8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.281 |
OSHIGOTO短編小説 渡る派遣は あの懐かしい顔に会えるとは。 なんとなく、再会するような気はしていた。しかし、懐かしい。 そして、やはり、まさかの偶然、というしかない。 有明仕事の研修が1週間を過ぎたころのことだ。 巨大な事務フロアの片隅、別会社のセクションに、遅れて配属されてきたSVは、 まぎれもなく、東銀座現場のSVだった石狩さんその人だった。 石狩さんは、財津さんを通じてしか知らない、あまり面識のないわたしを覚えているだろうか。 「おおーっ、懐かしい。どこかでお会いしたような気がしました。 財津さんとよく話し込んでいた方ですね。」 尋ねてみると、財津さんはここには来ていないらしい。 来る予定もなさそうだ、ということだった。 「彼は、今は、税務署の派遣に行っているはずです。 財津さん、あれから、親戚みたいにお付き合いさせていただいています。」 石狩さんの今回の仕事も、SVだが、わたしもこの現場ではSVなので、同僚である。 ただし、派遣会社が違った。 いろいろ相談しながら、財津さんの言う「石狩イズム」の真似ができたら面白いと 思いついたのだが、会社が違うと交流がない。というより、ライバル会社のやつとは口をきくな、 という、マニュアルにはないが、わたしの所属派遣会社のフロアマスター、 島末氏からのお達しがあったばかりである。なんとなくわかるが、釈然としない、変なルールである。 なにかスパイもどきのことをしたとて、守られる会社の利益などどこにあるのだろうか。 石狩さんは、東銀座時代の「石狩イズム」を発揮できるだろうか。 今回はなさそうに見えた。 大部屋も小部屋もない、広いワンフロアに、24人ものSVがいる。 SVといっても、東銀座と違って権限もなかった。 石狩さんは、あちこちの派遣を転々として暮らしてきた。 財津さんと同じく、かれこれ10年選手であるらしい。 東銀座の現場での石狩さんは、その持前の、長年培った管理者能力を存分に発揮し、 優れたSVとして活躍した。会社のルールをそのままお仕着せるようなことはせず、 自分なりの解釈をし、曲げられる規則はあえてまげて、人間的な現場を作ろうと骨を折っていた。 例えば、休憩時間である。自分が喫煙者で、喫煙所が遠いという、 自分都合の解釈ではあっても、休憩時間が倍に増えて喜ばない人はいないだろう。 東銀座の、短い期間ではあったが、石狩イズム時代は、まさしく、ゆったり、のんびり、 マイペースな時間配分と業務量で、こんな楽な現場ならまだまだ残ろう、 と思わせることに成功していたと言っていい。 同時に、そのおかげで、小部屋は成績がよく、ミスもほとんど見られなかったという。 同じフロアの大部屋(われわれの部屋は50人でも小部屋、といわれた)のほうでは、 構築といわれる元請け会社の法律通りの服務規則を曲げることなく、 最低限の休憩時間しかなかったし、常にSVが閻魔帳を持って、 オペレーターを監視し、居眠りをする者がいれば、情け容赦なくクビにしていると言われていた。 石狩さんは、閻魔帳をつけていなかった。そんなことはしない、と自分のルールを決めていたのだ。 そのおかげで、1か月の契約更新時に、大量募集によくある、始めて間もなくの大量解雇とういったことは、 小部屋ではまったく起きなかった。大部屋で100人クビが飛んだのに、 小部屋はだれひとりとしてクビにならなかった。 ただし、ひとりだけ例外がいた。それは、ほかならぬ、石狩さん本人である。 彼が規則を自分勝手に曲げてクビになったのか、それとも、ほかにどこか良い派遣先を得て、 自分で転職したのかは、わからなかった。石狩さんは、間際になって突然、わたしとともに、東銀座を去ったのだ。 わたしは、その後、あちこちを数か月で点々とし、 有明でばったり石狩さんと出くわした、というわけだ。 なんとなく、東銀座を去ったいきさつを聞くのはためらわれた。 これが小野崎さんだったら、もっと軽い気持ちで尋ねられただろうが、 石狩さんはそういう軽々しい雰囲気を寄せ付けないなにがある人という感じだった。 顔色が白い、というのも大きな要素だった。財津さんが黒づくめ、 しかも顔色も黒っぽい日焼け肌なのに対し、石狩さんはいつも青白かった。 背は中くらいだが、やせ型で、いつも白いワイシャツに黒っぽいニットベスト、 黒いズボン、黒い革靴という、70年代あたりによく役所にいた、 堅苦しいのかダサいのかわからない、 あまり服装に気を使わないタイプの人なのが見て取れる恰好をしていた。 さらに、石狩さんは、手弁当を持ってこない。 外食をするわけでもなく、朝一番でコンビニCで買ってきたと思われる菓子パンと 数本のペットボトル飲料水のみであった。 彼は、これで仕事場にいる一日を過ごす。実に質素そのものである。 そして、まったくぶれることなく、それはいつも同じであった。 有明も数か月で去ることになったわたしは、去り際に石狩さんに挨拶にいった。 「辞めるんですか、そりゃまたどうして。もったいないですよね。」 石狩さんは、辞めるつもりはないらしい。 精神的にはすさむけれども、まだ頑張ります、とのことであった。 その後、石狩さんとはラインでやり取りをするようになったが、 わたしの場合は財津さんと違って親戚付き合いとはならなかった。 わたしに財津さんのような押しの強さはないし、口八丁でもない。 それでも、話の端々に出てくる個人的な話題から察するに、 石狩さんは派遣仕事にあまり関心を持っている風ではなかった。 私が提供する派遣仕事や大規模事務センターの開催状況などを全く知らなかった。 そういうことにはとても疎いのだと言っていた。 有明もインターネットのまとめサイトで目にして応募したけれども補欠でなんとか入れたらしい。 「やっぱ、情報ですよ。さすがですね。 そんな次々に仕事が見つかってすごいですね。」 わたしには、東銀座現場の名物SV石狩さんは、派遣仕事のプロに見えたのだが、 いつの間にかわたしのほうがそうした情報に通じた身のこなしも 軽く派遣を渡り歩く人物に見えるようになってしまった。 しかし、わたしには彼のような、鮮やかな管理者仕事はできそうにない。 わたしは事務にもある、ノルマというものになじみがないのだ。 SVは、進捗状況を分析し、ノルマを達成するためにいるのだが。 それを達成するためには、オペさんたちに働いてもらわなくてはならない。 そこがSVの腕の見せ所である。 わたしが有明のSV仕事に就いたとき、お手本にしようと考えたのは、石狩さんであった。 第一に、彼は腰が低かった。財津さんが、自分自身を「できるおっさん」だと 石狩さんに訴えかけていたとき、石狩さんは、「身に余る光栄だ。」と答えたのだ。 みなさんのような方々と共に仕事ができて、わたしは幸運だ、とまで言った。 適当な受け答えなのは明らかでも、こう言われたほうは悪い気はしない。 派遣仕事でも少しは誇りをもって取り組める気分になるではないか。 わたしはこういった姿勢を真似してみようと考えた。 オペレーターさんのお手伝いをする、忠実な執事のようなもの、 それがSVであって、主人公はみなさんです、という姿勢で仕事をした。 案の定、わたしはいいSVだといわれるようになったが、それは石狩さんのおかげである。 石狩イズムのおかげなのだ。 石狩さんは、埼玉県の在住である。地元で働いたことがないらしい。 いつも、東京のSV仕事に就いているのだろう。 おそらく、長年サラリーマン、しかも管理職をしていた人に違いないと思う。 しかし、石狩さんは自身を語りたがらなかった。 東銀座時代も、「人前でしゃべるのは小野崎さんに任せたい。わたしはそういうタイプではないので。」と言っていた。 自分自身を語るというのは、ある意味、常に嘘くさいものだ。 財津さんが胡散臭く見えるのも、自分を語ることに暇がないせいではないか。 他人の目に映る自分自身こそがほんとうの姿だという考えの人は、 すでに石狩イズムの立場に立っている。 それにしても、石狩さんの物静かな明るさはどうだろう。 意識して体得できるものでもない気がする。 「まあね、渡る派遣は鬼ばかり、というわけでもないですよ。 いろいろな人に巡り合うけど、まずは仕事なんだから、 ちゃんとやっていればなんとかなるんじゃないかなあ。」 シンプル極まりない、当たり前のことだけれど、石狩さんが言うとなぜか説得力がある。 それもまた、自分を語りたがらない、飾らない石狩イズムの成せる技なのかもしれなかった。 |