8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.258

シリーズ 頑固8鉄のOSHIGOTO

OSHIGOTO NO.6 イラストレーター(1988)「必要経費は交通費」



子供のころ、絵描きになりたかった。

そういう人は五万といるだろう。
絵描きは誰でもなれるが、ギャラをもらえるかというとほぼないんじゃないか。

わたしは一時期、ギャラをもらって、クライアントの依頼で絵描きをしていた。
イラストレーターという職業は、思っていたものとは全然違った。

友人がアルバイトをしていた同時通訳の事務所で、
英語の教材を作ることになり、友人の紹介でそういうことになったのだ。

「絵がうまい友達がいる。」の一言で即決。コンペもなにもない。
わたしがそのころ、コンペで賞をとったのは、一度だけ、
池袋サンシャインシティのテレホンカードコンペだが、仕事はもらえなかった。

あらゆるコンペに作品を提出しては全滅という日々を一年送った後、
友人の一言だけで即決したイラストレーター仕事は、
事務所に出向くところから始まる。

わたしはそこから間違っていた。
当時は、ネットなんてものはない時代である。ちょっとPDFで送っておくから、とか、
写メにして送るわ、とかそんな芸当はできない。

もちろん、パソコンでお絵描きの時代なんかじゃない。
ペンと紙だけの世界である。

郵送だと時間がかかりすぎるし、話が通じない。
だから、この後もこの事務所に足しげく通うことになった。

依頼はすごいペースできた。

当時の第一線のプロは小さなサイズのモノクロイラスト1カットで
5000円というのが相場だったはずなので、
わたしは初めての仕事だからと遠慮して3000円にしておいた。
ここでもわたしは間違ったと思う。

わたしは絵を描くのが得意だが、とにかく速かった。
描くのがすごく速いのだ。得意、といううちに含まれるかなり重要なことだ。

あっという間に描いたペン画が1カット3000円ならいいギャラではないかと考えた。


これが甘かった。


依頼がくると、休日に事務所にいって、どういう内容か
、どういうシチュエーションでだれが何をしている場面なのか、
その人物像はいかなるものか、絵の大きさはどれくらいかなど、
聞き取りをしなくてはならない。

そのリクエストをもとに、本業が終わった夕刻から都内の官舎に帰り、
自力でアイデアを練って、それを絵にする。
本当のプロなら事務所につめていてもよかったが、わたしは副業である。

そして、時間を見つけては事務所へ戻り、社長に見せる。
一発で通ると思っていたわたしはバカであった。

ほとんどの場合、「この場面にはこの人物はいらない」
「この人物の目をもう少し大きくしてほしい」「この場面の背景にドアはうつらないほうがいい」
などなど、注文がつく。

自宅でいわれたとおりに描きなおし、また事務所へ戻ってみてもらう。
さらに細かなリクエストが入る。自宅に戻って描きなおし、の繰り返しだ。

一回の依頼で3~5回は描きなおしたと思う。
必要経費は小さなケント紙ブロックとインク代なのでかからないが、交通費がかさんだ。

これを必要経費として別計上するのを忘れたのだ。
3000円の絵を描くのに、400円の交通費が3往復で1200円とかかかれば、
実際は、1800円のイラストということになってしまう。だから、本当は5000円でも安かったのだ。

今ならそんな経費はかからない。全く違う展開になっただろうと思う。
で、結局、100点以上の依頼をこなして、ほぼ1か月で30万を稼いだはずだ。

経費を差し引かない売り上げだが。
それだけこなすには大変な労働時間が必要で、
副業だったわたしは、1か月徹夜したくらい働いた。
健康を崩すまで、骨身を削って働いたのである。

わたしはとにかく勤勉で、まじめなのだ。
いつでも全力投球で他者のため、ガキのころから知っている商人の友人が
いっつもいう大嫌いな言葉「お客様のために」働くのだ。
しかし、そういうのを、要領が悪い、ともいう。

ちなみに、この仕事を紹介してくれたのは、当ブログ予告編に登場した、
アンケート捏造男である。スイスイスーダラと
要領の良いこの友人は現在は英語教材の社長兼大学の常任理事をしている。
それはいいとして、骨身を削って働いて得た収入はうれしかったものの、
「ちょっと片手間に描いて3000円」というのとは大幅に違っていた。

そもそも、他人、もとへ、お客様のリクエスト通り絵を描くなんてのは面白いわけがない。
役所の課長が延々チェックを繰り返し、何度も手直しをさせられる
レポートや報告書とまったく同じ。それがワープロで打った文書ではなくて、
紙に描いたペン画だというだけのことだった。
むしろ、文書のほうがはるかに平易だ。

クライアントの社長からは、
「きみは役所勤めなんて辞めて、これ1本で食っていくべきだ。わたしがプッシュする。」
とまで言われた。必死の努力の成果である。

しかし、この後、事態は思わぬ方向に展開した。

わたしは千葉県庁に出向になり、事務所がある都内を離れることになってしまったのである。
そして、悪いことに、その教材の出版プロジェクト自体がボツになった。

事情は知らない。とにかく、続くと思ったこの仕事は運が悪く、ぶっつりと切れたまま、終焉した。
せめてもの救いは成功報酬でなかったこと。

本自体が出ようが出まいが、
その都度ギャラをもらっていたわたしはなんの関係もない。
あの仕事を今やれ、といわれたら喜んでやるとは思う。
パソコンでお絵描きして、ネットで添削して、そのまま仕事を終えられる。

しかし、当時の事情ではそうはいかない。仕事を甘く見ていたという、
最も愚かだった点は、別請求の必要経費に交通費をいれなかったことであった。

OSHIGOTO NO.7 音楽ライター(1986~2011)「ライナーノーツっていくら?」



さて、もともと、私が原稿料というのを始めたもらったのは、
自分が所属していた組織の一部署、「某機関誌編集室」でのことだ。
わたしは駆け出しの編集者で、自分で文章を書くのは、400時詰め原稿用紙でほんの数行。
最後の締めくくり「編集後記」である。
編集者でも、文章を自前で書いたらそれは原稿なのだから、原稿料の対象となる。
毎月、3000円くらいだっただろうか。

調査関係部署に異動になり、この原稿料はなくなった。
それとは、なんのつながりもなく、自分の音楽を投稿して評価を得ていた、
ニュー・ミュージック・マガジン(当時)からのお誘いで、
レコード紹介文とライブ感想文をいつくか書いた。

内容は別になんということはない、平易なもので、わかりやすさと率直さがあればよかった。
たしか、1つ6000円だったはずだ。中村とうよう氏が書いたライナーやメモをもとに、
読者向けに面白くするのが仕事であって、
自分が研究者だったり詳しかったりするわけではない。

フリーライターをしていた当時の友人が、某MH社の
雑誌見開き2ページのリライトもので、7万円とっていた。

たいした字数でもなく、無記名記事で7万円と6000円では天と地の差だ。
出版社ごとの差がこれほどとは思わなかった。
自分が研究者というライターもたくさんいたのだろうが、
わたしはほとんど知らないジャンルをいつくか受け持った。コ

ロンビアのクンビアとバジェナートで、日本では当時まったく知られていなかった。
私に振られたのは、わたしがアコーディオン奏者だったからだと推察する。
ロス・ロボスの来日時には、マスコミ関係として札をさげて無料で観戦したこともある。
ビノミオ・デ・オロというコロンビアのグループの紹介を頼まれて、レコード紹介をした。
素晴らしいグルーブのデュオで、大推薦したのだけれど、
ニュー・ミュージック・マガジン選出のラテン部門年間のベスト10選出で上位に入ったのはうれしかった。

こうした音楽の流行が廃れるにつれて仕事は来なくなった。
その20年もあとになって、自分の音楽活動に連れて、
今度はヴィヴィッドサウンドからレコードライナーの仕事が来るようになった。

今度は、ドゥーワップレコードの復刻シリーズの仕事だった。
2005年からわたしはドゥーワップグループを組織していたので、その関係だったと思う。
当時のそのグループ(ザ・ジルコンズ)のホームページには私の書いた
音楽コラムを掲載していたので、それを読んでもらっていたからかもしれない。

仕事は2010年ころだったと思う。
ライナーはずいぶんいい稼ぎになるのだとそのとき知った。1原稿あたり、2万か
3万だったと記憶する。それでも20年前のMH社よりずっと安い。

それが東日本大震災で突然とん挫した。
ヴィヴィッドは当時仙台に倉庫があり、壊滅的被害を受けたのだった。
レコードリリースが止まったらライター仕事は終わりだ。

それにしても、大震災がなければ、どれくらい稼げたろうか、
勘定してみると軽く100万は超える。
震災で亡くなった方がたくさんおられるなかで、
これっぽっちの不運などどうってことないが、
それでもときどき、自分の不運も嘆きたるなるものだ。

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