。 250円で食べることができたので、わたしは毎日豚汁だ。 今振り返ってみても、安井さんは、好人物で素晴らしい経営者であった。 安井家の家族もみな今では夢だったかのように暖かい。 アルバイト学生であったわたしたちにも本当によくしてくれた。 昭和のテレビドラマに出てくるような、ほのぼの家族経営の店、 というのは本当に実在した。わたしもその一員だったのだ。 サークルのメンバーが卒業したり、就職活動に入ったりで、 バイトは後輩に受け継がれていったが、 レンタルレコードは、レコード文化の衰退とともに客が減り続け、閉店となった。 そして、いつだったか忘れたが、 第二学館の解体とともに、地下の定食屋も閉店した。 われわれ元バイトメンバーに残ったのは、 楽しい思い出と忘れがたい豚汁の味であった。 もう一度でいいから、あの豚汁定食を味わってみたい。 レンタルレコード店でよく聴いていた大瀧詠一の「恋するカレン」を聴きながら、 のんびりした昭和の学生だったころを思い出すたび、あの味を思い出すのだ。 その2「1980年のナポリタンー早稲田レストランびおーるのナポリタン」 今から45年前、わたしは、法学部で司法試験を目指すつもりでいた。 うららかな5月のある日、法学部8号館の建物を出たすぐのところにある 小さな洋食屋びおーるに、法学部のクラスの仲間が何人か集まった。 ここは、その後、なんとなく決まったわたしたちのたまり場になっていった。 看板メニューのナポリタンは、量はすごいが昔ながらのケチャップ味で、 うまくもなくまずくもなく、当時ですら懐かしい感じがしたものだ。 現在は、レトロブームなのか、昭和の洋食屋ナポリタンがもてはやされているようだが、 当時は別にそんなものだとは思っていなかった。ただの安価なスパゲティである。 「スエちゃんも弁護士目指すのか。」 「いや、俺は、全然そんなこと考えてないよ。」 「こんなかで誰が受けるんだ?柳田は?」 「このメンツには、誰もいないんじゃないか? 誰か受ける? 司法試験。」 「おれはやだよ、勉強嫌いだし。就職できりゃいいじゃん。」 「法学部って、司法試験受けなかったら何の意味もないんじゃないか?」 「受かるまで10年かかるっていうぜ。」 わたしは、深く考えずに、みな、一所懸命勉強をして、 司法試験を受けて弁護士になるもの、と思っていたのだけど、 そんな単純なものではなさそうだった。 だいいち、そんなに長期間勉強だけする資金なんか家にはなかった。 本当に医者みたいに、実家が金持ちでないとなれない仕事なのだろうか。 とりあえず、わたしは、司法試験サークルで合格者が 多いと言われていた「緑法会」に入ってみることにした。 春先だというのに、静かでまったくうかれた空気などかけらもない、 文学部近くのサークルの部屋はなんとなくひんやりして、かびくさいにおいがした。 それからほどなくして、キャンパス内をぶらぶらしていたとき、 カントリー系音楽のサークルのバンドが演奏しているのを見て 、これに加入させてもらうことにした。 あっという間に夏の盛りも過ぎようという頃、 夏休みのゼミにいつもどおり顔を出すはずだったわたしに連絡が入った。 音楽サークルの同期の女の子からお誘いだった。 しかし、緑法会のゼミと時間がかぶってしまっていた。 どちらかを選ばなくてはならない。 わたしは、とりあえず、自宅から大学に向かった。 愉しいのは音楽仲間や女の子たちと飲みに行くほうに決まっている。 しかし、わたしは、ちゃんと法学部で勉強をするつもりだった。 ここは男らしく、緑法会の先輩が言うとおりに、 ゼミに顔を出さなくてはいけない。 自分の将来がかかっているのだ。 夏が好きなわたしにとって、人気もまばらでうららかな昼下がりの大学前大通りは、 ぶらぶらしているだけでなんともいい気分になれる散歩道でもあった。 緑法会の部室の前に到着して、ドアノブに手をかけたとき、 実は、わたしの心は決まっていた。でも、そうではないフリをしていたのだ。 わたしにはしなくてはならないことがある、そう信じていたつもりだった。 とにかく、とうとう、わたしはドアノブを回さなかった。 それが実際に起こったことであり、もう今となってはとりかえしがつかない。 そして、そのまま、来た道をとって返したわたしは、まっすぐ音楽サークルに向かった。 見上げると、空はスコーンと真っ青で、 セミが最後の力を振り絞るかのように、鳴いていた。 それ以来、わたしは、ただの一度も、緑法会には顔を出さなかった。 とどのつまり、わたしは、なんとなくバンド活動を続け、 最低限の勉強をして、4年で卒業だけはすることになった。 それに、司法試験を受けるなんて余裕はなくなっていた。 父が突然、病気で倒れ、自活しながら学費は自分で返さなくてはならない 奨学金という借金になり、モタモタいつまでも勉強なんてしている余裕なんかなかった。 4年で卒業して10年働いて返さなくてはならないのだ。 わたしは、そのために、なにがなんでも早く就職しなければならない、 そう覚悟を決めていた。 振り返ってみれば、わたしは、あまりに趣味的で金にもならないバンドをやりながら、 バイトに明け暮れていただけの、どこにでもいるボンクラ貧乏学生に過ぎなかった。 卒業直前、わたしは、法学部の仲間のたまり場である洋食屋で みなと待ち合わせ、いつものように、ナポリタンを食べた。 結局、わたしと親しかった連中は、誰も司法試験を受けたりはしなかったし、 そんな優等生でもなかった。みな似たり寄ったりである。 それぞれ、それなりに就職先は決まっていて、これからネイビーかグレーのスーツに ネクタイをしめたサラリーマン1年生になっていく。 当時、「要は生き方だ」という言葉が流行ったけれど、本当は、成長とは、 自分のダメさ加減を知って、ますますダメになっていく過程なのじゃないか。 あっという間だったような、とても長かったような4年間の締めくくりにはほど遠い、 学生街の小さな洋食屋で食べたナポリタンは、とりたててうまいわけでもなく、 腹をすかせた貧乏学生のおなかを一杯にするのは適した食べ物、 というだけの代物だったけど、わたしには十分な気がした。 人生、いつでもやり直せる、というが、それは嘘である。 そんな励まし文句が誰にでも通用するなら、 だれもが自分の望む通りの人生を歩んでいるはずである。 で、実際には、そんなことはない。日常生活の厚い壁に阻まれ、 思わぬ時代の波にもまれ、過酷な現実に本当に追いつかれないよう、 必死で逃げ延びるのが精いっぱいという人も大勢いる。 わたしも今振り返ればそんな人間のひとりであった。 抜けるような青空の下、緑法会の部室の前でたたずんでいた5分間と そのときの決断がよかったのか悪かったのか、 いくら再び抜けるような青空にセミの鳴く夏がめぐってこようと、 永遠にわかりはしないと思う。 そして、もちろん、レストランびおーるもとうの昔に閉店している今、 法学部仲間といつも食べていたナポリタンの味だけが 確かな記憶としてよみがえるのみである。 その3「あの唐揚げは今いずこーわせだの弁当屋(旧ほっかほっか亭)の唐揚げ弁当」 先に断っておくが、ここにしるすすべては、 わたしがたった今、知った衝撃の事実である。 当時の同級生近辺で、わたしと同じように愛好し、そして、 わたしと同じように思い違いをしている人がいたら、 同じように衝撃を受けることは間違いない。 第二学生会館から早稲田駅に向かうルート途中に、 ほっかほっか亭(通称ホカ弁)という弁当屋があった。 今でもあるチェーン、ほっかほっか亭の早稲田店である。 ここのから揚げ弁当は凄かった。当時、言われていたのは、 「蓋が閉まらない弁当屋」である。唐揚げ弁当はごはんと唐揚げが 別々の容器に入っていて、唐揚げのほうは、文字通り蓋が閉まらないどころか、 容器の倍くらい入った唐揚げを輪ゴムで無理やり蓋をして詰め込んでいた。 量だけではない。味の面でも、ここの唐揚げ以降、 食べた唐揚げ数知れずとも、超えるものはない。 これを第二学生会館にテイクアウトし、1階大学音楽サークルのたまり場で年中食べていた。 わずか350円で、稲毛屋の豚汁定食とどっこいどっこいの安さだった。 おかげで当時、ずいぶん太ったことを記憶する。 そのほっかほっか亭チェーンが今でも存在すること自体、 ネットで調べて、初めて知った。なぜか関東には数えるほどしかないからである。 現在、その店舗のほとんどが関西で、東京に7店舗、千葉には2店舗しかない。 関東にあるのは、よく似た感じのほっともっと。 うちの近所にもある。 わたしは、ほっかほっか亭がほっともっとに移行したと思い込んでいたが、違った。 同じ系列店が途中から、経営母体が変わり、別れたようだ。 そのほっともっとのほうは、ちょくちょく車で出向いて、 利用している。もっぱら「唐揚げ弁当」目当てだ。 というのも、先に書いたように、 早稲田大学ほっかほっか亭のから揚げ弁当の大ファンだったからである。 しかし、いつも家族に言っていたのだ。 「俺が若いころ食っていたほっかほっか亭のは、 蓋が閉まらないほど唐揚げが入っていた。 こいつは、その3分の1も入ってない。 どこへいったんだ、あの唐揚げは。おまけに当時ほど美味くもない。」 爺さんの昔話、愚痴話である。 調べてみると、現在の早稲田の彼の地には、ほっともっとも、ほっかほっか亭も存在しない。 やはり、当時だけのほっかほっか亭にあった 伝説になってしまったと思い込んでいたのである。 しかし、事実は異なっていた。 結論から言うと、当時の学生会館近くにあった弁当屋は、 あれから45年経た現在も同じ場所に存在する。 そして、今でも学生中心に大人気で、「蓋が閉まらない弁当屋」で有名なままだった。 商号が変わっていて、気が付かなかった。 ここには複雑な経緯がある。 現在、この弁当屋は、「わせだの弁当屋」という商号になっている。 まったく、同じ場所に昔と変わらない 小さな店舗で営業するテイクアウト専門店である。 もともとは、ほっかほっか亭であったらしいが、その後、 ほっかほっか亭VSほっともっとの戦いと関係なく、 独自路線を守るべく、ほっかほっか亭チェーンを離脱。 まったくの独立経営店として、商号を変え、今に至っているということらしい。 そして、付近の弁当屋をはるかに超える、超人気店として早稲田では 伝説化するほどになっているのだ。 あぶらっこい揚げ物中心の3店を「早稲田3大油田」というらしい。 こちらも懐かしい、キッチンオトボケ、キッチン南海、 そして、わせだの 弁当屋の3店だ。 当時の思い出でもうひとつ忘れられないのは、 弁当屋でたぶんアルバイトをしていた女性である。 日本人離れした素晴らしい体格の持ち主で、女性関取のようであった。 彼女がもくもくと、油まみれ汗まみれになりながら、 ひたすら唐揚げを揚げて、それをひとつひとつ容器に詰め込んでいく作業を、 わたしは毎日のように見ていた。 そして、パンパンに膨れた唐揚げ弁当の包みを渡しながら、 ありがとうございました、と汗を光らせながらにっこり笑うのだ。 あの輝くような笑顔、あの素晴らしい人はいまどうしているのだろうか。 まさか、彼女がいるわけではないだろうが、 あの唐揚げが今でも食べられるとは思っていなかったので、 これは、近々、ぜひ行って食べてみたい。 わたしにとって、これは、ほぼ「死者との再会」に近い。 当時の同級生、仲間で、一緒に行く人がいたらいいかな、と思う。 彼らと、今はない学生会館ではなく、 大熊庭園になるだろうけれど、あの唐揚げ弁当を食べてみたいのだ。
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