8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.256 |
頑固8鉄のOSHIGOTO NO.2 某喫茶店 (1981) 「アクロバットな出前リレーの世界」 「上智大学日本語学会様、ホット50、アイス10、紅茶10、 チーズケーキ70、午後2時に大会議室。」 店長ひとり、バイトふたりの3人で、どうやって持って行けというのか。 これができるのだ。店には駐車場がなく、自動車もない。 麹町にはそんなものはないのだ。 ではどうするか。3台の自転車でリレーするのだ。 まず、店長が先陣を切って、ポット3つを自転車の荷台かごに積んで走っていく。 1キロほどだが、蕎麦屋の出前持ちと同じだ。 さらに割れ物ばかりなので、転ぶと悲惨なことになる。 あとをバイトが、チーズケーキ70を詰めた箱を積み上げて、走っていく。 さらにそのあとを、バイトナンバー2、わたしが、カップ60を載せて走る。 ポットを置いた店長が、戻ってすぐに、グラス10とソーサー50を載せ、 店員が入れ違いにケーキ用ソーサーを90、わたしが、スプーンなど小物、 保冷箱の氷、という具合につないでいく。 全部がそろったら、タイミングを見て、すべてを完璧な状態で提供する。 神業のようだが、可能だ、というより、実際にいつもやっていた。 提供される学者先生たち(金田一教授(先代)がいたのを覚えている)は、 そんなことには気づきもしない。 大学事務局は、あかたかもそれくらい当然やるだろうくらいの顔しかしない。 ご苦労様でしたの一言も聞くことはなかった。 その別チェーンの店長は、アルガさんとは全く違う、必死感全面オープンみたいな人で、 お客様にはどんなサービスでも提供し、働く身内には厳しいというタイプの人だった。 頭がパンチ、だったのはアルガさんと似ていたが、中身は全く違った。 というのも、この系列はたぶんフランチャイズで、 単なる雇われ店長ではないからだ。 自分が経営者であり、絵にかいたような、重責を抱え込んで 四苦八苦する中小企業の経営者そのものに見えた。麹町はオフィス街の 喫茶店激戦区で、なにか特徴的なことをしないと生き残れない。 それが、ここの売りは頻繁な大量出前の受注で、 結果、アクロバットな出前リレーとなったのだろう。 この店の売りはもうひとつ、軽食で、手の込んだサンドイッチ各種にあった。 現在であれば、サブウェイってところだろうか。 厨房は、アルバイトには任せず、店長がひとりで仕切っていたので、 自分で作ることはなかったが、なかなか美味なサンドイッチで、まかないとして提供もされた。 ランチはいつも店長が腕を振るったサンドイッチとアイコー(アイスコーヒー)(無料)であった。 さて、そんな喫茶店での特徴的なことといえば、ラジオ体操だ。 当時も今も、休憩時間にはあるのかもしれないが、 わたしは後にも先にもここでしか体験しなかった。 朝、朝礼というか訓示がある、休憩時間はラジオ体操が強要される、 というのは、ある意味、学校的、というか軍隊式で、 出前リレーを頻発する運動性能優先なところとイメージが合っていた。 職場というのは、面白いもので、今でいうところの、「職場のハウスルール」と 職務内容が合っているものなのだ。 誰が考えたか知らないがうまく出来ている。 わたしはここでも半年ほど一生懸命働いて、店長の信頼は得たけれど、 特に褒められることもけなされることもなく、なんとなく淡々と過ごして自然と辞めた。 所詮学生バイトなんて気楽なものだ。切実さがない。 それに比べて、経営者の店長のいつも胃が痛そうな顔と具合が 悪そうな体操が印象に残っている。 経営者、って、そんなにいいものだとは思えない。 当たれば大金持ち、外れれば、大貧民。下手をすると病気になる。 このチェーン、フランチャイズそのものは現在も健在だ。 しかし、その後、数年していってみると、この店は跡形もなかった。 健康を害して辞めた、と風の便りに聞いたのは、 さらにあとのことであった。 OSHIGOTO NO.3 製本工場(1981) 「じいさんの指」 その工場は、高田馬場にあった。 当時の馬場は、少し奥に行くと、工場街だった。 小さな町工場があちこちにあった。 学生時代のある夏の日、思い立って、短期間で稼ぎのいい工場バイトに行くことにしたのだ。 理由はわからないが、2週間ほどの短期だった。 バイトが休みで、つなぎなのかもしれない。 大学から近い馬場の工場は、暗くじめじめした古い建物で、中に入ってもなにもない。 昼でも真っ暗ながらんとした部屋の奥に、ギロチンがあるだけ。 旧式の巨大な裁断機で、紙の束を切りそろえて本の形にする。 それだけである。その工場は雑誌を作っていた。 いるのは、監督と年寄りの職人だけで、監督はほとんどおらず、 わたしはこの職人のいうとおりにするらしい。 わたしは、じいさんが裁断した雑誌の束を紐で梱包し、 これまで見たこともないほど巨大な台車に積み上げて外に運び出す役目だった。 紐で梱包といっても、機械がない。すべて人力である。 ひとつふたつでも大変だが、これを延々と何百とこなしていく。 積み上げる、といっても、背丈の届く範囲えではなく、 2メートルを超えるほどなので、さながら、紙の束で城壁を築く作業のようだった。 その台車にのった紙の城壁を外に運ぶといっても、 ひとりでやるので、大変な怪力が必要だった。 まるでピラミッドを築くための奴隷、しかも、たったひとりだ。 午前中4時間働くとあまりに疲労困憊し、倒れてしまいそうになった。 昼飯は近くの定食屋でカツカレーみたいなものを貪り食う。 そして、午後は、同じ単調で過酷な作業を繰り返す。 午後5時のベルとともに、すべて終わり、引き上げるときに、 監督があらわれて、わたしとじいさんに日払いの給料をくれる。 たしか1万円だったと思う。 当時は、大学卒の公務員初任給が11万で、 1日1万円というのは、かなりいいほうだった。月20日、普通に働けば20万になる。 わたしは、とにかく腹が減って立っていられないという思いをこのとき初めて体験した。 晩飯は生姜焼き定食の大盛。よく覚えているが、毎回食べながら眠っていた。 それを2週間ほど繰り返して辞めたときは、奴隷から解放されたような気分になった。 自分から率先して働いているのだから、奴隷というのは使ってくれるほうに失礼だが、 それほど過酷だったという意味だ。確かに肉体的にも精神的にも鍛えられたけれど、 二度とやりたいとは思わない。 こういう生活を一生送る人もいる、というのが信じられなかった。 しかし、淡々とギロチンを操るじいさんは、機械で裁断しているだけなので、 かなり楽なはずだ。そう思った。 最後の日、別れ際に、はじめてじいさんと話をした。 話といっても一言だけだ。痩せこけていつも怖い顔しかしないじいさん のしわだらけの顔がぎゅっとしぼんだ。 笑って見せているのだ、と解釈した。 「俺は、もう50年やってる。見ろ。」 じいさんの手には、3本、根本から指がなかった。 「長年やってりゃどうしてもこれくらいになる。」 わたしは、職業というものをどうとらえていいのかよくわからなくなった。 アンケートを捏造して家でテレビをみながら万札を得ている学生もいれば、 指をなくしながら、毎日飽き飽きする単調な労働を繰り返している年寄りもいる。 わたしは複雑な思いで工場をあとにした。 |