8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.22 |
アワッババルーバッバロッバンブーン! −リトル・リチャード 「あわっばばるーわっばわっパット・ブーン!」 違う!!間違った! 「あわっばばるーばっばろっばんぶーんっ!」 こんにちは。頑固8鉄です。 1955年、ジョージア州メイコンで、父を殺され、家族を養うためにひたすら皿洗いしていた貧しいクリスチャンの黒人青年が、ニューオルリンズのバーにあるピアノの前で即興で歌った、「ワッババルーバッバロッバンブーン!」。 この意味不明のシャウトで始まる「トゥティ・フルティ」が、以後の世界の音楽史を塗り替えました。 75歳の現在も現役でシャウトする「キング・オブ・ロックンロール」、リチャード・ペニマン牧師。 ステージネームは「リトル・リチャード」です。 1955年、リトル・リチャードがスペシャルティ・レコードの45回転盤「トゥティ・フルティ」の冒頭でこれを叫び、がんがんはずむピアノと狂ったような金切り声のヴォーカルになだれ込んでいったとき、リズム&ブルーズとポップ音楽の間の壁に修復不可能な大穴があき、それがロックンロールという一大潮流となって後続の音楽シーンを塗り替えていきました。 1932年、ジョージア州メイコン生まれのリチャード・ウエイン・ペニマンは、12人兄弟のひとりで、父は煉瓦職人であり、ブートレガー(密造酒業者)、おまけにジューク・ジョイントを経営する商売人でもありました。しかし、それにも関わらず、一家は大変熱心なクリスチャンで、祖父と叔父は説教師という家庭。ペニマン兄弟は、ゴスペル・グループを結成しており、以後、彼の人生は常に教会と切り離せないものになるのです。 リチャードは、メイコン市の公会堂でアルバイトを見つけ、そこに公演にやってくる、リズム&ブルーズとゴスペルの有名アーティストをたくさん観るチャンスを得ました。 そこで観た、シスター・ロゼッタ・サープ、ルース・ブラウン、マヘリア・ジャクスンといった女性シンガーに多大な影響を受けます。また、ピアニストのエスケリータから、ホーンセクションを向こうに廻してもガンガン鳴り響くピアノスタイルを教えてもらいます。 しかし、彼は自由奔放な子供で、いつも同じ日常生活に嫌気がさしていたうえ、同性愛者だったので、父とうまくいかず、14歳で、メディシンショウの一座に養子に出されます。そして、15歳でミンストレルショウの初舞台を踏んだとき以来、リチャード・ペニマンは、リトル・リチャードになったのです。 リトル・リチャードは、全国的に有名なリズム&ブルーズの拠点であるアトランタに行き、そこでブルーズ・シャウターのビリー・ライトに出会います。 「うわーおっ!・・・な、なに?その髪型は・・・。なんで、ギタギタの化粧してんの?オォォ、マイ・ガーッ!」と言ったか言わないか知りませんが、有名な、ライトの小山のごとく盛り上がったポマードコテコテのリーゼントと、ステージでの厚化粧にびっくりしたリチャードくん。 「これだっ!オレもこうなりたいんだ!」と気づき、外見だけでなく、ゴスペル流の泣き叫ぶようなブルーズ唄法もライトの真似をして自分のものにしていったのです。そんなけなげな若者のリチャードを、かわいく思ったのか、ライト本人が気にいって、なにくれと面倒を見てくれるようになります。そして、ライトの紹介で、RCAレコードにおいて、18歳で初レコーディングに臨むことになりました。最初に発売されたのは、「エヴリ・アワー」続いて、元気いっぱいシャウトする「ゲット・リッチ・クイック」が出たのですが、さっぱり当たらず、鳴かず飛ばず。 「オレ、せっかくチャンスをものにしたのに・・ライト先生にあんなによくしてもらったのに・・オォォォ!マイ、ソウル!!!」と叫んだかどうかは神様とリチャード本人しかわかりませんが、すっかり落胆していたリチャードに、ますます悪い突然の訃報が届きます。実の父が何者かに殺されてしまったのです。 リチャードは、メイコンに飛んで帰り、家族を支える手助けをするために、グレイハウンドバスステイションのレストランで皿洗いの仕事を見つけ、働きづめの毎日を送ります。変わり者と評判でも、明るく優しいリチャードくん、苦労をしながらも、大好きな音楽をやめてしまったりはしなかった。故郷のメイコンで、新しい自分のバンドを作り、ライブ活動を始めたのです。 まず、ヒューストンにあるピーコック・レコードに行き、テンポ・トッパーズやジョニー・オーティスのバンドとともに「リトル・リチャード・ブギ」など、活気溢れるリズム&ブルーズ曲を吹き込みもするのですが、これも当たらず。 そこで、デモテープを作って、ロス・アンジェルスにあったスペシャルティ・レコードに送ったところ、スペシャルティの重役、バンプス・ブラックウェルが、「対抗会社アトランティックの擁するニュー・スター、レイ・チャールズに匹敵できるかもしれない」と判断、リチャードは、スペシャルティの御用達、ニューオルリンズのコジモ・マタッサスタジオに行き、とうとう歴史的レコーディングに突入するのです。 しかし、実際にリチャードとご対面したブラックウェルは、リチャードの、15センチも盛り上がったリーゼント、アイライナー、ド派手なギンギラ服などのとんでもない外見と、低いキイで唄う、ドスの効いた声が合わないと判断、「なんかヘンだ・・なんか違う・・こいつ、見かけほどじゃないかも・・ダメかも・・」とあきらめかけていたのです。 そこで、リチャードをランチタイムに連れ出し、レストランバーに行った際、「おまえよう、なんでもいいから自分の作った歌、思いっきりやってみ!」とピアノの前に連れて行きました。 やけくそになったか、ここで一発決めなきゃ!と思ったか、リチャードが、突然叫んだのです! 「あわっばばるばーっばろっばんぶーーーーーんんっ!!」 こうして、ゴスペルでつちかった素晴らしい歌唱力を活かしたハイトーンの金切り声で叫びまくる、「トゥティ・フルティ」は、初めて小さなレストランのランチタイムに躍り出ました。これを聴いたブラックウェル、「おおおっ!!こ、これだ!これじゃん・・・これすげーじゃん・・・なんかもう、これは・・・この世のものと思えないぜ・・」と絶句、スタジオに戻ると、そのままさっきのを繰り返せと指示、遂に、ロックンロール創世記に世間を唖然とさせ、ティーンネイジャーを熱狂のるつぼに落とした「トゥティ・フルティ」がレコーディングされるのです。 明けて1956年、アナーキーなパワーとクレイジーな冗談が混ざり合った「トゥティ・フルティ」は、ガンガン響くブギウギ・ピアノ、ファンキーなサックスを伴って、リズム&ブルーズチャートの2位、ポップチャートの17位になりますが、これは当時は驚くべき出来事でした。 すかさず、黒人音楽を利用してもうけようとする白人の商売人、パット・ブーンもカヴァーを出したりしますが、ホンモノとは比べものにならないふぬけた出来映えにもかかわらず、売れたりもしている。この当たりは、いかにも創世記の出来事らしいところです。 続いて、リチャードは、「ロング・トール・サリー」、「トゥルー・ファイン・ママ」、「スリッピン&スライディン」、「レディ・テディ」、「リップ・イット・アップ」、「ルシール」、「キープ・ア・ノッキン」と、立て続けに、クロスオーヴァーヒットを連発します。 そのどれもが、ニューオルリンズの名セッションマンたちによる見事なバンド(ドラムズのアール・パーマー、ベースのフランク・フィールズ、サックスのレッド・タイラーとリー・アレン、ギターのアーネスト・マクリーン、補助ピアノのヒューイ・ピアノ・スミスという超豪華メンバー)に支えられており、ヒットまちがいなしでありました。 さらに、本人だけでなく、サックスを中心に、バンド全体が暴れ回るワイルドなライブアクト、映画出演(「ドント・ノック・ザ・ロック」、「ミスター・ロックンロール」、「女はそれを我慢できない」)での評判もあり、リチャードは、押しも押されぬ「最もワイルドなロックのパイオニア」としての地位を手にいれるのでした。 ところが、人気絶頂だった1957年、リチャードは突然、引退を表明します。彼の奇人っぽい私生活からくるトラブルや、著作権を巡るトラブルに嫌気がさし、ショウビジネスを辞めたリチャードは、大学に行って神学を修めます。そして、リチャード・ペニマン牧師となって教会に入るのです。そして、以後、62年まで教会から離れず、ゴスペルしか録音しませんでした。 しかし、1962年、リチャードをアイドルとしていた、イギリスの駆け出しグループ、ザ・ビートルズとヨーロッパツアーを行ったのをきっかけに、再びロック界に復帰します。さらに、同年には、まだ全く無名のバンドだったローリング・ストーンズともツアーを行いましたが、このときのリチャードのバックバンドには、無名時代のジミ・ヘンドリックスがいました。 この時代は、ビートルズ、ローリング・スートンズだけでなく、リトル・リチャードがアイドルだった若手のアーティスト、ジェームズ・ブラウン、オーティス・レディング、スモーキー・ロビンソン、ジョン・フォガティ、ボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックスといった連中がどんどん有名になってきており、いかにリチャードが大きな影響力を持ったかが明らかになってきたのです。 同時代にデビューした、もうひとりのロックンロール・キング、エルヴィス・プレスリーも、リチャードに会って「あなたの音楽にはとても影響を受けた。あなたがグレイテストだ。」と言いました。 そして、1964年には、「バーマ・ラーマ・バーマ・ルー」を吹き込み、引退以来、初めてのヒットとなります。 1960年代末から1970年代半ばにかけて、リチャードは「グッド・オールド・ハードロックリバイバル」(1950年代ロックのリバイバル)流行にのって、ライブパフォーマー、レコーディングアーティストとして再び第一線で活躍しますが、決してノスタルジックになることもなく、かといって、時流にやたらと合わせるということもなく、リトル・リチャードはそのままで、いつの時代でも十分人々を熱狂させられるアーティストであることを証明してみせたのです。 しかし、1977年、身内の死を契機に再び突然引退、教会に戻り、80年代半ばまで、牧師として教会から離れることはありませんでした。 そして、1986年、最初にロックの殿堂入りした7人のひとりに選ばれた後、リチャードは、ロックンロールと信心とを両立させることに成功します。 ハリウッドのコメディ映画(ダウン・アンド・アウト・イン・ビバリーヒルズ)(「ビバリーヒルズ・バム」)に俳優として出演することになったリチャードを手助けしたのは、友人のビリー・プレストン。彼との共作で作った「グレート・ゴッシュ・ア・マイティ」は、スピリチュアルな歌詞とリチャード流ロックサウンドを融合させたもので、これが大ヒットを記録したのです。 1993年にはグラミーのライフタイムアウォードを受賞。 以後、90年代から75歳になる現在に至るまで、リチャードは、歌手、俳優として改めて有名となり、さらに、テレビコマーシャルで笑いはとるわ、バラエティショーでオカマキャラ全開のギャグまで飛ばしまくるわ、セサミ・ストリートに出演して子供たちの人気者になるわ、ジョン・グッドマンと共演するわ、お茶の間の人気キャラとしても大活躍、新たな名声の中にいるのです。 そして、歴史的な評価としては、決定的とも言える、2006年のローリングストーンマガジンによる「世界で最も偉大なロックアーティスト100」の第8位に選ばれました。しかも、第7位より上のアーティストすべてが、リチャードをアイドルにしていたと公言している連中です。 困難な家庭環境、生い立ちにめげず、 持ち前の奔放な明るさと敬虔な信心によって、生きた伝説、ロックンロールの王様として、今でも世界中から支持され、愛される存在のリトル・リチャードは、宗教者としての「リチャード・ペニマン牧師」と、ロック・アーティスト及びテレビタレントとしての「リトル・リチャード」を同時にこなしながら、今日もどこかで叫んでいるのです。 さて、リチャードが50年代に愛用していたのは、グレーなどの玉虫ズート・スーツ。「女はそれを我慢できない」などの映画で、そのファッションを観ることが出来ます。 今回、THE KINGからリリースとなる「玉虫シャツ」は、リチャードに贈呈したいくらいの一品。きっと大喜びで着てくれるのではないでしょうか! 常連様も、ご新規様も、ちょっとゴブサタされている方も、50年代のキング・オブ・ロックンロール、リトル・リチャードを彷彿とさせる50’S パンツ&玉虫シャツで、エルヴィスもカヴァーした「トゥティ・フルティ」をシャウトしてみては?さあ、もう一度、ご一緒に!! 「アワッババルーバッバロッバッブーン!」 |
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