8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.257

頑固8鉄のOSHIGOTOシリーズ VOL.3
OSHIGOTO NO.4 レンタルレコード(1981) 「フラット組織の先駆は豚汁定食付き」



早稲田大学第二学生会館というのが、かつてあった。
大学音楽サークルのたまり場があったのが、1階ラウンジの一角。
地下には、学生向き定食屋があった。ここの経営者は地主のひとりだった。
彼が1階の空いたスペースでレンタルレコードというのをはじめたのは、
1981年だと思う。

サークルの先輩がめざとく見つけて早速店番のアルバイトを始めた。
学生なので、授業にも出なくてはならず、すべてのシフトを埋められない。
そこで、もうひとり、またひとり、と増えていったなかに、わたしももぐりこんだ。

音楽サークルの強みで、レコードにはけっこう詳しかった。
経営者もそのあたりを理解して、なかばサークル内でアルバイトと
シフトをやりくりするようになり、いわば、サークルが人事課のような役割を
果たすようになっていった。遊び半分、というと悪いが、たしかにそんなノリだったと思う。
だからといって、厳しくするような経営者ではなく、ほとんどをわれわれ学生に任せてしまって、
自分は本業の定食屋に専念していた。

現代は、フラットな組織を標榜するところがやたらと多いが、
たいていは、「フラットなふりしてみたピラミッド」だろうと思う。
名前をチームに変えてみたって、課長をリーダーと言ってみたって
所詮名称が変わっただけのこと。

わたしは運よく、1980年近辺にたまたま、本物のフラット組織に属していたといえる。
開店と閉店しか顔を出さないオーナーがすべてを整えてあるところで、
あとはアルバイトが指示通りにすればいい。
マニュアルなし、規則決まりなし、精神論なし、研修なし、ノルマなし。
コンプライアンスがどうしたこうした、言葉遣いがどうしたああした、
お客様がすべったころんだ、一切なにもなかった。
どうふるまってもよかったのだ。

みんな、学生なんだし、常識もあれば、知恵もあるでしょ、
じゃあ、あとはよろしく、という感じ。
そうなると、人というのは、自然と勝手にまとまるし、
真面目に働くし、お互いに知恵も出せば、助け合いもするものだ。

で、本当にそうなった。あれこれ言われないし、今のように監視システムが
あったりもしないので、働くのが楽しくなるのである。
われわれはちゃんと稼いだのだ。
それにしても、まかないというのではないが、バイトメンバーは
地下の定食が割り引き格安で食べられた。

豚汁定食が絶品で、これほどうまい豚汁は後にも先にも食べたことがない。
なんと250円で食べることができたので、わたしは毎日豚汁だ。
サークルのメンバーが卒業したり、就職活動に入ったりで、
バイトは後輩に受け継がれていったが、レンタルレコード、というより
レコード文化の衰退とともに、閉店となった。
そして、いつだったか忘れたが、第二学館の解体とともに、定食屋も閉店し、
オーナー一家がその後どうしたのかは知らない。
われわれバイトに残ったのは、楽しい思い出と忘れがたい豚汁の味であった。

OSHIGOTO NO.5 バンド演奏(1980-1983) 「バンドが金になった時代」



無名の学生アマチュアバンドでも、
いい小遣い稼ぎができた時代というのがあった。
1回イベントの客引き演奏をすると、1時間で5万円くらいじゃなかったか。
5人編成でひとり1万。
時間給が1万の計算なので、めちゃくちゃきつい工場作業の10倍。
友達とちゃらちゃら楽器弾いて万札を手にできたのは、数回。

しかし、のちに、年上の、ベテランミュージシャンに聞いた話では、
バンドで結構稼げたのは1975年までだった、ということだった。

われわれのバンド(1980年のブルーグラスバンド)は、
もうすでにそういう時代ではなかったらしい。
もちろん、プロは別だ。あくまでアマチュアバンドの話である。
プロがどれほど稼ぐのか、ピンキリなんだとは思うが、
一度もなったことがないので知らない。

覚えているいい仕事は、ホンダの新車発表に伴う街頭イベントと
新宿NSビル開店記念イベントで、それぞれ1時間×2でひとり2万、
30分でひとり1万くらいだったと思う。

30分で1万とれるのは、弁護士か
売れっ子キャバレー従業員くらいじゃないのか。
ライブハウスというのは、たいして金にならなかった。
アマチュアバンドの、しかも、一般的とはほど遠いブルーグラスのような
特殊演奏では客数などたかが知れている。

それでも今よりはよかったと思う。
今は、多少名があるバンド、ミュージシャンでもたぶん食えない。
昔もそれで食っていける、というのは、無理だった。
絶え間なく、毎日ギグがあったり、たまのイベント出演があって
1回数万くらいじゃないとサラリーマンの月収にとても届かないだろうと
いうことは容易に想像がついた。

もちろん、それで全然問題はなかった。だってアマチュアだから。
音楽は趣味である。
仕事になったらどれほど楽しかったか考えてみたこともあるが、
あまりに非現実的で、途中で自分の考えに笑い出してしまう始末であった。

当時の出演先、神保町のブルーグラスイン、銀座ロッキートップは
ともにメッカで、一度新宿ウイッシュボンにも出て好評だったけれど、
あとが続かず、しばらくあとに店そのものが歌舞伎町再開発とともに、姿を消した。

余談だが、当時の歌舞伎町をはじめ、繁華街は今よりずっと猥雑で、
危ない誘惑が多かったが、そのどぎつい色気の中で
金を稼ぐというのはある意味興奮する出来事だった。
のちに、永田町勤めのサラリーマンになったとき、死ぬほどつまらないと思ったのは、
そういう下地があったからかもしれない。

そういう体験がいっさいない、純粋培養のエリート主義者だの真面目な学生出身は、
もしかすると、丸の内や永田町にもっと素直になじんでいったのかもしれない。

わたしが今振り返って思うのは、もっと本格的に水商売に足をつっこんでいたら、
どうなっていただろうか、という空想の世界より、
リアルな社会のなんともいえない退屈さ、つまらなさの中で
ほとんどの人たちは生きているという現実とどう向き合うのかという点だ。

一度でも夜の街で金を稼ぐ興奮を味わってしまうと、もう元には戻れない。
昼間のオフィス街はまるで無限退屈地獄に思えてくるのだ。

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