8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.290


OSHIGOTO短編小説 最終決戦
 




35年勤めた地方自治連合会事務局で、最も交流が薄い、
しかし、最も忘れがたい人物のひとりに、柳副部長がいる。

東大法学部卒、5か国語を操る国際部副部長である。
なぜ、能力も秀でて学歴もある彼が、高級官僚にならなかったのか、
それは謎である。なぜ副部長どまりだったのかも謎だ。

 しかし、ひとつはっきりしているのは、柳さんは奇人だということだった。
 「それは、書庫の、3B列の3段目の中ほどにあります。」
 調べたい条文を言えば、職務で使う加除式六法のどの部分を探せばいいか、
それが物理的に書庫のどこにあるのか、柳さんは調べもしないで、
こともなげに教えてくれた。
 
その教え方は無駄がなく、結論だけであって、無駄口はいっさいたたかなかった。
しかし、その様子は、確信に満ちたものとは程遠い。
おどおどして、自信なさげで、相手の目を決して見ない。
あらぬ方向を見たまま、か細い声で言うのだ。しかし、常に正解である。
 
背が低く、やせていて、まったく合っていない安いスーツはガボガボ。
ズリ落ち気味のズボンをパタパタさせながら、
内股でいつもうつむきかげんに歩いていた。

 50そこそこでまばらになった髪の毛は、
手入れされずにもじゃもじゃと伸びたまま。
ずり落ちた眼鏡の奥の目はいつもおどおどして、挙動不審人物に見えてしまう。
要するに、冴えないおっさんを絵にかいたような人であった。
 
国際部というのは、2年に1回しか主な業務がない。
自治体トップの国際会議が2年に1回だからである。
いざとなると3か月ほどは忙殺されるが、
あとの1年3か月はほとんど仕事がない部署である。
 
国際会議は、日韓、日中、日米、日露と決まっていて、柳さんは、
そのどの言語にも通じていた。国際会議の事前準備資料作成、各国事務局との調整業務など、
柳さんは力を発揮したが、副部長は前面に立つポジションではない。
常に縁の下の力持ちである。国際会議の場でも
バックヤードで気の弱そうな笑みを浮かべたまま、じっとしていることが多かった。
 
「あの人は、5か国語、全部独学で、趣味でやっているらしい。
それに、囲碁が大変強い。とても勝てる相手じゃない。」
 
前川さんがそんなことを言っていた。
前川さんは、職場で数少ない柳さんの親しい同僚である。
柳さんのほうが10歳は上だが、ふたりで囲碁クラブを主催していた。
かつては多くの人が参加していたらしいが、当時はすでにすたれており
、ランチタイム限定、いつもふたりだけで囲碁を打っていた。
 
そんなときの柳さんは、目が輝いていた。
いつものおどおどした感じではなく、淡々と、しかし生き生きとほほ笑んでいたものだ。
そして、前川さんが言うように、だれが対戦しても勝てる相手ではなかったのである。
 
柳さんは、一度も異動をしなかった。
最初から最後まで国際部に所属し、副部長のまま定年を迎えた。
柳さんが去ったあと、囲碁クラブは解散し、
碁盤と碁石のセットは、前川さんに引き取られていった。
 
柳さんがいなくなって間もなく、閑職の国際部は組織改革の一環として整理統合対象となり、
総務部に吸収合併される形で廃部となった。
 その後、数年おきに整理統合は進み、連絡調整部、政策研究室など、
年に2か月程度しか繁忙期がない部署はすべて統合されて廃部となり、
柳さんがいつもおどおどした笑顔でちょこんと座っていた部屋も存在しなくなってしまった。

そして、10年後に、前川部長が退職し、さらに10年が経って、前川部長が亡くなった。
 時代はすっかり移り変わり、昭和の香りのする、
暇で囲碁ばかり打っているタバコ臭い部屋はもう存在しない。
オフィスも建て替えになり、ガラス張りの瀟洒な建物に置き換わった。
 柳さんは家族と埼玉の川越に住んでいた。
その風変りな風体と態度からは意外に思えるが、子だくさんである。
奥さんと子供4人。みな優秀で、大学まで出たから、相当金がかかったことだろう。
閑職にいて、趣味と研究に没頭しながらも、なんとか子育てを終えた、
良き家庭人だったのだ。
 
柳さんは、なにを思って働き、なにを思いながら退職の日を迎えたのか。
そして、その後、どんな生活を送っているのか。
 毎年開催されるOB会の立食パーティ会場で、昔と全然変わらず、
飲まない酒のグラスを持ったまま、
おどおどした笑みを浮かべてたたずむ柳さんを見かけることが多かった。

 わたしも退職し、OB会に出ることもなく、数年が過ぎたころ、
まだ現役で働くかつての同僚から柳さんの話を聞いた。
彼はもう80代の後半を迎えているはずである。
 まだ矍鑠として、頭脳もしっかりした様子の柳さんが、
OB会の席で珍しくスピーチをした。どんないきさつでそうなったのかはわからないが、
88歳、米寿のお祝でもあったのではないか。
 
あのおどおどした柳さんが、やおらグラスを持って乾杯したあと、
マイクを前に語りだしたという。
 「わたしは、かつて、国際部という閑職にいて、日がな囲碁対局に講じておりました。
退職してから、はや28年、今も少なくなってしまった仲間と囲碁をしております。
趣味の言語学研究も面白さが尽きることはなく、今でも続けております。」
 
柳さんは、その後、やおら、これまで一度も触れなかった、
自分の本音を吐露したのである。
 「わたしは、一流と世間で言われている大学の法学部を卒業しました。
だから、同期には、みなさんも知っている有名教授や高級官僚ばかりおりました。
それに比べて、わたしは、出世とは縁遠い人生を送りました。
家族には恵まれましたが、金もありません。」
 みながシーンとなったそうである。

 「でも、わたし、今、最終決戦に勝ちました。
わたしが最終決戦の勝者です。なぜかというと、同期はとうとう全員死にましたから。」
 
パーティ会場のみながどう思ったのか、それはわからない。
しかし、もし、その場にわたしがいたら、ためらいなく拍手を送ったことだろう。
 10年以上、柳さんと接して、その人となりを知っているわたしは、
この話が大好きだ。

囲碁の勝ち負け、経済力の勝ち負け、社会的立場の勝ち負けがなんだというのか。
 最終決戦の勝者は、文字通り、最後まで生きている者だと、
柳さんはよくご存じだったのである。  

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