8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.284


OSHIGOTO短編小説 東雲編 その2 豊洲バウンド



豊洲、というところ、実は、かなり最先端の街である。

東雲バイト前半、東銀座通いの記憶も新しかったわたしは、
なじみのある経路で通うことにした。
東銀座で乗り換えて築地へ行き、少し地上を歩いて新富町へ、
さらに地下鉄を乗り継いで豊洲へ出る。

豊洲から先、歩いて15分ほどであるが、
シャトルバスが出ているのでそれに乗って通うのが日課となった。
豊洲の駅を降りて、地上に出ると、すぐに近くには、
出来立てほやほやのショッピングセンター、ららぽーとがある。

ちょっと中に入って探索すると、
洋服のブランドだのおしゃれなカフェだのがある、いい感じのスポットである。

終業後、外に出るとちょうど豊洲行きのシャトルバスが留まっている。
これに乗れば、5分ほどで駅に着く。夏の真っ盛りのこと、ららぽーとに少し寄って、
カフェの野外でビールを飲んだ。かなり気分がいい。
通うのが楽しいと思えるようになるなら、
わずかな贅沢くらいいいかな、と思えた。

東雲駅からりんかい線、武蔵野線経由で帰宅するほうが交通費、
通勤時間ともに得することがわかったので、後半は東雲駅へ出ることにした。
しかし、シャトルバスで豊洲へ、そこから、東銀座と反対方面の東雲へ行くことにし、
便利なバス利用は続けることにした。

終業時間を自分である程度決められるのも、この職場のいいところであった。
パート主婦が中心だとどうしても、「扶養内」で働く人が多い。
このときは、まだ労働法改正前、週30時間までは社保未加入を認めていた。
わたしも社保に入りたくなかったため、30時間以内にすべく、
週4日、帰宅時間を15分前倒しして、17時15分で終業することにしたのだ。

15分早く出る仲間がふたりいた。そのうちのひとりは、
歩いて帰ることができる近場の人で、もうひとりは豊洲行きのバスに乗る。
われわれは、いつも同じバスに乗るふたりだけのメンツであったので、
自然と親しくなった。

吉岡さんは、どことなく、身内っぽい雰囲気を持った人で、
最も目立ったところは、目立ったところがないところである。
誰にでもある、癖のようなものが、ほとんど感じられない。

没個性、というのは、ある種の個性である。知性や感性のバランスがよくとれた、
できた人なのだろう。話をしても、こちらが緊張する、
無用に気を遣うといった場面がない。
わたしなどは、自分が自分がという主張がなかなか抜けない、
青臭いおやじのままで恥ずかしい思いがした。

吉岡さんは、スリムで、わたしたち世代の日本女性にしては、かなり長身だ。
銀縁の眼鏡をかけていて、上品さを感じさせるあたり、
割合と裕福な家庭の出身なのかもしれない。

この職場は、豊洲、東雲近辺の人が多いが、
吉岡さんはバスに乗って豊洲駅に出るあたり、少し遠いのだろうか。

尋ねてみると、1時間以上かかるのだという。どうやら世田谷方面らしい。

偏見ととられるかもしれないが、東京の地区ごとによる個性というのはあるような気がする。
下町といわれる葛飾、江戸川、江東、台東あたりは、
やはり寅さんが出てきそうな、庶民的な感じの人が多いし、
山の手といわれる世田谷、渋谷、千代田、新宿方面は、
お上品な、悪く言えば、ちょっととっつきにくい人が多い。

吉岡さんは、山の手出身であるけれども、とっつきにくい感じはない。
しかし、下町のおばちゃん的なラフな感じもなかった。
とても気さくで話やすい上品なお嬢様出身という感じである。

それにしても、身の回りを漂う、この身内感はなんだろうか。

人の個性は生まれつきのものなのか、育ちから来るのか、
職業からくるのか、それはわからないが、長い職業人生を送ってきたとすれば、
それもまた、その人らしさを形作っているはずである。
わたしは、吉岡さんに、前はどんな仕事をしていたのか尋ねてみた。

「わたしは、こないだ定年になったばかりなんですよ。
はじめてのバイトなんです。つい数か月前まで衆議院事務局にいたんですけどね。」

どうりで、親しみやすいわけだ。わたしとほとんど同僚に近いではないか。
わたしも永田町勤務だったことを明かすと、吉岡さんも、合点がいったようだ。

「なんとなく、どっかで会ったみたいな、違和感がないというか、そんな感じ、してました。」

わたしは、20代前半、新入社員時代に、地方自治連合会広報部に所属していた。
そのころ、主な仕事は広報誌の編集だったが、ほかに、
連絡調整役という任務があり、各省庁、衆参両議会事務局、与党本部などに足しげく通い、
情報収集するというものであった。そのころ、
わたしは、衆参両議院事務局に毎日通っていたのである。

もしかすると、吉岡さんとすれ違うこともあったのではないか。
こんなところでも、近くで働いていた人と出会うとは。
人生不思議というか、世間は狭いというか。

「国家公務員なので、各省庁をいろいろ渡り歩きました。
もともとは総理府だったんですけど。」

それはそれで面白いような大変なような人生である。
霞が関、永田町からほとんど出ることなく、
職業人生を送ったという点で、わたしとそっくりだ。

わずか10分たらずとはいえ、毎日の豊洲バウンドで、
吉岡さんとわたしは、しばし、現役時代の思い出話で盛り上がった。
共通の友人や同僚がいるわけはないのだが、
30年以上に渡って同じ街、関連する職場にいたのだから、
過ごした日々の思い出話をするには事欠かない。

「赤坂見附の河鹿、閉店だってよ。」

「Cランチがおいしかったわよね。残念ですね。」

平河町から赤坂見附にかけて、ランチタイムもどこかで遭遇していた可能性が高く、
共通のなじみの洋食屋から居酒屋まで、
懐かしい仕事仲間だったかのように話題は尽きない。

しかしながら、吉岡さんは、なんだってこんなアルバイトをしているのだろうか。

独身とはいえ、年金満額まであと5年。
国家公務員にも定年延長や再雇用の選択肢がある。
しかし、吉岡さんはその道を選択しなかった。

「なんだか、もう、いいかなって思いました。なんだか疲れちゃって。」

まあ、そんなものだろう。わたしのように、
定年をまだかまだかと待っていた引退希望組は、
年金支給が遅らされて多いに落胆したものだ。

30年勤めただけで、もうおなか一杯、もう働けません、
という人は存外多いのではないだろうか。
国やマスコミが報じる、高齢化社会の労働事情では、
できるだけいつまでも働きたい人が大多数、ということらしいのだが、
かといって、皆がそうだというわけでもあるまい。

吉岡さんもわたしと同じ、「もうたくさん。もう勘弁。」
と思っていた人なのだろう。しかし、それでも、年金満額を目指すなら、
最低5年はなにか仕事を見つけて、生活費を稼ぐしかないではないか。

それなら、なにか、もっと自由に、かつての職場と関係ないところで働こうと思った吉岡さんは、
東雲に通う日々となり、そして、似たような境遇、
似たような人生を送ってきたわたしとばったり出会った、ということになる。

吉岡さんは、分厚いレンズの重そうな眼鏡をずり上げながら、
うつむき加減で言った。

「わたし、このバイト、気にいっていますけど、
しばらく空いちゃうから、次を探さないといけないですよね。どうされますか。」

わたしも同様である。吉岡さんとわたしは、次の仕事探しで情報を共有しあった。

「わたし、少しだけアルバイトで、通信教育の仕事したことがあるんです。
自宅で出来る採点の内職みたいなものなんですけどね。
あれ、またやろうかと思います。
この仕事の次が回ってくるまでのつなぎにどうかと思って。」

そういえば、吉岡さんは、どことなく学校の教師でもおかしくない雰囲気がある。
あまり目立たないけれども、生徒にも親にも信頼が厚い先生という感じだ。

「実は、わたし、教職の免許持っているんですよ。ならなかったけれど。」

私立大学の教育関係の学部を出て、教職免許をとったものの、
国家公務員の試験も合格し、結局公務員の道を歩んだということらしい。
若いころ、ふらふら遊ばずに、真面目に将来を見据えて努力を怠らず、
知識と経験を積んだ人なのだ。資格といえば、
普通自動車運転免許しかないわたしとは大違いである。

それなら、内職などせずに、塾の先生になるとか、道はいくらでもあるだろう、
と言うと、今更毎日勉強しなきゃいけない仕事とか、
あまりしたくないですよね。わたしは、簡単なバイトでいいんです。
今のうちは、もう、以前のストレスから解放されたいですから。」

豊洲へ行く帰りのバスに乗る時間は同じなのに、季節の変化とともに、
日ごとに日が短くなっていった。
そして、豊洲バウンドの話題も、だんだんわたしたちの黄昏、
すなわち、老後の話になっていった。
それは、先の話ではない。もう、すでに始まっているのだ。


吉岡さんは、自宅の近くとはいえ、実家に母一人を残してきたらしい。
まだ元気とはいえ、さすがに、80代の母を放っておくわけにもいかない。
独身の吉岡さんは、徐々に老々介護の心配せざるを得ない段階に入ってきていた。
両親ともに他界しているわたしは、喪失感はあっても、その心配はない。
自分の健康、経済状態を心配するだけで手いっぱいなのに、
家族、しかも老親の心配をしなくてはならないというのは、
正直言って大変なことである。

人生は苦労の連続で、楽になることはないのではないか。
楽になるとしたら、それは死ぬときである。そこまで実感はなくても、
いつの間にか、なんとなくそう思う歳になってきたとも言える。

「わたし、そろそろ実家にひきあげようかと思っているんです。
あまり、働く時間もとれないかもしれない。だから、内職みたいな仕事を見つけておかないとね。」

吉岡さんは、少し寂しげに、バスの車窓から、
暮れていく豊洲の風景をみながら、つぶやいた。

夏の盛りに就業した仕事を、わたしは4か月ほどで抜けることになった。
派遣会社からのお誘いで、4か月ほど、成田市役所の仕事をすることになったのだ。

近くていいし、時給もいい。なにより、派遣会社からのお誘いを断るのは得策でもない。
引き受けたわたしは、村岡支社長に断りをいれて、東雲を後にした。

最後の豊洲バウンドのバス内で、わたしは、吉岡さんに別れの挨拶をした。
そのうち、東銀座で途中下車してビールでも飲もうと話していたのだが
経路を東雲駅に変更したためにかなわないままになったことをわびた。

「いえ、そんな。また、次期があるじゃないですか。
そのときは、ご一緒しましょう。楽しみです。お元気で。市役所、頑張ってください。」

その後、吉岡さんは、わたしが提案したような、
大規模事務センターの派遣仕事をしていたらしい。次期の東雲仕事に復帰するだろうか。

わたしは、1年後、一時的に東雲に復帰した。
しかし、吉岡さんの姿はない。
採用リストには名前が載っていたが、
どうやら、今回は就業見送りらしいということだった。

バイト仲間内の話では、実家に引き上げるというメッセージを最後に、
ラインやショートメールでも連絡がつかないらしい。次期の仕事も見送りだろうか。

われわれにとって、人生の黄昏は猛スピードでやってくる。
どこでなにが起こるかわからない。
日々の変化の中で、吉岡さんがなにを思い、
なにをしているのか、それはわからないままであった。

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