8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.211 |
終わらない夏のラジオショー ~ ウルフマン・ジャック wooo!!yeah !! hai babe !! how old are you ? I'm 3hudred years old wolfman! here we gooo Frankie Lymon !! まずは、こちらをお聴きください。 まあ、こちらの読者のみなさんは、さわりだけでもう、血沸き肉踊り、 アメグラのラストシーンを思い出して、感涙にむせぶこと間違いなし! でしょ?たぶん、誰も異論ないよね?わたしもそうだもん。 もう、少し、広げると、日本の誇るバカバカしくも最高にクールだった ラジオ番組「スネークマンショー」を思い出す人も。 ですよね? というわけで、今回は大幅に数十年くらい遅ればせながら、 ロックンロールのオオカミ男、ウルフマンジャックのお話。 たぶんわたしより、みなさんのほうが詳しいだろうから、そんなに書けないんですが、 それにしても、久々に聴いてみてます が、とにかく、この人が絡むと聞き飽きたような名曲も再び輝きだす、そんなすごいしゃべりですね。 日本でこの人の真似をして有名になったのが、小林克也というDJで、スネークマンショー (小林ウルフマン)はここから生まれたんですよね。もちろん、中心が桑原茂一(プロデューサー)と小林克也、 そして、声優俳優歌手もこなす名優、伊武雅刀。 サザンオールスターズの桑田圭祐もウルフマン役、演じてましたね。 よく知られているようにウルフマンのしゃべり、というか、あの声色はチェスのブルースマン、 ハウリン・ウルフのものまねからきてます。ウルフマン本人の地声はあんな声じゃないんですよ。 ところで、わたくし、映画アメグラでウルフマンが日本でも有名になる前から、 実はラジオで聴いておりました。たぶん、小学生くらいからだと思います。進駐軍放送、 すなわちFENが子供のころ御気に入りだったのですよ。おふくろの話では、真空管 ラジオを4歳くらいからいじりまわしていたらしい。だから、ウルフマン覚えてます。 当時は、60年代音楽を流してました。 当たり前だけど。さて、そんなウルフマン、どんな人だったのか。 わたしは50年代から活躍していた人なイメージを持ってましたが、活躍は60年代に入ってからなんですね。 ウルフマンジャックこと、ロバート・ウェストン・スミスは1938年1月21日ブルックリン生まれ。 お父さんのアンソン・ウェストン・スミスは、米国聖公会の日曜学校の教師、作家、編集者、 ファイナンシャル・ワールドの副社長というニューヨークの有名人でしたが、 彼の両親は彼が子供の頃離婚。以後、百科事典のセールスマンをしながら、 1960年にワシントンDCの国立放送アカデミーを卒業。 R&B音楽の熱心なファンで、ダグラス”ジョコ””ヘンダーソン、ドクタージャイブことトミー・スモールズ、 ムーンドッグとして知られたアラン・フリードなどのディスクジョッキーたちに大きな影響を受けたスミスは、 バージニア州ニューポートニューズのWYOUで働き始め1962年にはルイジアナ州シュリーブポートの カントリーミュージックステーションKCIJ / 1050に、ステーションマネージャー兼 モーニングディスクジョッキーの職を得ます。 自分をウルフマンジャックと名付けて、伝説のディスクジョッキー、ウルフマンジャックが登場することとなりました。 もともと、この人、ホラー映画のマニアで、狼男が大好きでもあったようです。 1963年、ウルフマンはアメリカとメキシコの国境地帯のメキシコ側シウダーアクーニャの XERF-AMで、超強力な違法電波の海賊放送を始めます。これがハンパないスーパーパワーで 全米に届いた。全米どころかソビエト連邦まで届いたらしい。 ウルフマンは、ホントにアウトローだったのですよ。 本人役でウルフマンが出演している映画、アメリカン・グラフィティでもそういうセリフがあるけど、 あれはホントです。 このスポンサーは、なんと、ペンテコステ派の説教者や超能力者。彼らに時間を貸し、 通信販売で売られたものから利益の50パーセントを奪うという商売。ドッグフード、減量薬、 体重増加薬、ひよこまで、あらゆるものを売った。性欲を高める とされていたフロレックスと呼ばれるドラッグまで。ホンモノのアナーキーなアウトローだったんですね。 「これから裸になるぞ!」、「俺のノブをいじってくれ!」と、素晴らしくドエロなしゃべくりで吠えまくりながら、当時 最高のロックンロールを流しまくった。なんか、まるで映画そこのけの、胸がすくようなぶっ飛び具合です。 さらに、次のXERBは、5万ワットパワーで、今日も放送を続けています。ここは、 カリフォルニア州チュラビスタのサードアベニューにある小さなストリップモールの 後ろにもオフィスを構えていて、映画「アメリカン・グラフィティ」に描かれ ている小さな放送スタジオと同じでした。 ティファナからわずか10分の、サンディエゴの国境検問所の近くだったようです。 その後、ミネソタ州ミネアポリスのKUXLを運営。 同時にテープ録音をしてXERFででウルフマンジャックとして放送していました。 このあたりもアメリカングラフィティと同じ。 1971年、メキシコ政府がペンテコステ派の説教者をラジオから禁止し、XERBの収入がなくなってしまい、 ウルフマンはロサンゼルスのステーションKDAY1580に移動。 古いXERBテープを編集して世界中のラジオ局に販売することにしたんですね。 このテープ録音が軍のラジオFENに流され我が国に届いた。 これは、1970年から1986年まで続きました。 この時期、ウルフマンジャックは53カ国の2,000以上のラジオ局でオンエア。 これらウルフマンジャックの古い番組の録音は、彼の死後10年後にシンジケーションに再導入され、 現在2020年の時点でエンビジョンネットワークを通じて利用できる ようになっているそうです。 ウルフマンは、1973年に、彼はジョージルーカスの2番目の長編映画アメリカングラフィティに 彼自身として登場しました。 ところが、予想に反して、この低予算映画が大ヒット。さらにどこまでも売れ続けるカルト映画 となって、ウルフマンは生涯の定期的な収入を得たようです。 その後、これをきっかけとして様々なテレビショーや映画にも出演。 改めて有名になっていったのですね。 1995年7月1日、ウルフマンはノースカロライナ州ベルヴィディアにある自宅で、 心臓発作で亡くなりましたが、その存在は、 今でもまるでホラー映画の主人公みたいに今でも生き続けています。 アメグラのラストシーンで流れた、ビーチボーイズの 「オールサマー・ロング」。ウルフマンのDJを聴くたびに、映画で描かれたような、 国や民族を選ばない、地球上誰にもある10代の夏の日を思い出す人は多いようです。 永遠に終わらない夏の夜を思い出したければ、ウルフマンを聴け、ということですね。 |