8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.30
                                                                                                                                 
 
 ベスト・オブ・ザ・ウエスタン・ムーヴィーズ  ー60年代の西部劇

 ハウディ!フォーーーークス!
ヴィヴァ!ラ・バンディトーーーーース!
失礼つかまつります!おのおのがた!

なんだかんだ言って、俺、やっぱり、好きなんじゃん・・西部劇が・・。
と、改めて思うのですが、気がつけば、若い人が「西部劇ってなあに?」という時代になってきて、かなり哀しいオヤジ、
頑固8鉄であります。

わたくしが子供のころ(1960年代)は、海外映画というと、西部劇がかなり人気を博しており、ずいぶんたくさんの西部劇を映画館やテレビで観たものです。とりわけ、60年代、低予算で大量に作られたイタリア製西部劇(欧米では「スパゲティ・ウエスタン」、日本では「マカロニ・ウエスタン」という。)が大流行。
テレビ番組では、本場アメリカの「ローハイド」や「ララミー牧場」、「ボナンザ」、「ガンスモーク」などたくさんあり、どれも記憶に残っています。

そんな中で、特に好きだったのが、マカロニ・ウエスタン。
人間離れした冷血な悪漢を、ボロボロのヒーローがやっつけるという、どれも同じようなマカロニ・ウエスタンを、くっだらない馬鹿映画、という人もいますが、わたくし頑固8鉄は、今でも大好き。
マカロニに限らず、ほとんどの西部劇は、特撮なんて一切なし!そんなものは必要ないのじゃあああ!!と言わんばかりに、素晴らしいロケーション、痛快なストーリー、ホンモノの悪は滅ぼすしかないというテーマが売り。それこそがアクション映画のカタルシスで、「これぞ男の映画だ!」と、洟垂れガキのくせして、思ったものです。



 そんなわたくしが、テレビでなく、最初に劇場で見た西部劇は、「THE GOOD,THE BAD,AND THE UGLY」(「続・夕陽のガンマン」1967年)
これはイタリア製のマカロニ・ウエスタンで、わたくしの父は、「本場のアメリカ西部劇はドンパチが少なくてつまらないけど、マカロニなら観る!」という男だったために、「とうさん!マカロニ連れてって!」といえば、喜んで映画館に連れて行ってくれたものでした。

セルジオ・レオーネが監督し、エンニオ・モリコーネが革新的な音楽を担当し、クリント・イーストウッド、イライ・ウォラック、リー・ヴァン・クリーフという歴史的名優が3つどもえの名演を見せたマカロニの傑作が、「続・夕陽のガンマン」。
南北戦争のさなか、南軍が隠した20万ドルを巡って、3人の賞金稼ぎ(指名手配犯を捕まえて保安官に売り渡す商売)が、騙し合いを繰り返しながらついに、3つどもえの決闘になだれ込んでいく、というお話。
しかし、この映画の真価は、元来、本場アメリカ製西部劇をパクっただけの、チープな「バッタモン」扱いだった「マカロニ・ウエスタン」の中の稀な傑作、ということにはとどまりませんでした。
世界的に人気を博した初公開の後、40年以上経過した現在も、必ず全米のどこかの映画館で上映され続けており、アメリカの「あなたの好きな映画トップ10」に常にランクインされ続けている作品は、これくらいしかない。
これは、カルトムービーの王様であり、評論家でない、世界の普通の人が認めた、傑作といえるのではないでしょうか。
クエンティン・タランティーノが「これが映画史上のベスト1だ」と言いましたが、わたくしも、そう思います。 三つ子の魂百まで、というやつかもしれません。

そういえば、近年、「アルティメット・エディションDVD」が発売になり、入手しましたが、未公開、当時カットされたシーンをMGMが鳴り物入りで復元。
英語版吹き替えが存在しないシーンは、新しく吹き込みをし、現在78歳のイーストウッドと92歳のウォラック本人が自らの声をあてています。(クリーフはすでに故人。)
完全版は、178分。 ほぼ、3時間、すでに、ストーリー、セリフの全部、背景、人物の表情まで、暗記しているほど繰り返し観た映画にもかかわらず、一瞬も退屈しないで、観られました。
近年作られたメイキング・ドキュメンタリの特典映像も素晴らしかった。
現在、90代で、さすがに老けたものの、にかっと笑う不敵な笑顔が、劇中の役柄「トゥーコ」(ugly、卑劣漢)そのもののウォラックを観られただけでも感涙ものです。

 さて、テレビで観たマカロニ・ウエスタンで、一番印象が深いのが、「DJANGO」(「続・荒野の用心棒」1966年)
イーストウッド主演の「ドル箱三部作」(荒野の用心棒、夕陽のガンマン、続・夕陽のガンマン)を撮ったセルジオ・レオーネが、後の「ウエスタン」、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」などで、そのスケールの大きさと高い芸術性から、西部劇にとどまらない世界的な巨匠となっていったのに対し、「続・荒野の用心棒」などを撮ったセルジオ・コルブッチは、壮絶な復讐劇をひたすら暗い、陰惨なタッチで描ききって、「マカロニ・ウエスタン」というジャンルの王様となっていきました。
レオーネの傑作、「続・夕陽のガンマン」は、そもそも陰鬱にならざるを得ない殺伐としたストーリー展開に、ユーモラスな味(イライ・ウォラック演じる憎めないメキシコの山賊、トゥーコ)を添えることで、全体のトーンを楽しげなものにしていますが、「続・荒野の用心棒」は、ひとかけらの笑いもユーモアもない。
そして、ひたすら陰鬱な殺伐とした復讐物語の中に、人の業、とか、悲しみとか、さげすまされた者同士の愛とかをそこはかとなく描き出しており、最もマカロニ・ウエスタンらしい、ヨーロッパ的な傑作となっていると思います。

しかし、別格であるレオーネ、コルブッチを除いて、ほとんどのマカロニ・ウエスタンは、ひたすら人を殺しまくる冷酷な悪漢を、あまり正義感もないアウトローのアンチヒーローが血祭りにあげる、といったパターンだけを踏襲した、低予算で雑に撮られた見世物映画、B級作品がほとんどでした。


 そんな中、元体操選手で、どこからどうみても、暗さ、重さ、といったものとは無縁の明るいキャラであるジュリアーノ・ジェンマの個性全開で、ミケーレ・ルーポが演出した「ARIZONA COLT」(または「MAN FROM NOWHERE」)(「南から来た用心棒」1966年)は、「コメディ・マカロニ」ともいうべき作品。これもとても印象に残っています。
ひらすら、ドンパチ、ピストルで人を殺しまくるのは他のマカロニ作品群と同じですが、口八丁手八丁でやたらとおしゃれな主人公をはじめ、どの場面も作り物っぽさ全開。劇画の世界をそのまま実写にしたような作りの、B級活劇でした。
そして、他の西部劇では、ヘンな虫でもかみつぶしたかのような表情の主人公ばかりなのに、ジェンマ演じるこの映画の主人公、アリゾナ・コルトは、ミルクしか飲まず、ヘラヘラしている、人を食った軽薄な男。
対する悪玉は、マカロニの最多出演俳優である、フェルナンド・サンチョおじさん(スペインのコメディアン)で、「野郎どもおお!!ぶっころせえええ!」(滝口順平の名吹き替え)と常に吼えまくりながら、6連発のピストルからなぜか100発くらい撃ちまくったりする、漫画そこのけの怪演ぶり。
そして、はっきり言って、凡作、駄作もいいところの、この映画を、忘れがたいものにしているのは、フランシスコ・デ・マージの名主題歌「THE MAN FROM NOWHERE」(唄はイタリアン・カンツォーネの歌手、ラオール)。 これこそは、紛れもない、名作、名曲でありました。

こうしたマカロニ・ウエスタンではないけれども、アメリカ本国でも60年代を境に、西部劇はずいぶん感じが変わってきています。
かつて、50年代にジョン・ウエインが演じたような「有無を言わさぬ正義のヒーロー」より、私腹を肥やすことばかり考えていそうな「アンチ・ヒーロー」が主人公の物語が多くなってきた。




 そんな1962年には、1950年代まで全盛を誇った、本国アメリカ製西部劇の終焉を告げる美しい名作が作られている。「古式ゆかしい西部劇の最後の作品」ということもできます。
我が国においては、一般にあまり知られていない作品ですが、わたくしはテレビで観た記憶があるのですが、サム・ペキンパー監督の初期の作品、「RIDE THE HIGH COUNTRY」(「昼下がりの決斗」)
老いたガンマン2人(50年代までの西部劇大スター、ランドルフ・スコットとジョエル・マクリイ)が、金塊護送の仕事中、男にだまされていることに気がつかないわがままな小娘と出会い、彼女をなんとか守ろうと、親心で売春組織のチンピラ一味と対決。この2人も決して漫画のような正義の味方ではなく、とても人間くさい、 うさんくさい男たち。
しかし、旧い時代の男らしく、最後まで正々堂々と戦うことを潔し、とする主人公2人が、真正面から戦いを挑み、悪を倒しつつも、あっけなく自らの命を落としていく、というラストは、それまでの「勧善懲悪」をくつがえす物語の中に、終わり行くアメリカ西部劇の伝統、旧い正義感の終焉を描き出して秀逸でした。
それでも、後味が非常にさわやかなのは、ハリウッド舞台から去り行く過去の名優ふたりの哀愁溢れる素晴らしい演技によるものだと思います。(ランドルフ・スコットはこの作品を最後に引退。)
低予算の小品ながら、ジョージ・ベイスマンの手による素晴らしいテーマ曲、驚嘆するほどの風景の美しさ、クラシックなアメリカ西部劇の作風の中、去り行く年老いた男の哀愁が胸に突き刺さる、正真正銘の傑作だと思います。


 そんな映画を撮ったサム・ペキンパーは不思議な映画作家だなあ、と改めて思うのですが、1969年、ほとんど死に絶えていた、アメリカ本国における西部劇を復活させたと同時に滅ぼした、といわれているペキンパーの伝説的傑作が「WILD BUNCH」(「ワイルドバンチ」)。
これは、それまではまったくなかった、血しぶき飛び散るスローモーション多用の暴力描写の先駆として有名な映画ですが、4人の主人公たちが、数百人のメキシコ革命軍をなぎ倒しながら、蜂の巣にされて死んでいくすさまじいクライマックスは、その暴力描写とともに、それまでの西部劇の定石だった、予定調和的ハッピーエンドを根底からくつがえしたものとして、観る者に強烈な印象を与えます。
しかし、西部で生まれ育ち、現実の西部を愛したサム・ペキンパー監督が本当に描きたかったのは、62年に製作された「昼下がりの決斗」と同じく、旧い時代の西部の終焉であり、去り行く旧いタイプの西部人への挽歌だったと思います。





そして、それが最も端的に現れたのが、翌1970年の作品、「BALLAD OF CABLE HOGUE」(「ケーブル・ホーグのバラード」または「砂漠の流れ者」)。
これは、おそらく、史上最も不思議な作品で、最も「何事も起こらない西部劇」です。 派手なアクションも暴力もない、とてもハートウォーミングな映画。
登場人物すら、ジェーソン・ロバーツ演じる主人公以外、ほとんどいない。
わけあって、砂漠に放り出されたひとりの男が、奇跡的に水源を発見し、そこに住むようになる。その淡々とした生活を、ユーモラスに暖かく描き出した、非常に静かな作品でした。

演出の素晴らしさもさることながら、主役のジェーソン・ロバーツ、ペキンパー映画常連の名脇役であるストロザー・マーティン、スリム・ピケンズなど、飄々としたユーモアとペーソス溢れる素晴らしい演技で、この「何も起こらない西部劇」を最後まで飽きさせずに観ることが出来ます。
そしてラスト、主人公は、はじめて見る、新しい発明品である「自動車」にびっくりしているうち、事故であっけなくひき殺されてしまうのです。

クラシックな低予算西部劇の「昼下がりの決斗」、暴力描写が炸裂する「ワイルドバンチ」、世界一静かな西部劇、「ケーブル・ホーグのバラード」。
それぞれ個性的な、ペキンパー西部劇のどれにも共通しているテーマは、やはり、近代化されて消えていく古き西部、そして失われていく男のロマン、です。
だからこそ、どの映画も、結局は悲劇でありながら、すがすがしいほどの後味のよさが残る。そこには、失われたものへの静かな哀愁が漂うのみでありました。

60年代の西部劇は、映画館であれテレビ放映であれ、わたくしが子供時代にリアルタイムで観た楽しい娯楽であっただけでなく、「人間社会の表裏」とか、「理想的な男の生き様」みたいなものを垣間見させてくれる、素晴らしい芸術でもあったように思います。
そして、西部劇がほとんど死に絶えてしまった今でも、そのスピリットは静かな哀愁と共に、わたくしの心の中にあるのです。

COME BACK! WESTERN MOVIES!

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