8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.31
                                                                                                                                 
 
  ミンストレル・マン・フロム・ジョージア ― エメット・ミラー




 「ヨーロレイー、ヨーロレイッヒーイー!ゴクゴクゴク・・ブッハー・・」
今日も元気だ、ミルクがうまい! アルプスの山からこんにちは。頑固8鉄です。

 日本でヨーデル、というと、そんな、チロリアンハットかぶったお父さんイメージが一般的ですが、アメリカを代表するカントリー&ウエスタン音楽の初期の唄を一番特徴づけているのが、いわゆる「ブルー・ヨーデル」。流行らせたのは、1920年代に活躍したジミー・ロジャースでした。
ロジャースは、カントリー音楽の父、として、一般的に有名ですが、同時期にロジャース自身に大きな影響を及ぼした人がいます。

 彼の名前は、エメット・ミラー。そうエメットさんであり、コメットさんではありません。「ミンストレル・マン・フロム・ジョージア」として知られる人です。
ミラーが20年代に吹き込んだ数々の楽曲は、現在、ほとんどカントリー音楽のスタンダードとなっており、現代のカントリー&ウエスタン音楽、そこから派生してきたロカビリー音楽の先祖、とでも言うべき重要人物といえるのですが、1970年代まで、ほとんど顧みられることもなく、その経歴のほとんどは未だに謎のままなのです。

ミラーの歴史的な知名度が低いのは、表だって活躍した期間が20年代後半の5年間ほどと非常に短く、しかも経歴がほとんどわからないためだと言われています。しかし、それには理由がありました。

 ミンストレル、というのは、アメリカ大衆芸能そのもののルーツといわれている、旅回りのメディスン・ショー(薬を売るための巡業演芸)の伝統を受け継ぐショー形式で、「顔を靴墨で塗って、カツラをかぶり、黒人の真似をする白人によるコメディ・ショー」のこと。20世紀初頭に非常に流行ったものです。
日本でも一時期、シャネルズ(現ラッツ&スター)が顔を黒く塗って有名になりましたし、ヤケに面白い顔をした「ガングロ」なる女子が渋谷あたりを跋扈したこともありますが、とりあえず、この話とは関係ありません。

 ミンストレル・ショーは、1929年でほぼ絶滅した芸能です。
そして、人権問題、人種差別問題が深刻化していき、社会意識が変わってくる20世紀後半以降は、ミンストレルという芸能形式自体が、歴史的にも、ほとんどNG,御法度の世界。
ジャズであれ、ブルーズであれ、カントリーであれ、アメリカ芸能は長い伝統と歴史の上に成り立っていますが、ミンストレルだけは完全に消滅したジャンルなのです。
というのも、ミンストレルというのは、「馬鹿で間抜けな黒人の役柄を、あえて白人が誇張して演じる」というところに笑いの重点があり、当時としては「黒人は間抜けな田舎者ばかり」という、明らかに間違った人間観に基づく、不当な差別意識から発生したものだからです。アメリカの歴史上は、できれば「なかったことにしたい」ジャンルなわけですね。
さらに、ミンストレルというのは、基本的には「音楽」の世界というより、「お笑い」の世界なので、ミラーは、音楽史上は、ほとんど顧みられることはなかったのです。

 しかし、当たり前のことですが、芸能形式そのものが社会的、政治的に問題があることと、ショーとして芸術的にどうか、音楽的に優れているかどうか、ということは無関係。さらに、ミンストレルの白人芸人たちが、差別意識を持っていたかどうかとも無関係といえます。問題は、それを面白いことだと思っていた、当時の客層の意識にあるからです。


 ミンストレル・マンだったエメット・ミラーも、数少ない記録によれば、子供時代から黒人音楽に憧れていた人だったようで、その夢を実現するために、黒人の扮装をして、黒人らしい唄い方(当時流行っていたディキシーランド・ジャズ系統)をした人でありました。自分も黒人のようになりたい、と思っていたから、流行のミンストレルをやっていたわけで、黒人文化を馬鹿にする差別意識とはまったく逆の動機だったのです。しかし、コメディアンとして絶大な人気を持ったために、ミラーが本当にやりたいことだった、音楽家としての側面がかすんでしまったのかもしれません。

 ミラーの唄は、非常に個性的で独特のものでした。
それは、ヨーデル・シンギングを取り入れた、ミラーだけのまったくの独創、といっていいもので、当時としては、珍奇なものだったのですが、ミラーの後を追って大スターとなったジミー・ロジャースがこうした歌い方をし、それが後々、40年代のボブ・ウイルス、50年代のハンク・ウイリアムズ(シニア)、70年代のマール・ハガードといった有名カントリー・スターたちへと引き継がれていきました。

 ジミー・ロジャースとエメット・ミラーの活動時期はほとんど同じなのですが、ふたりの接点というのはあまりありません。
しかし、ロジャースがミラーのステージを観て、大きな影響を受けた可能性というのはあるようです。

 ロジャースとミラーが最も違っていたのは、ショーマンとしてのスタイルで、ロジャースが、今日で言う「ギターを弾くシンガーソングライター」だったのに対し、ミラーは本質的に「唄も唄うコメディアン」だった点でしょう。
今日観る事が出来る数少ない映像を観ても、ミラーはミュージシャンというよりコメディアンだったことがわかります。
見かけも違う。ロジャースは、実際に鉄道員だったこともあり、「唄うブレーキマン」として売り出しました。そのため、西部劇に出てくるような鉄道員の格好やカウボーイのスタイルで登場し、それがカントリー音楽の見掛け上のスタンダードとなっていったのに対し、ミラーは「今はなかったことになっている」顔を靴墨で塗りたくったズート・スーツのミンストレル芸人だった。
さらに、サウンドも全く違うものでした。ジミー・ロジャースが基本的に弾き語りのギタリストであり、それがカントリー音楽の伝統のルーツとなっていったのに対し、ミラーはジャズバンドをバックに従えていたのです。

 しかし、このレコーディング時の即席セッション・バンド(ジョージア・クラッカーズ)は非常に優れたバンドであり、メンバーは、ジミー・ドーシー(サックス、クラリネット)、トミー・ドーシー(トロンボーン)、ジャック・ティーガーデン(トロンボーン)、エディ・ラング(ギター)、ジーン・クルーパ(ドラムズ)など、全員、後に、それぞれが大スターになった「ジャズ・レジェンド」ばかり。
今日のジャズファンの耳で聴けば、その人間味溢れるサウンドは素晴らしく、結果的にオールスター・バンドに近いものでした。


 最初にヒットし、後々にスタンダードとなったミラーの最も有名な曲は、おそらく「ラヴシック・ブルーズ」で、1925年に吹き込まれました。(テープの紛失により現在は聴くことが出来ません)。これは、1928年にミラー自身によって再録音され、こちらは現在でも聴くことが出来ます。
現在、この曲の最も知られているヴァージョンは、1950年代のハンク・ウイリアムズのものですが、ウイリアムズは、ミラーの録音を聴いてすっかり気にいってしまい、カヴァーしたということのようです。

 後の音楽家にカヴァーされて、有名になったミラーの持ち歌は、「ビッグ・バッド・ビル(イズ・スイート・ウイリアム・ナウ)」(ライ・クーダー、マール・ハガード)、「ライト・オア・ロング」(ボブ・ウイルス)、「スイート・ママ」(レオン・レッドボーン)などたくさんありますが、特にボブ・ウイルスが、後々の音楽に大きな影響を及ぼすことになります。
ミラーのバンドサウンド全体は、今日聴くと、カントリー歌手のバックにホーンセクションの入ったジャズバンドがくっついたような、独特の「カントリー・ジャズ」であり、これに最も直接的な影響を受けたのが、ウエスタン・スイングだと考えられているからです。
1940年代にウエスタン・スイング・スタイルを創り出した張本人である、ボブ・ウイルス自身が、「最も好きなミュージシャンはエメット・ミラーだ。」と言ったという事実もあります。
そして、40年代にたくさんあったウエスタン・スイング・バンドのひとつ、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツが、やがて初代ロックバンドとなったり、スコティ・ムアなど、ウエスタン・スイング・スタイルから多くの知識を得た、次世代のカントリー・ミュージシャンたちがロカビリー音楽を創っていったわけですから、エメット・ミラーは、「ロック音楽の祖父」とでもいうべき人だったとも言えます。

 ミラーが活躍したのは、20年代後半で、1930年代に入り、ミンストレルの・ショー自体が絶滅してしまうと、ほとんど活躍の場がなくなりました。
多くのミンストレル芸人が、「ヒルビリー芸能」(後のカントリー&ウエスタン)方面やハリウッド映画方面に移って成功したにもかかわらず、ミラーは、決してミンストレル・ショーのスタイルをあきらめようとせず、それが表舞台から消えていった原因だったようです。
オーケー・レーベルに残したレコーディングデータ以外、ミラーの経歴ではっきりとわかっていることは、生年、出生地と没年くらいで、1900年、ジョージア州メイコン生まれ(リトル・リチャードと同じ)、1962年没。
亡くなったときは、野菜の露天商として生計をたてていたのだそうです。

ミラー本人が、ひっそりと人知れず亡くなってから、10年以上経ってからのこと。突然、ミラーの実績は大きくとりあげられることになりました。

「現代アメリカ音楽の先駆者として、世界がエメット・ミラーを思い出してくれることを心から望んでいるよ。」と語ったのは、このコラムでも以前紹介したレオン・レッドボーン。

評論家で作家のニック・ノスチスは、「エメット・ミラーの音楽は、カントリー&ウエスタン音楽の大きな基礎を築いた、最も重要な源泉である。」と言いました。

 さらに、カントリー界の大スター、マール・ハガードは、ニュー・オルリンズで、ディキシーランド・ジャズのバンドをバックにつけた、エメット・ミラーへのトリビュートアルバム、「アイ・ラブ・ディキシー・ブルーズ」を録音。名盤として、大ヒットになりました。

 特に、レオン・レッドボーンは、「現代に蘇ったエメット・ミラー」と言っていいほど、ミラーの音楽をよくフォローしており、「ゴースト・オブ・ザ・セントルイス・ブルーズ」、「エニイタイム」、「スイート・ママ」、「アイ・エイント・ガット・ノーボディ」、「ライト・オア・ロング」など、たくさんのミラー曲をレコーディング、演奏し続けてきています。
特に有名なミラー曲、「ラヴシック・ブルーズ」では、ハンク・ウイリアムズ・ジュニアをゲストに迎え、バックバンドを含めて、ミラーのオリジナル・ヴァージョン(1929年版)をほとんど完璧にコピーするほどのミラー・フリークぶり。

「ラヴィン・サム」(ル・ドュー・ラヴィ・オーケストラ)、「ビッグ・バッド・ビル」(ペギー・リー)、「アイ・エイント・ガット・ノーバディ」(ジョージ・バーンズ、ダイナ・ショア)などなど、他にも、非常に多くのカヴァーがあり、むしろ、オリジナルがエメット・ミラーという人物であったことのほうがほとんど知られていないと思います。
「ビッグ・バッド・ビル」にいたっては、ヴァン・ヘイレン版まであるのです。

 そして、ソニー・レコードの手により、長らく一般的には1曲も聴くことが出来なかった数少ないエメット・ミラーの音源が、デジタル・マスターで復刻されたのは、1996年。今日でもこれはCDで簡単に入手することができます。タイトルは、「エメット・ミラー・ミンストレル・マン・フロム・ジョージア」。実に、ミラーの全盛期から70年後、死後34年後のことでありました。っという事で今回の奇跡のナッソージャケットの次に、コレをゲットするのも良しでしょう。順番だけは間違えないように!

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