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8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.203 |
ブルーグラス・クルーナー ~ レスター・フラット みなさん、こんばんはむさんど!頑固8鉄です。 なにかですね、わたくしもすっかりジジイなんでしょうか、家の籠っているからでしょうか、 どんどん昔の思い出にひたるようになりました。 もちろん嘘です。まあ、なんつか、結局、昔なじんだものが一番いい、というか、 そういう感覚ではありますね。 で、私が若いころ、なにをしていたかといえば、音楽演奏についていえば、 ブルーグラスなんですよ。関東で有数の名門バンドにいました。 18歳のころですね。担当はギターとリードボーカル。今も同じようなことをしてますから、もう42年になる。 あああ、頭もはげるわけだあねえええ、とか言ってもしかたない。 当時、なんといってもダントツで夢中だったのが、 今回ご紹介する、レスター・レイモンド・フラットです。 ![]() 手堅いリズムギターとともに、肩の力が抜けきった、 スムースで深いテナー・バリトンの、おじいさんの語りみたいな歌で 有名なレスター・フラット。 もともとは、ブルーグラスの父、ビル・モンロウのブルーグラスボーイズの歌手、 ギタリストとして頭角を現しましたが、バンジョーのアール・スクラッグスと フォギー・マウンテン・ボーイズを結成して、モンロウをはるかにしのぐ人気 (唯一、ヒットがある、一般に知られたブルーグラスバンドと言われる)を得て、 今でも世界中の人の記憶に快く残っている人です。 マーキュリーとコロンビアに残したたくさんのレコード、WSMラジオ、グランドオールオープリー、 絶え間ないツアー、マーサホワイト(小麦粉)のコマソン、テレビ「じゃじゃ馬億万長者」の主題歌、 そして、映画「俺たちに明日はない」のテーマ曲「フォギーマウンテン・ブレイクダウン」 といったお茶の間隅々にまでよく知られた曲や出演を経て、自身のバンド、 ナッシュビルグラスで、RCAレコードに素晴らしい歌声を残しました。1979年、64歳で死去。 「じゃじゃ馬億万長者」(バラッド・オブ・ジェド・クランペット) フラットは、1914年テネシー州中央のスパルタ近くで生まれ、楽器を演奏する農家で育ちました。 最初はバンジョーを弾いていたそうですが、7歳のとき、ギターに転じます。 レスターのギター奏法は、親指にサムピック、人差し指にフィンガーピックを付けて弾くツーフィンガー奏法で、 1930年代から1940年代にはカントリー音楽のギター奏者ではかなり一般的だった奏法です。 (もともとは、カーター・ファミリーのメイベル・カーター(マザー・メイベル)が有名にした奏法)。 12歳で学校を卒業し、17歳で歌手のグラディス・ステーシーと結婚。 関節リウマチになってしまってから10年間、木工製品工場で働きながら音楽を続けました。 最初はクライド・ムーディー、次にチャーリー・モンローのバンドでテナーボーカリストとなった後、 1945年にチャーリーの弟ビル・モンロウのバンドに加わったときに リードシンガーとして有名になります。 ![]() まあ、シカゴのコロンビアレコードまでレコーディングに行ったり、 グランド・オール・オープリーに出演したり、ずいぶん大活躍ですが、もうこの時には、 バリバリのプロとして熟練の域。 おまけに、当時の流行であるクルーナー系のボーカリストだった。もともとのビル・モンロウ といった南部マウンテン音楽、カントリー音楽の人とは違うモダンさ、 都会っぽさをもとから持っている人だったのですね。当時のクルーナーといえば、 フランク・シナトラ。カントリーでいえば、ウエスタンスイングのボブ・ウイルス&テキサス・プレイボーイズに いたトミー・ダンカン。40年代の最初のナショナル・カントリー・ヒット「ピストル・パッキン・ママ」は シナトラと双璧だったビング・クロスビーがヒットさせたし、時流に乗ることができた。 ![]() その後、バンジョー奏者のストリングビーンがブルーグラスボーイズを抜け、 後釜として、まったく独創的な奏法(現在では、スタンダードになっているスクラグス奏法)で 世間をびっくりさせたアール・スクラグスが入ってきた。レスターは、 「いくら金がかかってもいいから雇うべきだ」とモンロウに進言したそうです。 そうやって、当初のブルーグラス音楽とは一線を画する革命的バンジョー奏者と、 叫ぶように歌うマウンテン音楽とはぜんぜん毛色の異なる、 都会的なクルーナーが出会ったわけですね。 意気投合したふたりは、ブルーグラスボーイズを脱退し、1948年、 フォギー・マウンテン・ボーイズを結成しました。 まあ、このあたり、競合されちゃ困ると、モンロウは阻止しようとしたそうですが、 失敗。フラットとモンロウは犬猿の仲となり、 1973年まで一言も口をきかなかったそうな。 フォギー・マウンテン・ブレークダウン その後、1953年、バンドは小さなラジオ局WSMの15分ほどのコーナー 「マーサ・ホワイト・ビスケット・タイム」で定期的に演奏をはじめます。 これは、スポンサーだったマーサ・ホワイトの名を冠した番組で、 のちにテレビショーになりました。 このスポンサーの営業仕事で各地のマーケットを巡業して歩いた。 非常に広範囲をバスツアーした。結局、マーサ・ホワ イトのテーマソングは、彼らの定番としてすっかり有名になります。 マーサ・ホワイトのテーマ 先にのべたように、その後は順風満帆で、テレビ番組「じゃじゃ馬億万長者」 (我が国でも放送されていたので、ごらんになっていた方もおられるでしょう)の 主題歌が大ヒット。さらに、映画「俺たちに明日はない」のテーマソングとして、 もともとスクラッグスの定番曲だった「フォギー・マウンテン・ブレークダウン」が大ヒット。 しかし、残念なことに、20年の成功の後、ふたりは袂を分かちます。 スクラッグスは冒険の好きな人で、常に楽器とアンサンブルの可能性を追求し続けました。 その方向性とレスターの、ノスタルジックな定型が素晴らしいという考えが 合わなかったということらしい。スクラッグスは、スクラッグス・レビューで ロックまで取り込んでいきますが、フラットは旧フォギー・マウンテン・ボーイズの メンバーたちとナッシュビル・グラスを結成。 その後も大変な人気は衰えず。ブルーグラス音楽の特性上、 チャートとは無縁となりましたが、それでもオープリーの常連で大物でした。 しかし、もとはいえば、1967年に心臓発作を起こし、手術したのをきっかけに、 だんだんと衰えてが目立つようになっていった。 残念ながら、1979年に心臓病で亡くなりました。ナッシュビルグラスは、40年代からの盟友、 マンドリンとテナーボーカルで生涯タッグを組んだカーリー・セクラーが引き取りました。 ![]() |