8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.223 |
ラ・メール~ビヨンド・ザ・シーの軌跡 シャルル・トレネとボビー・ダーリン 1959年の大ヒット「ビヨンド・ザ・シー」。 ビルボードで6位、R&Bチャートでも15位、イギリスでも8位。 歌ったのは、ボビー・ダーリンで、のちに彼の波乱万丈の人生を描いた伝記映画のタイトルにもなりました。 その前にも、2つのインストゥルメンタルによるレコーディングがトップ40に入っています。 ベニー・グッドマンのバージョン(1948年)とロジャー・ウィリアムズ(1955年)です。 さて、この曲、はじめて英語の歌詞がついた歌ものとして出たのはダーリン版で、 その前はインストでしたが、そもそもは歌ものでした。 ただし、フランス語で、歌詞の内容も全く異なる、海を題材にした風景画のようなものでした。 ダーリン版はそれに「ビヨンド(超えて)」をつけて、海を越えていく恋心といった内容のラブソングにして ヒットしたわけです。なお、アメリカ人による歌ものの元祖はビング・クロスビーで、1953年のアルバム 「ル・ビング」に収録されました。こちらは、フランス語のオリジナル歌詞版ですね。 Bing Crosy (1953) La Mer もともとのタイトルは、ラ・メール。 フランスのシャルル・トレネが作詞作曲、1945年にローラン・ジェルボーが初めて歌い、 翌年の1946年にトレネが歌って非常に有名になったとされます。 トレネは16歳のときにこの曲の元となる詩を書いたそうです。1943年、トレネがモンペリエと ペルピニャンの間を鉄道に乗って旅をしていとき、南仏のトー湖の眺めが目に入り、 かつて書いた詩のメロディを思い出したトレネは急いで曲をまとめたという逸話があるらしい。 フランスでは非常に有名な古典曲となり、以後、世界中の非常に多くのミュージシャンによって カバーされ続けており、エディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と並んでフランスで最も売れた曲となっています。 Charles Trenet - La mer [Live Version] そのほか、ジョージ・ベンソンがダーリン版をカバーしてヒット。(1985年) その後も「ビヨンド・ザ・シー」のカバーは、ロビー・ウィリアムズ(2001年)(アニメ映画『ファインディング・ニモ』 のエンドクレジットで使用)、バリー・マニロウ(2006年)、ロッド・スチュワート(2010年)などなど、以後も現 在までたくさんのカバーが存在します。 ちょっと変わった特筆すべきものでは、オリジナルのフランス版ラ・メールのフランスジャズ版であるステファン・グラッペ リ&ジャンゴ・ラインハルトによる見事なインストもあります。ジャンゴのギターが突飛といっていいくらいの奇抜さですが、 わたしは名演だと思います。 La Mer - Django Reinhardt そして、最も有名な、ヒットバージョンとなったのがボビー・ダーリン版。 Bobby Darin "Beyond the Sea" それにしても、ダーリンの紹介は難しい。 ポップ音楽史において、かいつまんで説明するのが極めて難しい人物というのがいますね。 あまりに多岐にわたる活動、奇妙な生い立ち、悲劇的な人生、そして、早すぎる痛ましい死。 あまりにドラマティックすぎて、伝記映画ですらかいつまんで簡単に描いたに過ぎないという人物像。 エルビスもそうですが、ボビー・ダーリンはその代表のひとりでしょう。 詳しいことは、WIKIにどっさり書いてあります。もちろん、わたしが書いたわけではありませんが、 英語の文献をベースに翻訳が得意な方が要旨を抜粋したのかも知れません。 WIKIでも長いので、さらに簡単に要約します。 ボビー・ダーリンは、1936年生まれ、1973年死去。わずか37歳でした。 歌手、作曲家、俳優。ジャズやポップ、ロックンロール、フォーク、スウィング、カントリーミュージック等 様々なジャンルを手掛けた、とされていますが、それでもかなりの限定された事柄にすぎません。 ダーリンの音楽は、アメリカ音楽そのものをそっくりなぞっています。ジャンルという考え方がそもそも ナンセンスに思える活躍ぶりというのが正確ではないかと思います。 キャリアのスタートは、ニューヨークにあったアルドン・ミュージック(いわゆるブリル・ビルディング・ポップ) の作曲家としてで、コニー・フランシスのレパートリーを作っていた。 1958年の「スプリッシュ・スプラッシュ」が彼の初めてのミリオンセラーで、その後の「ドリーム・ラヴァー」、 「マック・ザ・ナイフ」、「ビヨンド・ザ・シー」といった曲により、ダーリンは世界的に有名になった後、 舞台、映画で俳優として一流になりました。その辺は、アイドル路線でもなんでもなく、 完全に一流の性格俳優です。ゴールデン・グローブをとっている。 1960年代、ダーリンは政治に対してより活動的になり、ロバート・ケネディの大統領選挙戦にも 関わったとされています。また、その複雑な出生にまつわる話は、小説さながらでした。 母親だと思っていたのは祖母、姉だと思っていた女性が実際には母親だということを かなり後になって知り、そこからダーリンは長い引きこもり生活に入ってしまい、 プロの現場から遠ざかります。 彼はテレビでカムバックを果たしましたが、子どもの頃に患ったリウマチ熱の影響で健康状態が悪化。 子供のころから長くは生きられないと分かっていたダーリンは、 音楽を励みに生き続けてきましたが、37歳で死去。 さて、かいつまんだ説明ですが、なにかわかったようでわからない。そのあたりは、 伝記映画「ビヨンド・ザ・シー」(今は引退に追い込まれた俳優ケヴィン・スペイシーが 見事にダーリンを演じきっています。)をみれば、まるで作り話のような数奇な 人生を垣間見ることができるでしょう。 音楽に関してとりわけ面白いエピソードはやはりブリル・ビルディングのソングライターとしてのデビュー。 この人、1955年にニューヨーク州ワシントンハイツの菓子屋で、のちにアルドン・ミュージックを 起こすことになるドン・カーシュナーとコンビを組んでいるので、ほぼ創業者みたいな立場なんですね。 まあ、自身のレコ^ディングはさっぱり売れなかったのですが、 1958年の「スプリッシュ・スプラッシュ」ではじめてヒット。お風呂でチャプチャプなんてふざけた歌だ と思ったそうですが、これが当たった。ティーンポップ、ロックンロールですからね。 翌年、ダーリンは自作したバラード曲「ドリーム・ラバー」をリリースし、 これがミリオンセラーとなります。 次のシングル「マック・ザ・ナイフ」はクルト・ヴァイルの『三文オペラ』で使われた曲で、 まるでフランク・シナトラの後継者のような出来栄えで9週連続で全米チャート1位を獲得。 200万枚を売り上げ、1960年のグラミー賞を受賞。 それに続いたのが「ビヨンド・ザ・シー」で、これは、アトランティック・レコードのプロデュース。 60年代に入ると、ダーリンはカントリー・ミュージックを作曲し始め、 君のための僕、別れのイエロー・ローズなどがヒット。 俳優としても一流になりました。1962年、『9月になれば』でゴールデングローブ賞の新人男優賞を受賞。 翌年には『突撃隊』で主演男優賞 (ドラマ部門)にノミネート。1963年には、『ニューマンという男』で 演じたPTSDの兵士役でアカデミー助演男優賞にノミネート。カンヌ国際映画祭でも フランス映画批評家協会の最優秀男優賞に選ばれました。 その後、プロテストソングを作ったり、テレビ番組のホストを務めたり、亡くなるまでスーパースターでしたが、 残念ながら、子供のころに患ったリウマチ熱による心臓病から37歳で力尽きました。 病弱な少年が音楽の力で勇気づけられ、エンターテイナーにとどまらない世界的スターになっていく物語は、 伝記映画となりました。タイトルは「ビヨンド・ザ・シー」。彼の人生は、この歌のようにドラマチックでありました。 |