8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.287


OSHIGOTO短編小説 沈黙は金



わたしがサラリーマンを始めたのは、1984年のことだ。

 アルバイトに明け暮れる貧乏学生だったわたしは、
あまり抵抗なく東京都心で働くサラリーマンになった。
 同じ職場に、わたしは、35年いたのだが、今となっては信じられない長さである。

通勤時間が片道2時間50キロを34年、だから、ほぼ4年間、
84万キロを通勤に費やしたことになる。
地球1周で4万7500キロだから、18周近く満員電車に乗っていた。
気が遠くなる話だ。
 
場所は、永田町であった。
ランチタイムと夕刻には、すぐ近くの赤坂まで歩いていく。
 楽しかったこともつらかったこともあるが、
思い出すのは楽しかったことだけ、と決めている。

その大半は、永田町ではなくて、赤坂を中心とした夜の街の思い出だ。
 1980年代から2000年にかけての20年間は、バブルとその後、
といった感じの時代で、わたしが若きサラリーマンだった1990年代は
まだまだ日本が元気であった。当然、夜の街もにぎわっていた。
今とは違い、ちょっと足を延ばした新宿駅、歌舞伎町には、
いかがわしい店もたくさんあった。そうした猥雑な街の雑踏が東京の魅力であった。
 
そんな時代に、わたしが過ごした職場は、
地方自治連合会という団体である。
今となっては、その業務も使命も、あらゆることがいえると同時になにもいうことはない。
すべては過去の出来事で、ほとんどの記憶は捏造じみている。
淡々と過ぎていった日々をなにか
大事の連続のように話すのは、ほぼ脚色である。
 その時代、その時々の社会情勢が人の行動、動機付けを左右する。
わたしが若いサラリーマンだったころは、
日本経済がバブルに向かって登っていく途中であり、
それは職場環境にも、対人関係にも大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろう。
 
1984年4月、就職したわたしは、広報部に配属になった。
広報誌編集室というセクションである。
 編集者、といっても、大手出版社で有名作家の著作を担当し、
企画から立ち上げるという有名編集者もいれば、
小さな発行部数の機関誌のような、目立たない編集仕事もある。
 
まず、執筆者を決める。固定のコーナーがあって、
あらかじめ執筆者が決まっている。月々のルーティンも決まっている。
特別寄稿的なものは、テーマ、執筆者を決めなくてはならない。
毎回、企画を立てる、ということになる。
上まで決裁をとって、認められた企画にそって、工程を決める。
 
わたしは新人だったから、知事、学識経験者、マスコミ関係者など、
上司が持っているコネクションを利用した。
原稿をもらいにいき、割り付けをし、初稿を新日本印刷に入れる。
ゲラがあがってくれば、校正をする。常に時間との勝負だ。
その間に、広告会社から版下を借りてきて、これも新日本に入れる。
イラストはいつも日本画の大家から借りるために、経堂まで出向いた。
最終稿までもっていったら、新日本印刷に出向いて、校了。
 製本ができてきたら、梱包から発送まで、事務所全員動員して、
ぜんぶ自前でやっていた。外注だったのは、新日本印刷と郵便局だけである。

 これらを新人のわたしと相方のベテラン女性職員ふたりで仕切っていた。
定期刊行の雑誌を3年以上作っていたので、わたしは立派な編集者である。
 
思い出深いのは、当時の編集にかかる事務のありようだ。
昭和の時代、職場にコンピューターなんてなかった。
コンピューターというのは、部屋いっぱいになるほど
巨大なテープレコーダーみたいなものだった。

このころ、わたしは関連の情報処理専門機関で、
コンピューター研修(電算処理研修)なるものを受けた。
今と違い、パソコンが机にあって操作するのではない。
与えられたのは、紙のテープである。オルゴールで使うアレだ。
それに穴をあけて、プログラムを作る手法を学んだ。
それが我々世代が最初に接した、職業訓練としてのコンピューターだ。
今の人たちには想像もできないに違いない。
 
われわれには、ワープロすらなかった。紙と鉛筆と消しゴム、
修正液とノリであらゆる事務をした。まだ活版印刷機が職場にあって、
残業して封筒印刷をしたものだ。白いワイシャツをインクでずいぶんダメにした。
コピーはまだ、複写機、または、ゼロックスという名称で、
青焼き(青くしか複写できない)とも呼ばれていた。
その後、今に通じるコピー機ができ、ワープロが導入され、
パソコンの時代になるのを見てきた。機関誌も、雑誌としては廃刊になり、
オンラインマガジンになったがそれも今はない。
 そんな日々を過ごして、4年が過ぎたころ、わたしは調査部に異動になった。
後任は、同じW大学出身の後輩にあたる男で、敷根さんといった。

 敷根さんは、その後数十年に渡り、わたしの数少ない親友になった。
 わたしの本音を一番よく知っているのは、家族、親戚よりも敷根さんで間違いない。
私たちはまるで鏡のようだった。よく似ていると同時に、左右反対に見える。
 
1988年、職場に就業したての敷根さんは、
何を考えているのかよくわからない人であった。
 わたしのいた職場は、毎年採用することはない。
4年あとに入ってきた後輩でも、わたしにとっては、すぐ下にあたるし、
大学も学部も同じ。そんな敷根さんは、残念ながら、わたしと同じく、
マンモス大学の授業に出ず、ぼんやりと過ごしてきた人物であって、
共通する話題といえば、せいぜい、近くの食堂のメニューくらいである。

彼は、今でいうB級グルメ、食道楽であったが、あまり自身のことを語らない。
しかしながら、名聞き役であり、わたしの正反対といったところだ。
 彼との大きな共通の話題は、ファッションに関することで、
彼の拘りポイントであった。そこは、かなり似ていたと思う。

 わたしの趣味であったレコード収集や楽器演奏といったことも、
ある程度似ていた。彼は古いジャズのファンであり、
かなり音楽趣味が近かったのだ。
 就職して4年目が過ぎ、わたしは、中野にある社宅に移り住んだ。
ちょうどそのころ、就職したばかりの敷根さんもすぐ隣に入居したため、
わたしたちは職場を離れても近しい間柄となったのだ。
 
もともと、馬が合った我々は、帰りもしばしば一緒になった。
お互い職場が好き、仕事が好きというタイプでもないために、
同じ時刻に退社すると、帰り道に途中下車して晩酌、夕食を共にした。
 そんな生活を続けるうち、彼とはちょっとした夜の街、
歓楽街を渡り歩く悪友のようになっていった。
 
俳優の松重豊によく似た、スラリとした、
脚の長い長身の彼は、なかなか女性にモテた。
 バブル期の東京の夜の街は、当時の若い独身サラリーマンには
刺激的なところである。
職場に近い赤坂のステーキハウスで舌鼓を打った後、
シガーバーで葉巻をくゆらせながら、バーボンを飲み、
帰宅途中の高田馬場でパチンコで儲け、その金を栄通りの風俗に落とす。
 
はたまた、新宿歌舞伎町の風俗を渡り歩き、
牛丼を掻っ込んで社宅へ引き上げ、
お互いの部屋でウイスキーをしこたま飲んだ。
 
あるときは、逆方向に出向いて、神保町のタンゴ喫茶で一杯やり
、老舗の喫茶店でお互いの人生観を語り合った。
 法学部卒サラリーマンなのに、アーティストに近い感覚を持っていたところが
最大の共通点という感じでもあった。

どちらかというと、彼は文学、わたしは美術系だ。
そのあたりが、他の同僚とは異なっていた。
 しかしながら、わたしと彼はよく似ているようでいながら、
その後の運命は違う道を辿っていった。
 わたしたちの7つ上の先輩に小野宮さんという人がいた。

 彼は、理数系で有名な私大を卒業後、まったくジャンルの異なる
一般行政職国家公務員試験を突破した変わり種である
。しかも、各省庁を蹴って、一外郭団体に過ぎない地方自治連合会の
末端の職員として勤務することを選んだ。立身出世とはまったく異なる道だ。
 
背が高く、二枚目で、穏やかな物腰の彼は、言葉少なに、懸命に努力して働き、
家庭を持って、良き伴侶、良き父となり、そのために、組織の中で出世を望む、
そういったごく普通のサラリーマン的生き方はしたくないのだと語ったことがある。
 小野宮さんは、ランチタイムはいつもひとり、
休憩室で、サンドイッチを少し食べるだけで、あとはジャージに着替え、
皇居一周して戻ってきていた。わずか、50分ほどだが、彼は毎日走破していたのだ。
 
小野宮さんは残業をしなかった。上役が残っていても、
それを無視して終業時刻ぴったりに帰宅し、寄り道をすることは一度もなかった。
まっすぐ、日暮里にある安アパートに引き上げて、簡素な自炊をし、
夜のランニングに励む。そんな日課だったと聞く。
 いつも、着古したワイシャツに地味なグレーのスラックスで、
曖昧なほほ笑みを浮かべながら、辛辣な職場とサラリーマン人生への批判を口にした。

そんな小野宮さんは、多くの女性職員から絶大な人気があったが、
一度として、誰とも付き合うことはなかった。
ギリギリに来て、誰ともランチをせず、飲みに行くこともなければ
、喫茶店にすら行こうとしないのだ。
 
あまり私生活を語らない小野宮さんは、週末、休日は何をしているのだろうか。
伝え聞いたところによると、必ずといっていいほど山に出かけているらしい。
彼はアマチュアの登山家なのだということらしかった。
 あるとき、欠勤をしない小野宮さんが、来なくなった。
重傷を負って、病院にかつぎこまれたのだという。
登山中に崖から落下し、かなりの数の骨を折って、瀕死だったらしい。
 それから、長期の入院生活が続いたが、多額の費用をすべて保険で賄った。

山で遭難すると救助、入院などすべて自費で賄わなければならない。
そのための保険は格安なものであるが、万が一のことを考えて、
彼は巨額の生命保険に加入していると噂されていた。
小野宮さんは、その掛け金を払うために、安月給を倹約していた。
また、家族をもって心配をかけさせないために、
独身でいるのではないかと言われていた。
 
小野宮さんのその後の毎日は、少しもぶれず、とうとう、
退職するその日まで全く変わらずに続いた。
そして、50歳の誕生日を迎える年、突然、早期退職をした。
 
なにか特段の事情があったわけではないらしい。
表向きは、田舎の両親の面倒をみなくてはいけないので、
故郷の新潟県に引き上げるということだったが、実は、巨額の貯金をし
、働かなくても食っていけるようになったから辞めたのだという。
 小野宮さんは、新潟に引き上げることもなく、その後も日暮里で暮らしていた。
そして、職場に通うという日課からも仕事からも解放され、
心行くまで山で過ごしているということだった。
 
わたしと敷根さんは、そんな小野宮さんをみて、ああなりたいものだ、と話し合った。
特に敷根さんは、深く共感していたようだ。
小野宮さんよりは街で遊ぶことも酒も好きな彼が
小野宮さんほどストイックに生きているとはとても思えなかったが、
40を過ぎても結婚する様子はなかった。
 
中野の社宅を出たあと、敷根さんは鎌田に古いマンションを借り、
ひとり夜な夜な食べ歩くのを趣味にしていた
。のちに、「孤独のグルメ」を見たとき、驚いたものだ。
敷根さんそっくりの松重豊が若いころの敷根さんみたいなことをする番組である。
 千葉に引っ越したわたしと彼は帰宅方面が違うため、
夜の街にふたりで繰り出す頻度は減った。
残業次いでに赤坂で晩飯を食うといった程度になっていったのである。
 
そして、飽き飽きする毎日が過ぎていき、50歳になった年、
敷根さんはあっさりと退職した。彼は小野宮さんと全く同じことをしたのだ
。ああなりたいものだ、とお互いに言いながら、
有言実行したのは敷根さんのほうであった。
 
その後、彼は鎌田のマンションを引き払い、
老母が住む静岡の実家へ引き上げた。父親はかなり早くに亡くなっていた。
そして、しばしば東京に出てくることがあると、昔のように、
銀座や赤坂でわたしと酒を組みかわすようになった。
退職後、彼は多額の貯金を運用して、生活に困ることはないらしい。
 
「俺は、幸せの敷居が低いんだよ。とにかく、楽な人生が送りたい。
いやなことはしたくないんだよ。だから二度と働く気はない。」
 常々、彼が言っていた言葉だ。そして、その通り、再就職はおろか、
アルバイトすらしようとはしなかった。
 「俺は、この歳になるまで、なにも成し遂げたりしなかった。
なにもかも中途半端。才能もないし、趣味もない。
若いころから自分のことは知っている。
毎日の生活で、コーヒーがうまく煎れられたとか、
洋服の組み合わせがうまくいって気分がいいとか、そういうことで十分なんだよ。
あれこれ欲を出すとロクなことがないし、
そもそもそんな欲自体、持ったことがない。」

 沈黙は金なりという。なにもしゃべらないことだけが沈黙ではない。
なにも期待しない、必要最低限のことしかしないのも、また沈黙である。
 敷根さんの沈黙は、確かに金であった。余計なことをしなければ、
貯蓄は可能だ。勝手に増えていく。そして、それを元手に、彼は楽な後半生を買った。
 
「俺は、若いころから諦観の人だったと思う。
ワクワクがっかりな思いはもうたくさんだと思うようになって、もう長い。
個々の人生だの幸福だのにたいした意味はない。
人間のすることにも、あまり意味はないと思う。そう考えると気が楽だ。」
 諦観はある種、宗教的見地にいきつくようだ。

しかし、それはわたしも同じである。
敷根さんとわたしは、いつも諦観の上にたっていたが、
黙っていられない私と違い、沈黙を守り通したのは敷根さんのほうであった。
 「俺はそのうち、老人ホームに入ることになるだろう。
どうせならいいホームに入りたい。そのための資金を確保しておかないとな。」
 
敷根さんの沈黙は、まだまだ続きそうである。

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