8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.253

頑固8鉄版
寅さんのアナザー・ストーリー~リリーの物語

昭和48年から平成7年の22年間にわたる、寅さんとリリーの物語は、
シリーズ全体の中でも、アナザー・ストーリーと呼ぶにふさわしい、特別なエピソードだ。
同じ旅がらすであるリリーは、さくらを超える、寅さんの最もよき理解者、
そして、喧嘩をしては仲直りを繰り替えす、正真正銘の伴侶となっていく。
結婚したかしないかなどは、どうでもいいことだ、
というのがこのストーリーを貫くテーマにも思える。



第11作(昭和48年)「寅次郎忘れな草」

北海道網走の港で、ドサまわりの3流歌手、
リリー松岡(浅丘ルリ子)と偶然出会った寅さん。
旅から旅のその日暮らしのリリーが、自分と同じ境遇なのを察して、
ほんの数分、心を通わせるが、そのまますれ違っていく。

これが、リリー物語の始まりである。

この出会いで自分の生き方を反省した寅さんは、
北海道の酪農農家で働くが、案の定長続きせず、柴又に逃げ帰る。
その後、偶然柴又でリリーと再会。不幸な身の上のリリーを心配する寅さん、
とらやの面々とリリーのあたたかな交流が描かれるが、
ある日、リリーはふいにいなくなり、行方が分からない。
ひとりの人を惚れぬいてみたい、かっこ悪くても死んでしまいたいような
恋をしたいというリリーの考え方は、そのまま、第47作「拝啓車寅次郎様」で、
寅さんが満男に説教する言葉そのものだ。

寅さんは、リリーから多くを学んだのかもしれない。
やがて、さくらのもとにリリーからハガキが届き、歌手を辞めて、
板前と結婚、小さな店のおかみになっているとある。
寅さんはすでに旅の空である。



第15作(昭和50年)「寅次郎相合傘」

リリーが柴又に訪ねてくる。離婚して旅回り歌手に戻ったという。
寅さんは旅先で兵藤という家出サラリーマン(船越英二)と知り合い、
旅をともにすることに。のちの、「真実一路」(第34作)、「心の旅路」(第41作)で
描かれた疲弊するサラリーマンエピソードの最初の作品。

ふとふたりで立ち寄ったラーメン屋台でリリーと再会した寅さんは、
3人で自由気ままな珍道中をすることになる。詐欺まがいの商売で日銭を稼ぎ、
面白おかしく続く旅は、まるで、明日に向かって撃てさながらだ。

リリーはすでに、寅さんの恋人というより、同志、同僚に近い立場だと
いうことが描かれていく。
ふとしたことで、喧嘩になってしまう寅さんとリリー。女の幸せが男次第などとんでもない、
そんな男は願い下げだ、という男女平等の考え方は、
同じく第46作に登場する満男のガールフレンドが兄に向けて発する言葉と同じ。

満男はそんなことは当たり前だと思っているところが、時代を現わしている。
リリーは時代の先を行き過ぎた感がある自立した現代的な
人物だったということも描かれた。
相変わらず小さな酒場で歌い、苦しい生活を送るリリーに深く同情しつつも、
どうにもできない寅さんだが、お互いに自立した人生観をともにしており、
結婚するとか面倒をみるとか、そういうこととは無縁。
そこがリリーと寅さんの物語の核だ。

「定年まであと7年。定年になったら寅さんみたいに旅をしたい。」という兵藤と、
「定年があるなんて羨ましい」といいながら、常に旅の空にある寅さんの対比が面白い。
「おにちゃんの奥さんになってくれたらどんなに素敵だろう」とさくらがリリーに言う。
リリーは本気でそれでいい、というのだが、結局、弱腰になった寅さんは
受け入れることができない。去っていくリリーを見送るだけの寅さん。

とらやを舞台に、まったく同じシチュエーションが、繰り返されるが、
鮮やかなどんでん返しとなるのが最終作「紅の花」だ。
それにしても、このころの「男はつらいよ」は、夏の風景描写がいつも素晴らしい。
温度湿度まで感じられる気がするほどだ。



第25作(昭和55年)「寅次郎ハイビスカスの花」、
第49作(平成9年)「寅次郎ハイビスカスの花 特別編」

沖縄の病院にひん死で担ぎ込まれ入院中のリリーを見舞いに行った寅さんの話。
無事回復退院したリリーと寅さんは同居生活を始める。
ここでもふたりは男と女にならない。あくまで友達同士という関係を崩さない。
しかし、ある晩、リリーは、遠回しに結婚を切り出すが、寅さんは悪い冗談だと相手にせず、大喧嘩。
別れるのだが、柴又で再開。今度は寅さんがプロポーズするが、
紙一重のところで、またうまくいかないというストーリー。

最後もばったり出会って、ふたりで旅に出る、という、
粋なエピローグとなっている。
第49作は、渥美没後に作られた第25作の焼き直し版で、
満男が20年前の寅さんを思い出す、思い出話ということになっている。

なお、第49作は、いつもの渥美清歌唱が八代亜紀に置き換わっているが、
これが素晴らしい。男はつらいよシリーズ、最も偉大な遺産のひとつといえるだろう。



第48作(平成7年)「寅次郎紅の花」

そして、とうとう、シリーズ最後の作品、名優渥美清の遺作、「寅次郎紅の花」は、
満男シリーズの結末とリリー物語の結末の両方を携えた大団円となった。

阪神淡路大震災でボランティアをし、多くの被災者から慕われる存在になっていた寅さんは、
相変わらず行方不明。一方、満男は、いずみの結婚をまえに自暴自棄になり、
結婚式をめちゃくちゃにしたあげく、着の身着のまま、奄美大島へ。

そこで、リリーと同棲している寅さんに出会うというストーリーだ。
奄美大島のファンタジーのようなのどかさ、南国の豊かさの中で
のんびり暮らす寅さんとリリー。舞台が奄美大島なのは、
実は、オリジナルのテレビシリーズの楽屋落ちだ。

テレビシリーズの寅さんは、最終回、奄美大島にハブを採りに行って、
かまれて死んでしまうのだ。なぜ、寅を殺した、とクレーム電話が
鳴りっぱなしになり、復活させたのが、映画版の第一作。
以後、26年に渡り日本一の人気映画となった。

そして、最終作は、奄美大島で寅さんは死んだりせずに、
唯一の理解者、よき伴侶といえるリリーとともに幸せに暮らしている。
まさに、ファンの誰もが望む結末にふさわしい。
満男を心配したいずみが奄美大島を訪ね、そこで、満男は一世一代の愛の告白をする。
これも、また、見事にハッピーエンド。

寅さんは、リリーとともに、柴又へ帰るが、そこでまた、喧嘩。
リリーが帰ってしまうことに。さて、ここで、第15作のエンディングを
そっくりそのまま再現することになるのだ。

「リリーさん、帰っちゃうって。おにいちゃん、追いかけなくていいの?
リリーさんがおにいちゃんの奥さんだったらどんなにいいか。
奄美でおにいちゃんがリリーさんと暮らしているって満男から聞いて、どれほど嬉しかったか。」
といって涙を流すさくら。

そして、ラストにふさわしく、そして、第15作と打って変わって、
寅さんはリリーのもとへ行くのだ。ふたりは、連れ立って奄美大島へ旅立っていく。
リリーの物語の終わりにして、シリーズ最後のエピソードになったこの作品は、
まさに有終の美にふさわしい傑作になった。

なお、奄美で喧嘩して、ふいと家出してしまった寅さんが、
被災地に赴くエピローグがついているが、第50作までなんとか撮りたいと願っていた
山田監督が、あと2作続けようと用意したエピローグに思える。

しかしながら、それはかなわぬこととなった。
この作品の翌年の1996年、寅さんこと渥美清、没。享年68歳であった。

後日わかったことだが、手遅れのガンをひた隠しにしていた渥美が
この作品に出演できたのは、ほとんど奇跡に近かったそうである。

しかし、男はつらいよは、渥美が死んでも終わらなかった。
このあと、24年という歳月を経て、2019年、シリーズ全体のエピローグとでもいうべき
第50作「お帰り寅さん」が公開されたのである。



「おかえり寅さん」第50作(令和元年)

見方を変えると、「男はつらいよ」は、第一作の満男生誕から、
家族の中で育ち、50歳になるまでを描いた大河ドラマだともいえる。
「男はつらいよ」は、実は、初めから、満男物語だった。
そう考えると最後の最後まですべて合点がいく。
寅さんは初めから脇役なのかもしれない。

実際に50年かけてリアルタイムで作られた大河ドラマ。
そしてそれは、日本の昭和から令和までを写し撮った庶民の歴史物語にもなっている。
改めて驚嘆するばかりである。
さて、シリーズ終了から23年を経て作られた、男はつらいよ50周年記念の
第50作にして最終話、「男はつらいよ おかえり寅さん」。

満男は、すっかりいいオヤジになり、
娘と暮らす男やもめの小説家になっている。
その満男とかつての恋人いずみが24年を経て再会する物語。
その「おかえり、寅さん」は、最後の最後に驚くべき結末を迎える。

満男がスランプを抜け、書き出した新作が、「おかえり、寅さん」なのだ。
かつて、満男は山田洋次自身ではないか、と言われていたが、とうとう、本当にそうなった。
寅さんの原作者は満男なのかもしれない。
満男の伯父さんの思い出話がシリーズすべての物語になっているのかもしれない。
まるで、メタフィクションである。
モニターに映る満男の記す小説の文中冒頭。
「くるまやに帰ってきた寅さんのとなりには美しい女性がたっている。
その人だれ、と尋ねる満男に寅さんは照れくさそうに、俺の女房だよ、と応える。」

一気に、素晴らしいテーマ曲とともに、数十年に渡るシリーズのマドンナたち全員が
フラッシュバックしていき、第一作のマドンナ、冬子と出会ったところでこの映画は終わる。
圧巻のラストシーン、怒涛のフィナーレだ。

そして、もし、そのラストに導かれた観客が69年の第一作冒頭に戻れば、
柴又に20年ぶりで帰ってきた寅さんに会える。
おかえり、寅さん。

そして、再び話は続いていく。その円環の中で寅さんは永遠に生き続けるのだ。
50作目のエンドロール、シリーズを代表する美しい場面は、
第1作目のラストシーンをそのまま転用。いつもの啖呵売の場面である。

舎弟、登(津坂匡章)とともにある寅さんは、日本三景の一つ、
京都府宮津市の天橋立の風景に溶け込んでいる。掛け値なしに美しい。
風景画の傑作のよう。希代の名カメラマン、高羽哲夫の功績である。
まさに、有終の美を飾るにふさわしい名ラストシーンだった。



ところで、渥美清最後の作品、「男はつらいよ 紅の花」(平成7年)ラストで、
阪神淡路大震災復興現場を訪れた寅さんは、その後、どうなってしまったのだろう。

「寅さんについて、さくらさんの前では、そのことは言ってはいけないというタブーが、
きっと、くるまやにはあると思う。さくらは、寅さんがどこかで生きていると信じていて、
時々、夜中に亡霊の寅さんと会っているのかも知れない。

もう帰ってこない、みたいなことは言ってはいけない。
行方知れずという方向は、ずっと続いていると考えています。」
(山田洋次 2019年第50作「おかえり寅さん」封切り前の記者会見で)
第50作「おかえり寅さん」は当然今の寅さんは出てこない。
渥美清がイコール寅さんなんだから仕方ない。

では、架空の創作物である寅さんはどうなってしまったのか、
それを問うことは、すなわち、原作者である山田洋次がいかなる登場人物の
シチュエーションを想定して50作目を作ったのか問うことだ。
冒頭のとおり、山田洋次は封切り前にすでに答えを述べている。
映画本編を見ると、その巧みな伏線、登場人物たちのセリフや無言の表情から、
微妙なシチュエーション設定が細かく作られているのがわかる。

「二階の部屋はいつお兄ちゃんが帰ってきてもいいように空けてあるの」とさくらが言う。
寅さんの所在、生死にかかわるセリフは実はこれだけだ。
しかし、博初め家族は誰も反応しない。相槌も打たない。
その前には、さくらは御前様に時間を伝え間違えたと博が文句を言う場面がある。
さくらは最近ボケてるからという博とさくらは喧嘩寸前。これはたぶん伏線だ。

くるまやの仏壇にはおいちゃんとおばちゃんの遺影があるが、
寅さんのはない。かといって生きているとは言い切れない。
お兄ちゃんどこで何してんだろ、とか、寅さんそろそろ帰るんじゃないか、
とか、伯父様どうしてるの、とかいうセリフはひとつもないのだ。

誰も寅さんを話題にしない。満男が思い出すだけである。
そもそも、寅さんが昔のように旅がらすだというのは無理がある。
もし生きているとしても、もう90に手が届く。さすがに過酷なテキ屋をしているはずがない。

第50作目の寅さんは、やはり、かなり前に、死亡宣告を受けた行方不明者、
というのが、おそらく一番もっともらしい設定だと思う。
ちょっとボケたんじゃないかと思われるほど兄の健在を夢見るさくらが哀しいが、
それが山田洋次の想定に最も近いと思う。

しかしながら、50作目の主題は、渥美清でも寅さんでもない。
50年に及ぶシリーズに映し出された、その時々の日本の風物詩と人々の心象風景。
それがたくさんの登場人物に投影され、時代を映す鏡になっている点だ。
「映画の主役は、意図したわけではないのだけれど、50年という時代、
そのものなんじゃないかと思います。」(山田洋次)

「寅さんは一番大切な愛を知っている人。
「男はつらいよ」は玉手箱みたいな作品で、そこには、日本人の情や、かつてあったけれど、
今は失われてしまった大切なものとか、いろいろなものが入っていて、
人として大切なことを思い出させてくれるんです。」(倍賞千恵子)

「おかえり、寅さん」は、あの時代に対する郷愁そのものなのかもしれない。
寅さんが行方不明なように、かつて日本が持っていた良いところが
行方不明になってしまわないよう祈りたい。

GO TO TOP