8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.226

シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー - ジャネット・ボーゲル~不滅のハイC



不滅の名作というのは確実にあります。
本来、音楽というのは、曲ごとに判断すべきもので、アーティストでもレコードスタジオでもレーベルでもなければ、
ジャンルでもありません。それはあくまで付加価値に過ぎないからです。

1959年のジミー・ボウモント&ザ・スカイライナーズ「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」の凄みというのは、
それを最もよくわからせてくれるいい例のひとつです。
ミリオンセラーだから、というだけでなく、歴史の試練に打ち勝ってきたすごみみたいなものが、
曲そのものに宿っています。
それは、スカイライナーズの実演と切っても切れないものでもある。
まず、名作に共通していえることは、多くの人々をとらえて離さない、
音楽的に極めて優れたエレメントが必ずある点。
歌手の力がすごい、演奏のグルーブがすごい、間奏のギターリックがすごい、
出だしのドラムスがすごい、なんでもありですが、「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」の場合は、
全体の素晴らしい出来栄えだけでなく、ラストノートの舞い上がる、
ハイCが最大の聴き所なのは、誰が聴いても同感だろうと思います。
リード歌手のジミー・ボウモントの背後のソプラノが前面に躍り出て、
スカイライナー(大型旅客ジェット機)のように、天高くかけあがっていく素晴らしいエンディング。
これをうたったのは、スカイライナーズの紅一点、ジャネット・ボーゲル。
今回は、この、ほぼ忘れられている50年代の女性スターに焦点を当てます。



さて、まずは、スカイライナーズについて、以前、このコーナーでも紹介したことがあり、
また、ヴィヴィッドサウンドから出た、スカイライナーズCDのライナーにもなった
私の記事を要約して再度ご紹介します。

ジミー・ボウモント&スカイライナーズは、アメリカのポップ音楽史においても重要な意義を持つグループのひとつ。
1958年、ピッツバーグで結成されたスカイライナーズは、1945年のチャーリー・バーネットのジャズ曲、
「スカイライナー」にちなんで、名づけられました。
大ヒットになった「シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー」は、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされ続け、
スタンダードナンバーとして定着している名曲です。


この曲の歴史的真価は、なんといっても、ストリングス入りのスイートなサウンドにありました。
ロマンティックでゴージャスな、オーケストラ付きのロック、とでも言うべきサウンドの原点は、
1958年のスカイライナーズ・サウンドにあるのです。
最初に全国に紹介されたのは、ディック・クラークの人気テレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」で、
1960年には、「ディス・アイ・スウェア」を含む、アルバム「スカイライナーズ」をリリース。

しかし、その後、大手のコルピクス・レコードに移籍したりしたものの、ヒットには恵まれなくなり、
60年代前半には早くも解散。60年代後半から始まったリチャード・ネイダーの50年代ロックリバイバルの
波にのり、再結成。しかし、リバイバルブームが終わる70年代後半に入ると、
それぞれメンバーがショウ・ビジネスから引退。
さらに、シンス・アイ~の呼び物だったジャネット・ヴォーゲルが自殺。
ボウモントはメンバーを一新し、新生スカイライナーズはコンサートグループとして活躍を続けますが、
2017年にボウモントがなくなり、現在はまったく異なるメンバーとなっています。



さて、ご紹介したとおり、オリジナルメンバーがほぼ他界している古いグループになってしまいましたが、
その中で最も早くに亡くなってしまったのが、ジャネット・ボーゲル。
しかし、彼女のファルセットは、シンス・アイ・ドント・ハブ・ユーととともに、有名になり、
リードをとったスカイライナーズ曲「アイ・キャン・ドリーム、キャント・アイ」や、
作詞を手掛けた「ディス・アイ・スウェア」などのヒットソング、
また、ジャネット・ディーンという変名で出したソロアーテイストとしてのレコードなどで、
今日では伝説化していると言っていいでしょう。

ジャネット・ボーゲルは、1942年6月10日ピッツバーグ生まれ。ジミー・ボウモントと会ったのは、
高校生のときで、このときからすでにともに音楽活動を始めています。
1958年に女性ボーカリストがいたドゥーワップグループというのは極めて珍しく、
それを活かしたサウンドを目指しました。
キャリコレコードのオーディションで「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」を歌って認められ、
さっそくレコーディング。シングルのリリース前に、グループ名を「スカイライナーズ」としました。
1958年12月に発売されたこのシングルは、すぐに地元ピッツバーグのラジオでかかるなり
大評判となり、結局、翌年には全国ヒットとなりました。(ビルボードで12位)。

ジャネットは高校を中退してプロ歌手となり、ディック・クラークによって、66都市のコンサートツアーに参加。
クラークの番組、アメリカンバンドスタンドの常連となるだけでなく、アランフリードショー、アポロ劇場にも出演。
ターンテーブルマガジンはスカイライナーズに「ベストグループ賞」を与えてもいます。
続いて、ジャネットが書いた「ディス・アイ・スウェア」は、1959年に26位と健闘。
1960年にでたアルバム「ザ・スカイライナーズ」はアルバムチャートでトップ50入り。
全体として6回のチャートヒットを記録し、1,100万枚以上売り上げるという、
文字通りスーパーグループでありました。

人気グループにつきものの長いツアー生活に疲れてしまったジャネットは
1961年にスカイライナーズを去ります。そして、1963年、ジャネット・ディーンと
名を変えてシングルを1枚吹き込んだのち、ピッツバーグの警官と結婚し、引退。
一方のスカイライナーズはマージービート旋風に勝てず、64年に解散。
5年後、1968年、リチャード・ネーダーがスカイライナーズをマディソンスクエアガーデンでの
リバイバルショーに呼び込みます。ジャネットも再びスカイライナーズに参加。
その後、1977年にスカイライナーズとして2枚のシングルにも参加。

ちょうどこのころ、カムバックの影に隠れていましたが、結婚生活がうまくいかず、うつ病に苦しんでいた。
とうとう、1980年に自殺。享年37歳。
悲劇的な結末となってしまいましたが、息子によってその生涯が映画化されているようです。

早くに亡くなってしまったこと、スカイライナーズの一員であって、ソロ歌手ではなかったことなどから
今日では無名といっていい人ですが、たとえ、その名声が仮に「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー」1曲、
しかも、ラストノートだけであったとしても、歴史に名を遺した偉大な歌手だったと言っていいと思います。
音楽は、曲そのもの。そして、曲を素晴らしいものにするのが、歌手の使命だからです。
ものの見事に20世紀最大の名作のひとつを不滅のものとした功績は決して忘れてはなりません。




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