8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.261

シリーズ 頑固8鉄のOSHIGOTO

OSHIGOTO NO.10 地方公務員(1989-1991)
「毎日がびっくり仰天のウルトラC 前編」




地方公務員については、いろいろ言いたいことがあるが、クソ面白くもない、
むしろ不愉快になる話ばかり思い出すのはわたしがネガティブな思考だからだろうか。

まあ、大昔のことで、関係者も亡くなっていたりするし、
特に守秘義務違反になったりしないよう、作り話でもしてみたい。
(以下は、事実を下敷きにした創作です。)

全国知事会に勤務していた20代のころ、千葉県庁に出向になったことがある。
勉強してこい、という趣旨のもので、2年間嘱託職員扱いだった。
実態は、交換人事なのだ。

迎えてくれた千葉県の主査はまったく違う対応で、
「知事会からなんでも知ってる、なんでもできるやつが来ると思っていたら
、こんなバカそうな若造が。」というものだった。

なにか、双方に誤解があったらしいが、知事会事務局と千葉県が
漁師と魚河岸だったら、わたしはただの魚である。
魚にはなにもできない。かといって、当時は漁師も魚河岸もなにもしてくれなかった。

わたしはなんとかその場しのぎでやりくりするしかない。
今だったら、派遣なんかでよくある、ミスマッチ、に近いが、
さすがに魚が自力でなんとかするなんてケースは減っただろう。
こういうことは世間ではよくあるんだろうか。当時、わたしは井の中の蛙で、わからなかった。

さて、変なところに落っこってしまって、ぺちゃぺちゃ息をしようともがいていた魚のわたしは、
にわか勉強で千葉県の地理と市町村を覚えることから始めた。
まるで小学生である。もともと東京っ子で、
千葉は子供のころから毎年なんどか行く海水浴でしか知らない。
いきなり全部知っていることになっているので、知ったかぶりをするしかない。

そのうち、千葉県はふたつあることを知った。もともと2つあるはずだったのが、
無理くり1つの都道府県でくくられたらしい。
東京方面のベッドタウンになっている北西部と、木更津より南の房総半島は別なのだ。
知事の選挙は、どちらに力点を置くかで知事のありようというのがわかる。
当時の沼田知事は、圧倒的に房総の人で、要するに田舎票を取りに行く。
当時よく言われたように、土建政治だった。
それが悪いとは思わないが、当時は、時代遅れな感じだった。
そのあとは、なにせ、堂本知事で、マスコミ出身者、さらにあとはモリケンだから。

千葉市というのがいばっていたが、もともとは県庁所在地なんかになるはずではなく、
由緒ある佐倉と木更津が綱引き状態で、勝敗がつかず、
中間にあったなんの取柄もない千葉市が中心になったという歴史的経緯があると聞いた。。

最初の1年は企画部企画課で、中期計画策定の特命チームに所属になった。
といっても、末席の嘱託席だ。
なんと、わたしは企画部そのものと警察本部の担当になった。
まるで内部査察みたいなことでもするのかと思ったが、
さっそくヒアリングで出向いた空港対策課の戸口で大声で怒鳴られた。
知らない人間が、戸口にたっただけでどやされるというのはどうしたわけか。
当時の空港対策課は成田三里塚問題でピリピリしていて、
そういうことが当たり前だったらしい。

それを担当主査がまったく言わず、一緒に紹介もしなかったのが悪かったらしい。
わたしは正直なので、その通りを空対に申し出て、逆に主査を怒らせた。
自分の責任、自分の非を無理やり部下のせいにする人間というのをわたしははじめて見た。
この主査は、最後までずっと一緒に仕事をすることになった当時の思い出の人物だ。
最後に、この卑怯な人物がわたしにとっての大逆転ホームランを打ってくれることになると
このときは夢にも思ってなかった。
今、考えるとまるでテレビドラマである。

その空対関連でいえば、企画部のナンバー2、県庁のナンバー4、企画部次長の話も凄い。
まあ、いい人、だけど、県庁のトップにはみえない、普通の農家のおじさん。
どうも浮いて見える。実は、空対専属の人で、三里塚の大地主だった。
こういう人がいれば、なにかと調整がスムースだろう。
わたしは、このときも、CIAとかが出てくるアメリカのドラマの中にいるような気がした。
解決不能に見える社会問題を解決するためのウルトラC。
そんなことを感じて、大きな勉強をした気になったものだ。

このあとも、本来の業務であるいわゆる五計の仕事ではなくて、あちこち回って
歩いて知り合った様々な公務員の連中にまつわるびっくりなことが続発するのである。

まず、5か年計画の話をすると、とにかく、部外者にはわからないことが多すぎた。
当初、各部局からあがってくる重点施策を予算をにらみながらロジカルに
配分していけばいいのだ、くらいの認識だったが、そうではないらしい。

まず、企画部長を突破するのが難問らしかった。
打ち合わせ時も、常に、「どうやったら部長が納得するか」に話がシフトする。
宮仕えの宿命かもしれないが、チームとしてはこうしたい、
というのが単なるポーズのようらしかった。
実際には、部長の好みに合うように仕立てあげて、それも部局とりまとめた結果、
総意としてそうなった、と見せかけなくてはならない、ということだな、と私は理解した。

一方、わたしは、そうしたチーム仕事のほかに、
県民向けの計画書をデザインする仕事を任された。
もちろん、実行部隊は民間の外注である。自分の作戦に合わせて、
広告会社を選定するのがわたしの仕事だった。

まず、提案したのは、計画書本体はクソ真面目なので、
普通のおっちゃんおばちゃんでもわかるような「読み物版」を作ることだった。
これは、例の主査が大喜びで受け入れた。
自分の手柄にするつもりだったかもしれないが、とにかくその線で選定することにした。
で、呼びつけたのが、例によって例のごとく、D通とH堂、そしてN社であった。

彼らに企画書と見積を出してもらって、それを徹底的に比較検討し、
誰にでもわかるように、ち密な採点表にまとめあげた。当時まだ珍しかったエクセルを駆使したと思う。
正直、どんぐりの背比べだったが、わたしは、でかい、勝ち組組織が嫌いだ。
えらそうなうえに高額である。
で、もっともマイナー、だけど、もっとも安価、しかも、大手2社と
そん色なくこなしてくれそうなN社にすると結論づけ、主査、主幹、企画課長を説得した。
で、わたしの意見は見事に通ったのだ。通産省キャリアの企画課長も、
よくできている、と言っていたのでわたしはすっかり自信をもって、部長ヒアリングに臨んだのである。

説明したのは、課長だったか主査だったか覚えていない。
とにかく、部長殿は、黙って聞いたあと、ニコリとほほ笑んで、
「僕、こないだ、ここ(N社)行ったのね。そしたら、すごく冷房がきつくてさあ。
風邪ひいちゃったよ。ところで、D通の〇〇くん、知ってる?友達なんだよね、僕の。」
そこで全員外に出て、わたしは主査にこう言われたのだ。
「おまえ、今の聞いただろ。すぐに全部作り直せ。」
「は?わたしの案は素晴らしいって言いましたよね?」
「馬鹿者!とっとと作り直せ!今日中に全部だ、わかったか。」
わたしは、世の中がどうやって動いているか、だいたいわかってはいたけれども、
ここまで露骨にわかったことはない。まさに、意思決定のウルトラCである。
いやというほど思い知った。今でも世の中実力だ、
とかいうセリフを聞くたびに、「嘘つけ」と聞こえないようにつぶやいてしまう。
所詮はコネだろ、と。

そんなことは、のちの職業、いや、趣味の世界ですら思うことになるのだ。(続く)

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