8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.236

思い出のスタンレー・ブラザース



個人的な思い出話をすると、最初に自分で録音した音楽というのは、15歳くらいのとき。
自宅で、親父のオープンリールテープレコーダーの消去ヘッドにセロテープを張って、
重ねられるようにして録音しました。
曲は、ハンク・トンプソンのカントリーの古典、「ワイルド・サイド・オブ・ライフ」でした。
参考にしたのは、ブルーグラス版のほうで、演奏者は、スタンレー・ブラザース。

友人であり先輩である、日本のブルーグラスミュージシャンに、
やはり古典的なブルーグラスバンドのカントリージェント
ルメンと友人関係にある人がいまして、彼から聞いた面白い話がある。

「おれたち(カントリー・ジェントルメン)は、ブルーグラスバンドじゃないよ。だって、
ブルーグラスバンドって3つしかないんだよ。
ビル・モンロー&ヒズ・ブルーグラス・ボーイズ、
フラット&スクラッグス&フォギー・マウンテン・ボーイズ、
そしてスタンレー・ブラザース&クリンチ・マウンテン・ボーイズの3つだ。」


STANLEY BROTHERS "HOW MOUNTAIN GIRLS CAN LOVE"


ブルーグラスの父といわれるビル・モンローは、フラット&スクラッグスもスタンレー・ブラザースも、
自分のコピーバンドで、自分の音楽を盗んだ、と主張していたことがあったそうで、
そんないきさつからも慎重な物言いになるのかも。音楽は、芸術であり、娯楽であり、
そして商売でもあるので、さまざまな事情が絡んで複雑になりますが、
それも人気があったからですよね。ブルーグラス音楽の全盛期は、
一般的には40年代から50年代にかけてで、60年代には、テレビドラマや映画の主題歌、
テーマ曲、コマソンに進出して売れに売れたフラット&スクラッグスを除き、下火になっていきます。



全国ヒットを出したブルーグラスバンドというのは、フラット&スクラッグスだけだと思います。
他の主だったブルーグラッサーは、オリジナルのビル・モンロー含め、人間国宝
(ナショナル・フェエローシップやメダル・オブ・アーツ)といった、
民俗芸術の大家として世界的に有名になりましたが、ヒット曲とはあまり縁がありません。
日本でいえば、民謡歌手が叙勲を受けるのと同じような感覚でしょう。
そういう意味では、ブルーグラスはマイナーでローカルな音楽ですが、
世界中にファンがたくさんいるし、優れたミュージシャンも、金銭とは関係なく、
世界中にたくさんいる、という側面も持っています。
そして、のちのロカビリー音楽のルーツのひとつとして、大変に重要な
役割を果たしたことは間違いありません。
エルビスの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」は、ビル・モンローの曲だし、
カール・パーキンスは、「ビル・モンローをジョン・リー・フッカー
(50年代に人気のあったブルースギタリスト、歌手)のスタイルでやるのが好きで、
それがロカビリーになった。」と語っていました。

で、スタンレー・ブラザース。
この人たちは、やはり、ヴァージニアのクリンチマウンテン出身。
ビル・モンローのバンドにいたことはなく、兄弟でビル・モンローがラジオや
レコードで有名にしていたサウンドをコピーするところから始まったとされています。
録音物や数少ない映像を見る限り、ビル・モンローの先生です、
でも通りそうな風格がありますが、コピーキャットだったん
だあ、そうなんだあ、って感じ。意外であります。

わたくしは、そのスタンレーをコピーしてたんですけども、
学生ブルーグラスバンドだった40年前になにをめざしていたか
といえばこれだったような気が。

"GOIN' TO THE RACES"(LIVE)


この猛烈なスピードにあこがれた。たしか、実際にやったと思う。
空中分解寸前を走っていくのが楽しかった。
スタンレーはライブ録音も独特の楽しみがあってすごいんですよね。
ラルフ・スタンレーのパッキパキのアーチドトップバンジョウと
ビル・ネイピアのマンドリンが超高速で走っていく。



専門的な話をすると、アール・スクラッグス(ブルーグラス・バンジョー奏法の始祖)が
スリー・フィンガーなんですけど、ラルフ・スタンレーはツー・フィンガー。
ギターでいえば、ツーがマール・トラヴィス、スリーがチェット・アトキンスなんで、ちょっと面白い。
ちなみに、ブルーグラスギター(リズムギター)は今は、誰もがフラットピックを使っていますが、
カーター・スタンレーもレスター・フラットもサムピックトフィンガーピックを使ってます。
だから、どんなにテンポが速くなってもモタったりしない。
古い曲のほうが速いものが多いですけど、それなりの奏法を持っていたからです。

さて、専門的な話はおいておいて、簡単に紹介すると、スタンレーは、
カーター(ギターとリードボーカル)、ラルフ(バンジョー、テナーボーカル)の兄弟。
バンドがクリンチ・マウンテン・ボーイズといいます。

結成は1946年。終戦直後の混乱期ですね。同年12月、バンドはブリストル
(テネシー州)のラジオ局の人気番組で演奏を始め、翌年9月、レコーディング・デビュー。
1949年には、コロムビア・レコードに移籍して本格的なレコーディング・アーティストとなっています。

1950年代初頭、活動を休止。デトロイトのフォードの工場で働きだしますが、
数年を経て、カーターとラルフは再びクリンチ・マウンテン・ボーイズを結成。
1950年代の終わりころには、ブルーグラス音楽の人気はなくなってきており、
フロリダ州ライブ・オークに移り住み、62年まで、ラジオ番組専属で活躍。
1966年には、ヨーロッパツアーを行っていますが、カーターが他界。



ラルフ・スタンレーは、ブルーグラス界の大物として、
2016年に亡くなるまで、活躍しました。
1976年には、テネシー州ハローゲートのリンカーン記念大学で名誉教授となっています。
ドクター・ラルフ・スタンレーという呼び名はここから。
さらに特筆すべきは、2000年の映画「オー・ブラザー!」で、ラルフ本人がカメオ出演。
アパラチアの鎮魂歌「オー、デス」が用いられて、強烈な印象を残しました。
このときの音楽プロデューサーはT・ボーン・バーネット。
また、この曲で、スタンレーは2002年のグラミー賞で
ベスト・カントリー・ボーカル・パフォーマンスを受賞。

その後も、2012年、ニック・ケイヴの映画「ロウレス」にフィーチャーされるなど、
映画界でも活躍するなど、かつてのスタンレー・ブラザースより
はるかにメディア露出の多い、伝説的ミュージシャンとなっていきました。

さてさて、あらましだけ紹介しましたが、わたくしにとってのスタンレー・ブラザースは、
10代のころのあこがれのヒーロー。
今聴いても、胸騒ぎがするというか、自然とギターを持って弾きだしてしまいます。
音楽って、ホントにいいもんですね!
では、また、テレビの前のあなたとお会いしましょう!
さいならー、さいならー、さいならー!


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