8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.286


OSHIGOTO短編小説 小雨に消えた女



1984年、大学卒業式の後、学生街の喫茶店でコーヒーをすすりながら、
軽くお別れの挨拶をし、小雨の降る学生街に消えていった松島さんと、
わたしはひょんなことから再会した。2020年ころのことである。

お互い、すでに還暦リーチのその年の暮れ、銀座通り沿いにある喫茶店で、
わたしはコーヒーを飲んでいた。
野暮用があって、東銀座に出てきたついでのささやかな息抜きである。

なんとなく見覚えのある顔、というレベルではなく、一目で松島さんとわかった。歳
を重ねても、そうそう容姿が変わるわけもない。
しかし、36年のタイムギャップは、特段親しかったわけでもない彼女に
気軽に話しかけるのを躊躇するのに十分な時間だ。

わたしは、思い出の中の彼女を脳裏に残してその場を立ち去るつもりだったのだが、
偶然、彼女は向いの席に座ったのだ。彼女は、ふと目があったわたしの顔を、
不思議そうに見て、少しだけ微笑んだ。
見覚えがある顔に出会っても誰だか思い出すのに時間がかかる、
そんなとまどいの微笑みに見えたので、わたしは思わず、松島さんですかと声をかけた。

彼女はわたしのことを覚えていた。お互い、約束もなく、
しばらくのティーブレークであったので、わたしは彼女のテーブルに移り、
しばらく時間を巻き戻して、お互いのその後を報告しあった。

「そう、わたし、新橋の法律事務所で仕事しているの。
雇われなんだけどね。」
相変わらず、スリムで地味なスーツに身を包んだ彼女は、
昔とまったく変わらない、ちょっと愁いを含んだような笑顔を作って見せた。

学生時代も、わたしは爆笑する彼女を一度も見たことがない。
いつも曖昧な表情で、どこか哀しそうなのだ。
司法試験合格を目指していた彼女は、W大学卒業後も勉学に励み続け、
5年後の1989年に合格、司法修習を経て晴れて弁護士になった。
最初に就職したのは、大手企業の顧問弁護士事務所で、
法務全般を請け負っていた。法廷とはあまり縁がない、法務事務一般。

しかし、司法畑は一生勉強である。ゴールがあるわけでもない。
「わたしは、勉強を苦だと感じたことはないの。子供のころから、そうだった。
なぜ、と思ったことを解き明かすのがとても楽しい。
趣味みたいなもんかな。勉強ってそういうものだと思っていた。」

好きなことでないと続かない。必死に努力をしても
、好きでなければものにならない、そういうことなのかもしれなかった。
「わたし、高校生のころ、ラジオばかり聴いていたのね。
そのころ、ラジオで人生相談をやっていて、
わたしもこういう仕事がしたいな、って思ったのよ。」

わたしは、ラジオで漫才か音楽を聴いていた。
そんなものは一度も耳にしたことがない。
わたしは踊っているか歌っているか爆笑しているような学生だったが、
彼女はその正反対だった。まるでアリとキリギリスだ。

「心理カウンセラーとか精神科医になりたいと思っていた。
だけど、職業として安定しているのは、弁護士じゃないか、って、
知り合いに言われてね。それで、法学部に進んだのよ。」
しかし、いくら弁護士の資格をとったところで、
やりたい仕事だけがあるわけではない。

まずは、一人前になるために、どんな仕事でもこなして経験を
積んでいくしかないのは、他の職業と同じである。
彼女は刑事ではなく民事に進んだ。
当時、弁護士志望者の多くが企業弁護士を志望したが、彼女もそうだったようだ。
欧米と違い、訴訟社会でない日本では、主に企業間の取引を扱う事務所で
会社法を扱うのが、最も安定して仕事が得られるというのが普通の考えだった。

企業は国よりもはるかに早くグローバル化していったため、
国際法をマスターするべく、彼女はアメリカに留学し、英米法もものにして帰国。
不動産取引、国際取引のアドバイスを中心に、
息の長い弁護士活動を続けてきたということだった。

「でも、あちこちの事務所を転々として、英米系の法律事務所でも勉強をしてきたけどね、
もう一度初心に帰りたいと思ったの。
弁護士は、ひとりひとりの個人に寄り添うもの。それがわたしの初心だったから。」
彼女は、弁護士という資格のもつ強みを最大限活かした。
それは、自分の望む就業先へ変わっていく自由である。
「今は、離婚問題とか、金銭トラブルを抱えた人たちの相談に乗っている。
そういう事務所に移ってから3年。これからはここに落ち着こうかと思っているわ。」

ラジオの人生相談にあこがれてから40年、
常に勉学と自己研鑽に励みながら、あらゆる法務経験を積んで
一流の弁護士になった彼女は、今、初めて当初の夢を叶えている。

子供のころの小さな夢を叶えるのには、
一生をかけた努力が必要ということかもしれない。
「わたし、そんなふうに思ったことはない。
ただ、その場その場で必要なことを勉強してきただけなのよ。
それは、結構楽しかった。わたしはそういうことが楽しいんだと思う。
でも、わたしは自分のことだけで精一杯で、
家族を持つ余裕はなかったわ。それがちょっと心残りかな。」

1時間足らずのよもやま話は、
なぜだかどこか暖かく、なぜだかどこか哀しかった。

意気揚々としていてもおかしくない人生のはずなのに、
彼女は昔と変わらず、どこか哀しげで曖昧な微笑を浮かべていた。

雲行きが怪しかった銀座の空は、喫茶店を出ると小雨になっていた。
「あら、わたし傘がないわ。いそいで、事務所に戻らなきゃ。
地下鉄で行くわ。じゃあ、また。懐かしかった。」

わたしは、はるか遠い昔の学生時代の卒業式を思い出した。
わたしは勉学ばかりで楽しい思い出がないとつぶやいていた松島さん。
あの日も小雨が降っていた。

彼女は、あのときと全く同じように、
小雨が降る大通りの雑踏へ消えていった。

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