8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.26 |
ファーザー・オブ・ロカビリー・ギター ― マール・トラヴィス オーッス!! ギター抱えて、威勢良く挨拶すれば、気分はもう、田端義夫! と、まあ、かなり旧い、昭和レトロなノリで始まりましたが、 頑固8鉄でございます。 THE KINGの読者において、ギターといえば、田端義夫でも、ジミー・ペイジでも、ナルシソ・イエペスでも、南こうせつでもなくて、やっぱ、カール・パーキンズ、スコティ・ムア、クリフ・ギャラップ、ポール・バーリソン、といった人たちでしょう。 彼らは、みな、初期のロカビリー音楽の特徴的なサウンドだったエレクトリック・ギターサウンドを代表するギタリスト達でして、それぞれ独自のスタイルがあり、それぞれがロックギターのパイオニアなのですが、実は、基本となるテクニック、源流はひとつ。 それは、現在、奏法の創始者であるギタリスト、マール・トラヴィスの名をとって、「トラヴィス奏法」と呼ばれています。 ロカビリーが出てきだした50年代初頭、最も人気のあったカントリー音楽系ギタリストの代表格はチェット・アトキンズで、もともとカントリー・ギタリストが多かった初期ロカビリーにおいては、アトキンズをお手本にしていたギタリストが多かったのです。 そして、その当のアトキンズがお手本にしたのが、マール・トラヴィス。 トラヴィスは、本流であるカントリー・ギターのみならず、ロカビリー・ギター奏法の父だということも出来ると思います。 トラヴィスの出身地である、ケンタッキーの音楽といえば、フィドルが「にーたかにーたか」いってるブルーグラス音楽と相場が決まっていますが、トラヴィスは、ブルーグラス・ギターのテクニックにおいても多大な影響力をもつことになります。 さらに、あまり知られていませんが、トラヴィスは、ソングライターとしても第一級のヒットソングを作っています。最も有名なのは、「シクスティーン・トンズ(16トン)」でしょう。トラヴィスは1970年にナッシュヴィル・ソングライターの殿堂、1977年にカントリーミュージックの殿堂入りをしてもいます。しかし、なんといっても、彼の名が不滅なのは、そのギター奏法にあるのです。 マール・ロバート・トラヴィスは、1917年、ケンタッキー州のローズウッドで、炭鉱労働者の家庭に生まれました。最初は、兄が手作りしてくれたギターを弾くところから始めたのだそうです。 地元で最初にトラヴィスの目を引いたギタリストは、モース・モルツ、違うな、モース・ラガーという人で、ラガーは、親指にサムピックを付け、低音弦でベースラインを弾きながら、同時に人差し指で高音弦側でメロディーラインを弾き、それぞれの指が別の生き物みたいに違うリズムで動く、というなんだか、書いてるだけでややこしいテクニックを駆使していました。(右 写真 左がチェット・アトキンズ、真ん中がラガーさん、右がマールさん) 「もーう!!ややこしやー、ややこしやー・・」なんてネタかましてはいられない、「これだ!もっと面白くしてやろう!」と決心したトラヴィスはラガーを真似ながら、発展させることにしたのです。 ラガーのスタイルは、すでに、地元で多くのギタリスト達を感化しており、その代表は、ケネディー・ジョーンズとアイク・エヴァリーというふたりのギタリストでした。アイク・エヴァリーは、50年代ロカビリーの有名なデュオである、エヴァリー・ブラザースのお父さんにあたる人です。トラヴィスは、このふたりのテクニックからも多くを学びとりながら、独自の洗練されたスタイルを創り出していきました。 ←若かりしのマール 1936年、トラヴィスは、インディアナ州の兄のバンドに参加するため、エヴァンズビルに滞在中、地元ラジオ局で「タイガー・ラグ」を披露。まるで、ベースとパーカッションとギターを全部一度に演奏しているように聞こえるトラヴィス奏法は、評判となり、クレイトン・マクミランのジョージア・ワイルドキャッツ、シンシナティのラジオ、WLWのドリフティング・パイオニアーズに参加。 トラヴィスの発展させた2本指奏法は、グランパ・ジョーンズ、デルモア・ブラザース、ハンク・ペニー、ジョー・メイフィスといった、後にカントリー界の大物となっていく、WLWの多くのミュージシャンたちをも感嘆させ、トラヴィスは彼らとの親交を深めていったのです。 彼らは、また、ブルーグラス音楽へも大きな影響を与えた人たちで、ここにトラヴィスがかかわったことから、スタンリー・ブラザースのカーター・スタンリー、ビル・モンローのブルーグラス・ボーイズにいたレスター・フラットなどの、初期のブルーグラス・ギター・テクニック(親指でベースラインを、人差し指でコードをストロークする)へと、トラヴィスの影響が伝播していったようです。 1943年には、シンシナティの中古レコード業者だったシド・ネイサンのところでレコーディングをしていますが、これがもとでネイサンは、キング・レコードを起こし、後にカントリーとR&Bの大レコード会社へと発展することになります。 この時期、トラヴィスは、ジミー・ウエイクリー、ジョニー・ボンド、コリーン・サマーズ(後にレス・ポールの奥さんになったメアリ・フォードの別名)などとともに、「サウンディーズ」(最も初期のミュージック・ビデオ。もちろん、モノクロ・フィルム。)に出演しており、今でもトラヴィスのびっくりするような凄腕ギタリストぶりを実際に見ることが出来ます。 1944年、トラヴィスは、シンシナティを離れてハリウッドに移り、ラジオショウ、ライブ、レコーディングセッションなどで、ますます幅広く活躍するようになります。 そして、1946年、キャピトル・レコードと契約、「スイート・テンプテイション」、「スティール・ギター・ラグ」、「キャノンボール・ラグ」、「ナイン・パウンド・ハンマー」などのレコードをヒットさせ、全国的な知名度を確固たるものにしていきました。「マールズ・ブギウギ」では、多重録音に挑戦、レス・ポールの向こうを張ったりしてもいます。 さらに、レス・ポールに近い活動としては、ソリッドボディのエレクトリック・ギター開発に一役買ったことです。ビグスビー社(現在は、ビブラートアームで有名)のために、デザインしたトラヴィス・ギターは、トラヴィスの長年の友人だったレオ・フェンダー(フェンダー社の社長)を感心させ、それが後の世界初のソリッド・エレキ「テレキャスター」の開発につながりました。 レス・ポールが、ギブソンの「レス・ポール・モデル」の生みの親なら、マール・トラヴィスは、フェンダーの「テレキャスター」の生みの親だと言うことも出来ます。 写真→左マールさん、右レイ・キャンピ(ロカビリーベーシスト) 1946年には、炭鉱労働者だった自分の家族のことを唄にした、「16トン」を書き、これは55年にテネシー・アーニー・フォードがビルボードのカントリーチャートのナンバー1に持って行き、その後、世界中どこでも唄われるほどのスタンダードとなっています。 しかし、トラヴィスの私生活は、ずいぶんと困難なものだったようです。というのも、映像や写真のにこやかなおじさんぶりからは、想像出来ないのですが、実際は、大変なステージ恐怖症だったのだそうです。そういう人がステージにあがるのに、酒に頼るようになるというのはよくある話。結局、大酒飲みになり、暴力沙汰が絶えず、なんども結婚離婚を繰り返すなど、人生を困難なものにしてしまったようです。 それでも、ひとたび、ステージに立てば、観客もステージ上の他のミュージシャンも驚愕するような素晴らしいギタープレイで、カリスマとなっていったのです。 1955年の「16トン」以降、トラヴィスは、キャピトルレコードで地道な活動を続けますが、時代の流れからか、それまでのような人気を保つことは出来ませんでした。 トラヴィス奏法の第一の後継者、チェット・アトキンズは、それをさらに洗練されたものにし、人気を博していましたし、ロカビリー音楽が流行したときには、トラヴィス本人は、関わることはなかったのです。 しかし、カントリー・ギターにもロカビリー・ギターにも、しっかりとトラヴィス奏法が息づいていました。 エルヴィス・プレスリーの最初のギタリスト、スコティ・ムアは、トラヴィス直系のチェット・アトキンズの真似ばかりしていて、プロデューサーのサム・フィリップスにしばしば「おまえ、チェットの真似やめないと街を放り出すぞ!」と言われていたそうですし、ジェイムズ・バートンの有名なテクニックであるチキン・ピッキングも、トラヴィス奏法のアレンジですし、ジーン・ヴィンセント&ブルー・キャップスのギタリスト、クリフ・ギャラップも、フラット・ピックと中指につけたフィンガー・ピックを使う、独特の2本指奏法で速いフレーズを弾きこなしていました。これも「トラヴィス奏法のギャラップ版」といえるでしょう。 トラヴィスの作った楽曲のほうは、70年代に、ニッティグリッティ・ダートバンドなど、カントリーロックでもとりあげられ、再度注目を集めますが、トラヴィス本人は、カリスマ・ギタリストとして尊敬されながらも、地道な活動を続けるにとどまり、1983年、心臓発作のため、死去。 しかしながら、個人としてスターであったか否か関係なく、トラヴィスの職人芸ともいえる、素晴らしい独創的な奏法は、その最初の後継者であったチェット・アトキンズをはじめ、後の様々なギタリスト達を感化し、後のロック・ギター、カントリー・ギターの基盤となって、今日でもしっかりと生き続けています。 様々なギタリスト、アーティストが次々と新しいスタイルを提案するように、THE KINGファツションにおいても、次々とオリジナリティ溢れるデザインを提案しておりますが、基本はいつも、マール・トラヴィスのごとく、しっかりと50年代アメリカのハリウッド・スタイルを踏まえています。それは、質実剛健、スマートでダンディーで、そして着た方が心から納得していただけるものでありたい。そしてなによりも、単なるファッションを超えて、素晴らしい音楽を感じさせるものでありたいと考えています。 |
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