8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.273 |
頑固8鉄のOSHIGOTO 短編小説 その2 悩める地主 「僕はさ、毎月20万以上は稼がないとダメなんだけど、あまり稼ぐのもダメなんだよ。」 高梨さんは、面長の強そうな顔に、口の片方の端だけ少し吊り上がったような、 斜に構えた笑顔らしき表情をたたえて言った。 「月48万以上の収入があると、年金減らされちゃうじゃない。だからそれ以内でないとね。」 ということは、年金収入が月に、25,6万あるとしたら、22、3万を超えるわけにはいかないってことだ。 一緒になった有明仕事は、月に28万くらいになるはずだから、 年金は20万以下だろうと推測した。 「そそ、僕はね、年金20万円だね。」 それって、どうだろう、それだけ貰っていて、さらに20万以上働かないといけないものなんだろうか。 同年配の奥さんもいるそうなので、その年金もあるだろう。 「いろいろあんだよ。僕もさ。」 年金満額の66歳にして、派遣仕事をし、自給の高いところしか応募せず、 50万近く確保する、というのは、どういう動機によるものなのか。 余裕ある生活をしたけりゃ当然、というのか、否が応でも働かないといけないのか、 それは、しばらくは謎であった。 口さがない森谷さんなんぞは、高梨のオヤジは、二号さんがいるんじゃないか、 その子供がいて養育費でも払わないといけないんじゃないか、と邪推して面白がっていた。 どうやら、高梨さん本人がそんなことを言っていたらしい。 話としては面白いのだが、ちょっと面白すぎかもしれない。 高梨さんのでまかせ、作り話に聞こえる。 高梨さんは、長身である。肩幅も広く、若いころはスポーツマンだったかもしれない。 なぜか、ボートの選手を連想する体系をしていた。 そういったタイプのスポーツウエアがまだまだ似合うのだ。 年齢にふさわしく、かなり、筋肉が落ちていているのが外目にもわかるけれど、 今でも十分に強そうな強面ぶりで、会社内では、さぞ、頼れる上司というイメージだっただろう。 高梨さんの目立つ外見は、地味だが実は上質な服にも現われていた。 地味な紺のブレザーは、たぶんブルックスブラザース以上だろうし、 ありふれたワイシャツの生地も相当上級クラスなのがわかる。 しかも、彼は、自分を「僕」と言う。慣れてくると「わしゃ」などと言うが、たぶん、僕、がデフォルトだろう。 なんとなく、都会人、東京人、しかも山の手方面らしい雰囲気が自然と漂っていて、 わたしは興味を魅かれた。 やはり、思った通り、世田谷在住、しかも、もともと世田谷区の出身だという。 しかも、どうやら、もともと親の代からの地主ということらしかった。 年金だの派遣の時給だのセコい話とは縁がない世界の人、それが東京、 特に23区内の地主、というのは間違っていないと思うのだが、 上等な身なりや、威厳のある風体をあわせてみれば、やはり、間違ってはいないだろう。 高梨さんは、これまでも派遣仕事をいくつかこなしてきたが、ここ1年ほどのことらしい。 「僕はね、62まで会社員だったですよ。で、引退して年金生活になった。」 年回りからいくと、それくらいで満額になるはずだ。その後、65までコンサルタントをしていたという。 「やっぱ、引退してしまうと、ボケちゃうからね。まだまだ終わりってわけじゃないよ。」 年金満額、コンサルまでする実績のある経歴の持ち主とすると、 ほかにもいろいろな投資や積立、企業年金などで生活が大変だから働くというのとは程遠いはずだ。 高梨さんの、にじみ出る余裕はそれを物語っているように思えた。 しかし、たかが趣味やボケ防止で、企業コンサルタントでもないのに、 派遣仕事までしたりするか、というのが、わたしの興味本位の疑問であった。 言葉は悪いが、奴隷労働してまで働きたいのはなぜか、ということだ。 どうして、コンサル、辞めちゃったのか、わたしはズバリ訊いてみた。 「なんだかさ、やる気が失せちゃって。こだわりがなくなったのかな。」 よくわからない答えである。そんな答えの裏にはなにかある、とわたしは勘ぐった。 その後、高梨さんは、森谷さんともども、わたしの飲み仲間になった。 強面通り、イケる口である。酒を飲むと、高梨さんはますます貫禄を帯びていった。 飲み方もつまみの頼み方も、上流階級ではなくて、ごく普通のサラリーマンの、 居酒屋飲みが長年続いて鍛えられた庶民型である。 しかし、彼は飲むと、豪放磊落な性格が丸出しだ。 普段は、その大柄な体躯と強面で威圧したくないのか、 ひたすら低姿勢を貫いているけれども、それはそれで、とってつけたようで不気味である。 そんな当初からの印象を打ち消すべく、飲み会の高梨さんは、明るく、 人の上に立つのが生来のものであるかのようにふるまった。 しかし、まったく不愉快さを感じさせない、人情味と社会を見つめる冷静な目が両立した、 良質な管理職のそれである。こういう人は、間違いなく組織の中で上へ行く。 そして、そうであるべき人だろう。組織人事の健全性を測るメルクマールのような人なのだ。 人づてに聞いたところでは、高梨さんは、どうやら、大手複写機メーカー、 フジマル本社の営業部長まで勤めた人ということであった。 フジマルは、霞が関を拠点に、官庁から大企業、中小企業まで、くまなく手を広げ、 業界シェアは常にトップの優良企業である。当然、就職は狭き門だ。 そんな大企業で、激しい社内競争を勝ち抜き、幹部にまで上り詰め、 定年まで勤めた彼は、さぞ優秀な人材だったことだろう。 また、当然、その見返りもたっぷりあるはずだ。 その後、コンサルタントとして数年、65歳まで勤めたのは、 おそらく、そういった経歴の持ち主である故、官界から経済界のいたるところに、 豊かな人脈を持っていたからに相違ないだろう。 そんな彼が、派遣仕事に精を出しているわけはなんだろう。 「なんだかね、なにごとにも、こだわりがなくなっちゃってね。 そうなると、コンサルとかは、つらいのね。」 確かに、60代が着々と進行するにつれ、肉体的にも精神的にも、 欲望も、その元ネタみたいな妄想も、だんだん薄れていく。 そうでない、森谷さんのような人もいるが、あと数年たって、 今の高梨さんくらいになったら、また違うのかもしれない。 そんな気分で、たまたま見つけたのが、区役所の仕事だったらしい。 よく、募集している会計年度任用職員ではなくて、期間限定の出張所派遣職員だった。 自治体の窓口にいくと、役所の職員がいるのだとみな、思い込んでいると思うが、 実は、派遣であることが結構ある。 「役所、楽なんだけど、安いんだよねえ。」 そうなのだ、役所案件は、派遣仕事の中でも、安いことが多い。 都内でも自給が1300円前後、しかも、交通費が込みなので、 ちょっと遠距離になると、1100円程度ということになる。 某有名外食チェーンのほうが、高収入である。 役所はいつの時代もケチである。 かといって現役時代のような、高度な仕事をこなそうとするこだわりもない彼は、 できるだけ高い時給の適当な派遣仕事を探して、結局、わたしと同じ 、霞が関関連の案件を処理する東銀座拠点の事務センターに就業した。 といっても、現役時代やコンサル時代の収入とは比べ物にならない。 しかし、そこは、先述した通り、ある程度の枠内でないと、逆に年金が減らされてしまうのである。 60過ぎると、あまり働いてはいけない、というわけだ。 そういう意味では、ちょうどいいくらいの時給であったのだろう。 「オペさんと違って、SVは、作業しなくていいからね。 でも、常に業務内容の変更点やマニュアルの変更を勉強していないといけないです。 そこがいいなと思った。」 60代バイトのほとんどが、もっと単純作業に近く、体で覚えるものが多い傾向にあるのに、 こういった事務のSV仕事は特に、勉強が必要な点で、現役サラリーマン時代を 少しだけ彷彿とさせるところが、高梨さんは気にいったのかもしれなかった。 「だけど、4か月で辞めたよ。もう、飽き飽きで。」 ちょっと、いやになったら辞めてしまう。よくわかる。派遣仕事のある意味、 醍醐味は辞めることにあるとすら思っていたわたしは、高梨さん流儀に同意した。 現役時代は、とにかく、辞められない。どんなに困難な仕事が回ってきて、 心身ともに擦り切れる思いが続いたとしても、辞めるわけにはいかないのだ。 それが、社会人としての常識であろう。少なくとも、我々の世代はそうだった。 反して、期限が定められている派遣仕事は、途中で抜けるのは別に珍しくもない。 「1か月いたらベテラン」といわれるくらい、どんどん辞めていく。 別にダメなやつだから、ではない。他の仕事に移ればいいだけだ。 それがすぐに見つけられるかどうか、相当の特殊技能でもない限り、それは運の問題だ。 高梨さんの、見事な社会人経歴も、派遣仕事においては、見向きもされない。 そんなことは、むしろ、邪魔である。職務経歴書が立派であるほど、敬遠される、 と派遣会社社員から聞いたこともある。 「でも、そういうのがいいんだよ。これまでの経歴で就く仕事、あるんだけど、 もうやりたいと思わないんだよね。」 これは、シニアの本音ではないか。ほんとに、現役に返り咲くというのは、 とうの昔に分かれた恋人とよりを戻すのがほとんど、絵空事なのと同じレベルの話に思える。 実際に、やってみたら、と想像すると、あまりいいものには思えない。 たとえ、定年近くに円満退社したとて、それまでの人知れぬ苦労は、 出世した人ほど、半端ないものだと思う。 それを繰り返したいと思う人もいるのかもしれないが、おそらく少数派だ。 これらの要因を、すべて無意味にする、たったひとつのもの、それはカネである。 余裕がある老後を過ごせるだけの経済的ゆとりがあるかどうか、 見込みがあるかどうかに、「やりがい」だの「ボケ防止」だのといった精神的な側面は、 左右される。なんとしてでも、働かないと借金が返せない、生活費がない、足りないといった問題は、 長く生きてくればその分だけ個々人で千差万別。その人の置かれた状況次第である。 高梨さんは、十分に恵まれていたうえ、自身のたゆまぬ努力によって、 そうした、経済的側面は関係なく、ただ、張り合いをもって生きていきたい、 相当額の小遣い稼ぎをしたいという動機で、場当たり的派遣仕事を続けているようにみえる。 引っかかるのは、「働いて25万くらい稼ぎたい」という、やけにきっちりと決まった金額である。 よほど道楽が好きなのか、なにか、高額なものを買おうとしているのか。 そのわりには、「こだわりがなくなってしまった」というのは、なぜなのか。 「実はね、家賃を払っているの。それが20万。 だからそれだけ稼ぐために働いてるんだよ。」 高梨さんはハイボールをぐびりと飲んで、意外なことを言いだした。 世田谷の地主、おそらく、もともとの実家だったところに奥さんと住んでいるのだと 勝手に思い込んでいたのだ。実はそうではないらしい。 しかも、20万の家賃を払うというのは、おそらく、7000万くらいの不動産、マンションの類だろう。 なぜ、地主がそんな高額な家賃を払っているのだろう。 「世田谷の土地家屋は売ったんだよ。 だから、住むところがないんで、近くのマンションを借りてるの。」 もし、なにか事情があって、借金返済のために財産処分をしたのなら、 そんな高額賃貸物件に住んでいるわけがない。 「1億、ちょっと欠けるくらいだったんだよね。 でも、今住んでるマンション買おうとは思わないんだよ 、なんか、もっといいところないかな、と思ってんのね。」 やっと話のつじつまがあってきた。高梨さんは、不動産の投資先か、 もしくは、もっと単純に、どこか住みやすいところ、または、 その両方を兼ねる住まいを探していて、財産を温存するために、一生懸命働いているわけだ。 しかし、考えてみれば、シティボーイが服を着て歩いているような高梨さんは、 住み慣れた世田谷の住宅地を離れて、田舎暮らしをするような人には見えない。 そうなると、地所を売却して得た現金を次の住まい購入に回すとすれば、 大半を住居に費やさざるを得ず、大金持ちとは言えない生活をすることになる。 元気なシニアの高梨さんの最後の悩みは、 有り余るほどの財産をどう使うかというプラン作りだったのだ。 「月20万の家賃を工面する」ために、今日も、高梨さんは、 「もう疲れちゃったよ、辞めようかな」などとボヤきつつ、派遣仕事を続けていく。 ひとつだけ、心配なのは、せっかく恵まれた境遇にありながら、 そんな悩みを抱えたまま、一生終わってしまったらどうするのか、という点だ。 私が彼の立場だったら、どうするか。 たぶん、なにか楽しいことをする時間をたっぷり作って、 それを実現する手段としての仕事はばっさり切り捨てるだろう。 わたしはそういうタイプなのだ。 高梨さんが本当にしたいことってなんなのか、もしかすると、それがないのが悩みなのではないか。 「でも、やっぱりさ、奥さんと毎日一緒にいて、働きにもいかない、っていうのは、抵抗がある。 いやな仕事すぐに辞められるし、やめ癖がついちゃったけど、本当はそれじゃあいけない。 だから、僕はまだまだ、男の修行中、って思ってるのね。」 自分が楽しいことは、世のために役に立つこと、 それはすなわち仕事だ、という、男気を感じさせる笑顔の高梨さんは、 やはり、なんだか格好いい。 その笑顔は、どこか懐かしい昭和の香りがするのだった。 |