8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.24
                                                                 
 
 グレートボールズ・オブ・ファイア ― ジェリー・リー・ルイス


 こんにちは。最近久々にブギウギ・ピアノを弾いてみたら、
指に血豆ができたヤワなオヤジ、頑固8鉄です。

 さて、50年代の偉大な白人ロッカーのうち、最も凶悪な男、そして、最も傲慢不遜で奇行の目立つ奇人でありながら、それを補って余りある優れた才能ゆえに、今日でも大活躍しているアーティスト。
憎まれっ子世にはばかる、悪いやつほど長生きする、というのを地でいっているようなものに見えますが、実際はいい人なのかもしれません。その当たりは、芸能界の裏の裏みたいなもので、誰にもわかりようがないのですが、音楽的才能のすごさだけは、誰が聴いてもわかる、そんな人でもあります。

震えるようなシャウト、恍惚とした顔、振り乱した金髪、椅子から立ち上がり、たたきつけるように弾くピアノ・・
初期ロックの偉大なパイオニアのひとりであり、また、カントリー&ウエスタンの最大のアーティストのひとりでもあるジェリー・リー・ルイスは、ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なアーティスト100の24位に選ばれるなど、歴史的な人物であり、また、今日でも現役のアーティストでもあります。

 「ロック界の最も偉大な奇人」、「ザ・キラー」こと、ジェリー・リー・ルイスは、1935年、ルイジアナの極貧農家に生まれました。
最初は、2人の従兄弟、ミッキー・ギリーとジミー・スワガートとともに、ピアノを弾きはじめ、ジューク・ジョイントやラジオから流れてくる黒人音楽を聴きながら、ブギウギ、リズム&ブルーズ、カントリーなど様々なスタイルを独学でマスターし、それらをミックスして独自のスタイルを創り出していきました。
「オレは、オレ。誰にも影響なんか受けてないぜ。」と言っていたそうですが、デモテープなどを聴くと、カントリー・ブーギのピアニスト、ムーン・マリカンやメリル・ムアなど影響を受けた、正統派のカントリー・ピアノに近いスタイルだったようです。

 母は、音楽好きの息子のため、「神様のためにゴスペルを唄いなさい」と、ルイスを神学学校に通わせます。
ところが、教会で、当時は、卑猥だ、エッチだ、エロすぎだ、などと言われていたブギウギ・ピアノを弾いたりしていたので、さあ大変!!

 先生「ジェリーくん、君は、悪魔の音楽を続けるつもりか?なら学校を辞めてもらうことになるぞ。」(ジャック・バウアーの吹き替え風の声で)

 ジェリー「ええ、そうします。だけど、おかしいと思いませんか?僕を学校から追い出した音楽と教会でやっている音楽は同じ音楽なんですよ。違いは、悪魔のために唄うか神のために唄うかっていう気持ちの違いだけです。もし、僕が悪魔のために唄っているっていうのなら、それでもいいです。」(ディランの吹き替えの声、もしくは、なだぎ武の物真似で。)

 ってな感じを想像してみてください。
先生が「そ、そうかああああっ!そういえばそうだなああっ!気がつかなかったぜええ!」
などと言うわけもなく、ルイスはあっさり放校処分になってしまいました。

 まあ、しかし、社会の枠組みにとらわれず、子供時代から物事の本質を鋭く見極めていたからこそ、自由奔放に生きる、そういう精神をこのころから持っていたということでしょう。まさに、ロック魂、というのはこういうことを言うのではないでしょうか。

 そんなわけで、ルイスは、ミシシッピのクラブでピアニストとしてプロフェッショナルな活動を始めます。
そして、1954年、デモテープをもって、ナッシュヴィルに行くのですが、うまくいかず、1956年、ルイスはメンフィスのサン・レコードのオーディションを受けます。
そして、カントリー曲を、アクの強い、独自のスタイルで演奏するソロ・アーティストとして、また、サンにいた他のアーティスト、カール・パーキンズやジョニー・キャッシュの伴奏ピアニストとして在籍することになるのです。伴奏者としてのルイスは、パーキンズの「マッチボックス」や「プット・ユア・キャット・クローセズ・オン」、ビリー・リー・ライリーの「フライング・ソーサーズ・ロックンロール」などの名盤で聴くことが出来ますが、当時、ロカビリーにピアノが入っていることは珍しく、ルイスの参加後、多くのロカビリースタイルのアーティストがピアノを入れることに積極的になります。ルイスはロカビリー・ピアノの元祖だということも出来ます。

 1956年12月、エルヴィス・プレスリーがサンを脱退した後、ルイスは、自分のシングル「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」「グレート・ボールズ・オブ・ファイア」(火の玉ロック)などを吹き込み、これが大ヒット。しかし、あまりにセクシャルな内容とパフォーマンスだったため、ラジオ曲はかなりかけるのをボイコットしたそうです。



 「ったく、今のオトナはようー、だっせえなあ。どこがいけねえんだよ!おまえらだって女と寝るだろうが!くだらねえイチャモンつけやがって!」と思っていたかもしれないルイスも、当時の映像などを見ると、まだまだ若々しく、インタビューなんかにも「はいっ!ジェリー・リーでーすっ!!」って感じで、はつらつと応えているところからすると、「何があっても、絶対、イケる!ロックはこれからの音楽だ!」と確信していたのかもしれません。

さらに、シャウトする唄法とワイルドなピアノプレイからつけられた、ルイスの子供のころからのニックネームである、「ザ・キラー」は、彼の持っているワイルドなイメージとぴったりでした。
ルイスはピアノ奏者としては、ブギウギ・ピアノの伝統の上にたっており、オリジナルの演奏法を作り上げた人ではありませんが、そのダイナミックなパフォーマンスでピアノ・ロックのパイオニアだったと言っていいと思います。
今では有名なアクションの数々である、ピアノを弾きながら立ち上がる時に、椅子を後方に蹴り飛ばす、キイボードの上に座って弾く、ピアノの上によじ登る、挙げ句の果てに、ピアノに火を放ったりする、というすさまじさ。

1958年には、「ジャンボリー」などの映画に出演、「ハイ・スクール・コンフィデンシャル」もヒット。
熱狂的なロックンロール流行の波に完全にのって、順風満帆かと思われました。



 しかし、こうしたパイオニア的な創造性と
個性による成功にもかかわらず、ルイスは、突然、業界を追放されてしまうのです。
1958年、23歳のルイスは、13歳の従兄弟と結婚したことがスキャンダルとなってしまい、それがもとで仕事をほされるようになってしまいます。
当時のアメリカ南部では、従兄弟と結婚することは珍しくなく、また、13歳で結婚することも合法であったのにもかかわらず、前妻との離婚が正式に成立するまでのしばらくの間、重婚状態となってしまっていたのを追求されてしまいました。
もう、マスコミによる、ほとんど「言いがかり」、「いじめ」みたいなもんに思えるのですが、いつの世も売れている芸人に対する世間の目というのは厳しいもので、この時期、ルイスを変わらずに支援してくれたのは、サンのサム・フィリップスとDJのアラン・フリードだけだったようです。サン・レコードにはとどまりましたが、レコーディングは自粛となり、1万ドルのギャラでコンサートホールに出演していたのに、一夜にして100ドルのギャラで場末のバーで演奏する身分に逆戻りしてしまったルイスは、ほとんど信頼できる友人もいませんでした。
さらに、1962年には、水の事故で息子を亡くすという悲劇もあり、とうとう、1963年、サンを去ることになったルイスは、スマッシュと契約し、カントリー音楽に転じてレコーディングしますが、どれもヒットはせずじまい。

 そんなルイスの知名度が回復しはじめたのは、ヨーロッパでのことで、特にイギリスとドイツのツアー時に、バックを勤めたナッシュヴィル・ティーンズとともにライブ・レコーディングされた、「ライブ・アット・スター・クラブ」(1964年)は、「もっとも優れたライブ・ロックアルバム」と評論家が絶賛、ルイスは再び、上昇気流に乗ります。
50年代のサンでレコーディングされた自作曲を演奏したライブなのですが、今聴いてみても、これはルイスの最高傑作なのではないかと思える、素晴らしいロックぶりです。

 そして、スマッシュから次々とリリースしたカントリー&ウエスタンが好調な売れ行きとなり、1968年には、「アナザー・プレイス、アナザー・タイム」がナンバーワンヒットを記録。続いてマーキュリーに移り、新たにカントリー界での地位を不動のものとしていきます。
 1970年代に入ると、50年代ロックリバイバルの波に乗り、サン時代のロカビリーを再び演奏、さらに大きな名声を得ていきますが、一方で、苦しいスキャンダルの時期に守り続けた女房と離婚、アルコールびたりになっては、死にかけたりもしています。
 しかし、七転び八起きを地でいくルイスは、1986年には、最初にロックの殿堂入りし、1989年には、デニス・クエイドがルイスを演じた伝記映画が作られたりもしました。



 それでも、ルイスは、ほとんどツアーを止めたことはなく、高齢のため、暴れまわるアクションこそないものの、現在でも、昔と変わらないピアノプレイと歌を聴かせてくれます。さらに、最近では、2005年グラミーのライフタイム賞を受賞、2007年に発売された、ライブ「ラストマン・スタンディング」のCDは、はゴールドレコード獲得という快挙。
グラミー50周年記念では、ジョン・フォガティ、リトル・リチャードとともに出演し、「火の玉ロック」を演奏するなど、大御所の貫禄たっぷりに、73歳とは思えない血気盛んな大活躍を見せてくれているのです。



 さて、ジェリー・リー・ルイスの、一番の特徴、というか、すごさ、というのは、どんな楽曲をやっても、オリジナルと似ているとか似ていないとか一切問題にならないくらい、完全に自分のものとしてしまう、ということです。

 だから、レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」であれ、ハンク・ウイリアムスの「クレイジー・アームズ」であれ、クリス・クリストファスンの「ミー・アンド・マイ・ボビー・マギー」であれ、全部「ジェリー・リー・ルイス音楽」になってしまう。

 THE KINGも、50年代のノスタルジックなナッソーであれ、パンツであれ、今回のローファー・シューズであれ、単なる「リアル性」ばかり追うのではなく、あくまで、「かたくなにロックンロール愛を持ったTHE KINGらしい商品企画や仕事」であることにこだわり続けています。
 何を作っても、すぐに、あ、これは「THE KINGのタッチ」だ!とわかる、そんなアイテムを作り続けていく、その精神は、まさに、ジェリー・リー・ルイスの音楽に通じるものがあるのです。 THE KINGの美し過ぎるコイン・ローファーを1秒でも早くゲットして、ジェリー・リー・ルイスで踊り明かす!そんなロッキン・スピリット溢れるみなさまの熱い声援を、引き続きお願いいたします!


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