8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.238

イヨマンテの夜 ~ 伊藤久男



昭和。それは、時間と空間が交わるところ。貴方の耳と目で捉えた空間を遥かに超えた、
見知らぬ世界。貴方はミステリーゾーンに入ろうとしているのです!
(千葉耕一か石坂浩二の声で)こんぬつぱ。頑固な8こと頑固8鉄です。
なにかとインチキなことばかり言っているわたくしも還暦を過ぎて、いよいよ年貢の納め時か、
いよいよミステリーゾーンに行ってしまうのかハラハラしましたが、まだ現世に留まっております。

わたくしなどは、昭和中期の生まれなんで、平和ボケ世代第一弾みたいなところがありますが、
実は、父の世代、昭和一桁生まれは太平洋戦争以前の軍国少年世代ですからね、
ぜんぜん違う感じでした。
なんというか、ホンモノの迫力あるオトナ、といいますか、
わたしら世代がいくつになってもガキに見える精神力を持ってました。
いつ死んでもふしぎじゃない感みたいなのを自然と持ってた気がする。
その点、わたしら世代って将来の夢とかばっかり語るんですよ。
子供の頃からそんなふうに教育受けたから。父の世代は違うんですよ。

大人になったらお国のために死になさいっていい境域なんだから、夢もへったくれもありません。
そんな父世代が子供の頃に聴いていたのは軍歌。というか、軍歌以外は存在しない世界。
軍歌以外に接したら投獄されてしんでしまうという、トンデモない世界だった日本。
その軍歌歌手として名を成した男がいました。
敗戦後、自由社会となった日本で、流行歌手になり、大ヒットを飛ばした伝説の歌手。
あのイヨマンテの夜の伊藤久男です。




わたくしが子供のころ、昭和30年代と40年代は、家庭にテレビが普及しだした時期です。
真空管式モノクロテレビを消すとぷっつーんって点になっていくのが懐かしい。
そのあとに出てきたバカデカイ上にバカ高かったらしいカラーテレビ。
あれ、おやじが買ってきたのがまだ発売したばかりのころだったそうで、誰よりも早く買ったんだ、
ってよく自慢していました。案外ミーハーだよな、うちの親は。

さて、そんな高価なカラーテレビでなにを観ていたのか。
なんといっても、昭和、カラーテレビといって、すぐに思い出すのは、
当時小学生だったわたしにとっては、ウルトラマン。
そりゃそうだろう、巨人の星もあった、あしたのジョーもあった、
後楽園の巨人戦もいつも観ていた、しかし、やはりウルトラマン。
でも、おやじたちにとって、カラーテレビで観たかったものってなんだろう、
と考えてみて、思い出すのが、思い出のメロディー。なんつーか、ハヤシもあるでヨ!
はっぱふみふみ!踏んでも壊れない筆箱!あんま関係ないすね。
よく12チャンネルで観ましたというか、観させられました、おやじに。

わたくしも、当時でも古いタイプの歌手が結構好きでした。
灰田勝彦、田端義夫、岡八郎、伊藤久男!
伊藤ときたら、ハトヤ!じゃありません!イヨマンテの夜
いろいろ、ありましたが、1つだけ挙げるとしたら、やはり、この曲です。


今、こうして観てみると、恐ろしいくらいの歌唱力!超ワイルド!

『イヨマンテの夜』は、作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而(こせき ゆうじ)により、
1950年(昭和25年)にレコード発売された歌謡曲。
原曲は、NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」挿入曲として1949年(昭和24年)に放送された
「山男のテーマ」だそうで、もともとは、歌詞がない「ア~ア~」という発声のみの
楽曲だったが、これにアイヌの儀礼「イオマンテ」をテーマとした歌詞をつけて、
歌謡曲『イヨマンテの夜』が生まれたそうです。
アイヌの儀礼「イオマンテ」とは、「熊祭り」のこと。やっぱ、ワイルドだねえ。
西部劇曲みたいだなあ、と子供心に思っていましたが、間違ってなかったんですね。
この曲、おやじの十八番で、カラオケない時代に、
いつもアカペラで歌ってましたが、まったく違和感がない。
昭和の男がひとりで、夜中に吠えるように歌う、で合ってる曲なんですよね。

それにしても、伊藤久男の目つきがすごい。
とにかく、鬼気迫るものがある。いまどき、こんな眼力のある人、って見たことないです。
でも、この人、若いころの写真を見ると、すごいイケメン!
今なら、間違いなく、ジュノンボーイとかジャニーズとかで即採用でしょうね。



伊藤 久男は、1910年(明治43年)、福島県安達郡本宮町生まれ。
裕福な旧家の出身で、。父親は県会議員、兄は自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟。
すごい名家のおぼっちゃまなんですね。

中学(旧制)の頃にはピアニストを目指して、家族や親族の反対を押し切り単身上京。
同郷の新進作曲家・古関裕而と懇意になり、帝国音楽学校に進み、
音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みの
アルバイトを始めたとあります。

1932年(昭和7年)、古関裕而の勧めにより、1933年(昭和8年)6月25日付で
「伊藤久男」名義で「今宵の雨」でデビュー。
コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、「宮本一夫」の名前で発売。
1935年(昭和10年)の「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男に統一。
1910年生まれですから、バリバリの戦前派です。そして、とうとう時代は太平洋戦争に突入。
昭和10年代前半から戦時歌謡(軍歌)のレコーディングが多くなり、
伊藤久男としての初めてのヒットは日中戦争(支那事変)を題材とする
1938年(昭和13年)の「湖上の尺八」。

そして、敗戦後、1947年(昭和22年)の松竹映画「地獄の顔」(マキノ雅弘監督)
の主題歌「夜更けの街」でカムバック。
その後は、「シベリヤ・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」
「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジ
ー」「ひめゆりの塔」など流行歌謡の歌手として幅広い活躍をしました。
1978年(昭和53年)に紫綬褒章受章、1982年(昭和57年)には
第24回日本レコード大賞特別賞を受けています。

なお、今ではあまり知られていませんが、現在でも夏の高校野球全国大会で
歌われている「栄冠は君に輝く」は伊藤の創唱。
さらに、わたくしもそうですが、早慶戦でおなじみの早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」も伊藤久男です。


1983年(昭和58年)に死去。
なんというか、わたくしのおじいさんくらいの世代の人ではありますが、
昭和のテレビでよく観た、我々世代にとっても忘れ難い歌手でありました。


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