8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.263

シリーズ 頑固8鉄のOSHIGOTO NO.10
地方公務員(1989-1991)「毎日がびっくり仰天のウルトラC 後編」




地方課は、どちらかというとのんびりしたところだった。
総務部に属するからなのかもしれない。
思い出す限り、地方課はみないい人だった。
課長も課長補佐も人格者で、素晴らしいリーダー、
出向で来ていた総務省の若手キャリアもいい人だった。

企画部の、一触即発なピリピリ感がなく、例の主査殿ですら、
温厚になってきた。
しかし、地方課の企画係(なんでいつも企画なんだ)に配属されたわたしは、
やっかいな仕事を任されることになった。

全部をひとりで仕切る、今でいうワンオペである。
全国には、過疎市町村というのがあって、過疎法という法律に基づいて
税財政で優遇措置があるうえ、公共事業も別枠予算で優先的に執行される。

千葉県には、過疎市町村が、当時、4つあった。
まだ、平成の市町村大合併以前のことで、天津小湊町とか三芳村とか、
ほんとうに小さな町村があったのだ。

今は、実は、千葉県の過疎市町村は増えている。
人口減はたぶん少子高齢化による自然減だろう。
で、わたしは、その過疎市町村の過疎振興計画というのを任されたのだ。
総務省(当時自治省)が仕切っている補助金をとるためのお仕着せ計画だ。
10年計画なので、相当先まで見越して作成しないといけない。
で、やばいな、という予感通り、かなりやっかいな仕事となった。

当時、過疎の町から、研修生という扱いで、いい歳をしたおっさんが地方課勤務になっていた。
この人、めちゃくちゃいい人なのだが、仕事ができない。
なにをやってもテキトーなのである。
あいさつが忘れがたい。彼は朝、「あよんす!」と言うのだ。
「おはようございます」の意味なのはわかるが、あまりにはっきりした発音で
「あよんす!」と言われるとどうしても笑ってしまう。

過疎計画は基本的に市町村作成である。過疎の町や村役場の職員が、
ちゃんと作れるのか、彼を見ていて不安になった。
で、そのとおり、締め切りは守らない、県が書いてくれとか勝手なことを言う、
案文を見ると、前回と全く同じだったり、椅子から転げ落ちるような仕事ぶりだった。
4町村しかないとはいえ、総務省提出まで半年もない。

ところで、わたしは担当者としてこれらの町村にヒアリングにいった。
普通、課長や部長が相手だが、三芳村は村長ご自身が相手をしてくれた。
たいへん、素晴らしい方で、フィクションに出てくるような村長さんが、
「ここに移住してくれば、住むところただであげるよ。仕事も世話するから、どうだね。」
と言われたのには、さすがに驚いた。

社交辞令なんだろうと思ったが、今考えると嘘じゃなかったかもしれない。
実に惜しいことをした。いわれた通りにすればよかったと思う。
ちなみに、三芳村は館山市の隣だが、館山市より道路がいい。
過疎市町村がどれほど優遇されているかを見て、ちょっとショックであった。
過疎から外れた(人口が増加に転じた)町村の担当者が、
「残念。過疎のほうがよかったのに。」とぼやいたのを聞き、
この制度ほんとに合ってんのかとは思ったが。

とにかく、市町村のリライトをし、つじつまを合わせ、県として取りまとめる作業は困難を極めた。
企画課以上にわたしは残業を強いられた。
当時、わたしは残業手当が本給をしのいでいた。信じらない働きぶりである。
というより、千葉県庁は職員殺しである。
唯一の救いは、上役も同僚もいい人ばかりだったという点だ。

やっと出来上がった計画書を携えて、霞が関総務省へ出向いた時のことである。
担当主査は、もちろん、例の主査殿だ。
総務省担当者から、なにか忘れたが、注文がついた。
通らなかったのである。やり直しになった。
それはいいとして、主査が、「馬鹿だなおまえは。どうもすいません。
こいつがバカだから。さっそくやり直します。ごめんなんさい。」
と総務省に言ったのだ。
これには耳を疑った。総務省担当者も非常に呆れた顔をした。
いくらなんでも、その場で責任を部下に押し付ける上司などありえないからだ。

わたしは心底がっかりした。
そして、がっかりしながら、なんとか計画を作り終えたのだった。


10か年過疎計画を作り終えた後は、暇だった。
あまり仕事した覚えがない。
2年間の出向期間中、1年半は残業代が本給を上回るほど働き、
半年は寝ていた、という感じだ。

知事会に戻る直前のあるとき、きっかけは忘れたが、
わたしに転職話が降ってわいた。
千葉市緑区にあった電設会社で、小規模だったが、当時開発中だった幕張新都心を
一手に引き受けていた優秀な会社である。
わたしを総務課長として迎えてくれるという。
社長にお目にかかったが、誠実そうないい方だった。
息子さんにあとを継いでもらう時期だったらしく、事務ができないバリバリのエンジニアの
息子さんの片腕になってもらいたい、今の給料よりずっとたくさん出す、という、いい話だった。
さて、どうするか、わたしは迷っていた。

そして、とりあえず、親元の団体に戻ることになったわたしに、
主査殿が、別れ際に奇特なことを言った。

「本当によくやってくれた。最初はどうなることか思ったが、
違った。おまえはすごいよ。たいしたもんだ、ほんとに。」

と言ったのだ。チャカしているか、さもなければ、口先だけのはずだが、
もしかすると本当にそう思っていたのかもしれなかった。
そこまででも、驚きだが、そのあと、なんと、この人、
永田町に戻るわたしに、俺もいく、といってくっついてきたのである。

戻ったわたしと主査は、総務部にいって、組織トップの事務総長に挨拶し、
次長に挨拶したのだが、いつものように調子のいい主査は
でまかせをペラペラとしゃべりまくったのだ。

「千葉県のために本当に尽くしてくれた。あまり見ない優秀な職員なので、
ぜひ、千葉県にとどまってほしい。なんとかならないか。」

と言い出したのである。

今でも、真意はわからない。まず、十中八九、社交辞令、適当なでまかせに違いない。
仮にそう思っていたとしても、千葉県に残してくれというのはでまかせだろう。
しかしである。この適当なでまかせが功を奏したのだ。

わたしは、当時、問題児であった。唯一の同期が、「いい子」で、わたしは「悪い子」、
普通の子がいないといわれていた。
素行が悪く、危ない橋を渡っていたと思う。
ところが、この後、わたしの株が急上昇したのである。

出向先の上司がわざわざ出向いてきて、「残してくれ」なんて言ったことは、
長い交換人事の歴史の中で異例のことだった。

主査殿は、足元がぐらぐらのわたしに、思いがけずも、逆転ホームランを打ってくれた。
それから、わたしは、多少素行が悪くても、デキルやつと扱われるようになった。
ところがである。半面、わたしは転職しそびれてしまった。

あのとき、主査が出まかせを言わなければ、足元があやういわたしは転職し、
今頃電設会社の大物になって、左うちわだったのかもしれない、ともいえる。


その後、主査殿は、たいへんな出世をした。農林水産部長になったあと、
退職後は、千葉テレビ重役になったと聞く。
もう退職されたとは思うが、もう80を過ぎているだろう。

驚いたことに、2009年のスキャンダルのときも、
彼は捕まらなかった。口の軽い無責任な恥知らずの、
というとひどすぎるかもしれないが、それでも悪いやつではなかったのだ。

それにしても、人生は、実力なんかではない。少なくとも、それは二の次だ。
人生は、運だ。運と縁。それに尽きている。そんなことを痛感させられたのだった。

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