8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.231

レスリー・ゴーア ー ユー・ドント・オウン・ミー



レスリー・ゴーアは、60年代のヒット歌手ですが、最もよく知られているヒット曲は、
「イッツ・マイ・パーティ」(涙のバースデイパーティ」のタイトルで日本でもヒット)、
自身が書いた「メイビー・アイ・ノウ」、そして、最初のフェミニズムソングと言われた
「ユー・ドント・オウン・ミー」でしょう。

レスリー・ゴーアは、1946年、ブルックリンの生まれ。運命的な出会いがあったのは、
16歳のとき。人気作曲家のクインシー・ジョーンズと出会った。
パーティでばったり!とか、ゴーアが歌うステージをたまたまクインシーが見た、
とか、いや、見たのは家政婦だ、とかいろいろ言われているようですが、
実際は、ボーカルレッスンを受けていたとき、ピアノ奏者とスタジオにいってデモ曲を作って、
クインシー・ジョーンズに送ったところ、即採用となって呼ばれた、ということらしい。
なんだ、偶然とかじゃなくて、実力じゃん、ってことですよね。

しかしながら、レコーディングデビューは、ブリルビルディングのエリー・グリニッチが
書いた「イッツ・マイ・パーティ」で、プロデューサーがクインシー。これが大ヒット。
当初、レコードが発売になったことも知らずにラジオで流れてびっくりした、とか、なんだか、
当時らしい、というか、歌手も作曲家も派遣切り的なブリル・ビルディングらしい話。
ラジオのDJが住所まで言っちゃったらしく、ある朝起きたら、庭で群衆がキャンプ状態だったとか、
もう寝耳に水、ねずみにミミズ、みたいな話もあり。そんなパパラッチーパパあっちっちな毎日でも、
ちゃんと学校に通い、勉強優秀だったらしい。しっかりした人だったんでしょうねえ。
この勉強好きがのちのち彼女のイメージというか、活動姿勢を変えていきます。
まあ、とにかく、歌手としてもナンバー1とったら、もうこっちのもんだぜ、
ってことで、ゴーアの快進撃が始まりました。

TUBE:イッツ・マイ・パーティ~ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ



続いて出たのが、「イッツ・マイ・パーティ」の続編、「ジュディ・ターンズ・トゥ・クライ」で
こちらも、ナンバー5という大ヒット。その後も、学校で勉強しながら歌手活動、でも大ヒット、
でもアイドルというすごい活躍ぶり。「シーズ・ア・フール」、「ザッツ・ザ・ウエイ・ボーイズ・アー」、
「ルック・オブ・ラブ」、「サンシャイン、ロリポップス・アンド・レインボウズ」
(映画「スキー・パーティ」にフィーチャー)とバブルガム・ポップ・ヒットを立て続けに出していきました。

で、こうした既定路線のバブルガムポップとは一線を画する異色作だったのが、
64年の「ユー・ドント・オウン・ミー」で、「わたしはあんたのモノじゃないのよ、
あれこれ口出しすんな!」という、のちに言われる「フェミニズム運動」の走りとでもいう
べきもので、当時のティーンアイドルがいきなりこんなものを出したもんで、
世間はビックラ仰天ところてんだったのですが、これが大ヒット。
ビートルズの「アイ・ワナ・ホールド・ユア・ハンド」の次にヒットした曲となりました。
(皮肉なことに、この女性差別撤廃ソングを書いたのは、
ジョン・マデラとデイブ・ホワイトの男性ライターふたり。)

のちの1996年、ベット・ミドラー、ゴールディ・ホーン、ダイアン・キートンが主演する
コメディ映画「ファースト・ワイブス・クラブ」(クズ亭主に復讐する3人の妻のお話)に
フィーチャーされたりもしています。ハイ・スクール卒業したゴーアは、
女子大に進学。ここでも、芸能活動第一にならなかった。ちゃんと勉強します、
ってことで、なんというか、しっかりした人ですねえ。夏休みなどホリデーシーズンに芸能活動も
レコーディングもぜんぶこなしたそうです。
60年代後半になると、とにかく、勉強好きな彼女はますます芸能から離れていきますが、
それでも、「カリフォルニア・ナイツ」などヒット街道が続きました。大学在学中、
彼女は自分がレズビアンだと気が付いて、それが負担にならなかった
大学がとりわけ気に入っていたというのもあったらしい。しかしながら、
当時のこと。歌手としてピークが過ぎたところで、カミングアウトしていて、
それまでは周囲のファンに合わせていたのだそうです。



こうしたアイドル歌手っぽい活動のかたわら、彼女は作曲もこなすようになります。
72年には、シンガーソングライターとしてのアルバム「ラブ・ミー・バイ・ネーム」
82年には「ザ・キャンバス・キャン・ドィ・ミラクルズ」をリリース。また、映画「フェイム」の曲を
弟のマイケル・ゴーアと作ってアカデミー賞にノミネートされてもいます。

その後、82年から2005年まではアルバムもシングルもリリースなし。
このころになると、アイドルでも人気歌手でもなく、テレビの同性愛を扱った
ドキュメンタリーシリーズのホストをするなど、社会運動家としての活動が目立ってきて、
だいぶイメージが変わってきていますね。
2005年には1枚アルバムをリリースしますが、
2015年に68歳で死去。

こうしてみると、非常に人気のあったアイドルとしてのゴーアは60年代後半くらいまで。
勉強好きだったためか、知的な社会活動家として有名になっていき(ある意味地味なイメージになった)、
気が付いたら亡くなっていた、という感じでしょうか。
かつての自分のヒット曲、「ユー・ドント・オウン・ミー」の内容を地でいくかのように、
周りから求められた、作られた女性像の典型であるアイドルをやめて、
自分の心に正直に生きた人だったのだろうと思います。




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