8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.196

シルバー・ヨーデリング・ビル ~ 40年代のビル・ヘイリー



55年にロック・アラウンド・ザ・クロックを大ヒットさせ、最初のロックンロール大スターになったと言われる
ビル・ヘイリー。もともとは、ウエスタン・スイングのミュージシャンでしたが、
どんな活動をしていたのでしょうか。
アメリカのカントリー音楽史の一端を垣間見ることもできるし、ロックンロール、ロカビリーがどのようにして
できていったかについても重要な手掛かりを与えてくれます。
それでは概略を振り返ってみましょう。

1945年以前
少年時代、ビル・ヘイリーは映画を見て、ジーン・オートリーにあこがれて、
シンギングカウボーイになりたいと思っていました。
1943年、ペンシルベニアのマーケットでアルバイトしながら趣味でギターの弾き語りをしていたところ、
館内放送で流してもらうことに。誰もが、ラジオでジーン・オートリーが流れていると勘違いしたところから
プロとしてのキャリアをスタートさせています。

その年、最初の自身のバンド、ザ・テキサス・レンジ・ライダースを結成。
もちろん、テキサスとはなんの関係もない北部人ではありますが、テキサス音楽があこがれだったのでしょう。
アメリカは広く、州が違えばまるで異国のような国ですから、
このあたりは外国にあこがれて音楽をはじめた人に近いのかもしれません。
そのすぐあと、プロのバンド(カズン・リーのバンド)に加入。

1945年にはビルボード誌で、はじめて全国的に紹介されます。(ヨーデリング・ビル・ヘイリー)
少し前に知り合っていたカウボーイレコードのオーナー、ジャック・ハワードがヘイリーの音楽を
広めるのに一役買うことになります。この人、アブナイ橋を渡るのが得意で、ジュークボックスを
牛耳るマフィアとつながっており、そのおかげでビルも安定的にレコードをリリースし、
知名度を上げることができたようです。ビルはハワードの10パーセントの取り分を受け取っており、
それもプロとしてのキャリアを作るのに大きく役立ったはず。この時代のミュージシャンにとって、
暗黒街とのつながりは勝ち組の必須だったのかも。
もう、この時点でヘイリーは地元の有名人くらいにはなっていたわけです。



1946年~1947年
1946年、ヘイリーはインディアナのラジオステーションWOWOのバンド、ダウンホーマーズに加入。
このバンド、世界最高のヨーデラーという宣伝文句のケニー・ロバーツがいたのですが、
兵役について一時脱退したため、ヘイリーがその代打になります。

ダウンホーマーズがフィーチャアしていた曲目は当時の人気カウボーイソングバンド、
サンズ・オブ・パイオニアズのもので、ヘイリーの経歴は、ジーン・オートリー、
サンズ・オブ・パイオニアズといった、40年代のカントリー音楽では主流だった
シンギング・カウボーイの系統だったことがよくわかります。しかしながら、ケニーが復帰すると
ヘイリーは解雇され、また食うや食わずの生活に戻ってしまいます。

1947年~1949年
1947年、ヘイリーは地元のラジオ局WPWAと契約し、フォア・エイシズ・オブ・ウエスタン・スイングを
結成します。メンバーは、ビルのほか、スリム・アリソン(ギター)、バーニー・バーナード(ベース)、
アル・コンスタンチン(アコーディオン)。47年の夏にはジャック・ハワードのカウボーイレーベルから
「トゥーメニーパーティズ。トゥーメニー・パルズ」、「クローバー・リーフ・ブルース」を出しますが、
ビルボード誌ではさんざんの評価を受けています。
さらに、ハワードがマフィアに借りたローンのために、レコードはヘイリーの自費出版。
おまけに、売り上げはすべて借金の返済に充てられたため、この時期も貧乏生活。
ずっと泊まり込みでラジオ局の仕事をがんばったけれども、家族とも離れ離れに。

しかし、49年の2発目の自費版「テネシー・ボーダー」「キャンディ・キシズ」は
好意的な批評を受けて少し挽回。
この時期の録音は後の70年代にベア・ファミリーレコードなどによってまとめられ、
今では包括的に聴くことができますが、なかなかの佳曲がたくさん発掘されています。
なかでも、シルバーヨーデルの凄さは、
自作曲、「ヨーデル・イズ・ユア・ブルース・アウェイ」などで聴くことができます。




ヨーデル・イズ・ユアー・ブルース・アウェイ


1950年~
いくら頑張ってもカントリー音楽でヒットは出ず、カネは巻き上げられるわ、
家族は離散するわ、すっかり疲れ果ててしまったヘイリーに転機が訪れます。
1949年の終わり、ふたりのミュージシャンと契約。このふたりがのちのコメッツの核となる、
ビリー・ウイリアムソン(スティールギター)とジョニー・グランデ(アコーディオン)。
彼らは新しいバンド、サドルメンを結成。これがのちのコメッツとなります。



そして、ついに、1951年、エセックスレコードと契約したサドルメンは、「ロケット88」をリリース。
これが最初のロックレコードとなって、かなりのヒットになります。
あとは有名な歴史。53年の「クレージー・マン・クレージー」がミリオンセラーとなり、
54年「シェイク・ラトル・アンド・ロール」、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」へとつながっていきます。
この時期についての面白い事実は、エセックスのオーナー、デイブ・ミラーの経営策略が、直
接的な白人によるR&B(ロックンロール、ロカビリー)誕生の動機になっている点です。

ミラーは、白人向けカントリーだけでなく、黒人音楽レコードも売りたかったんですね。
ところが、ジュークボックス販路の関係で、黒人向け市場に食い込めなかった。
はっきりディストリビュータが別れていた。だから、黒人音楽そっくりに演奏で
きて、白人向けのジューク・ジョイントにレコード配給できる白人グループを求めていたわけです。
そこで、ロケット88より以前、1950年にルス・ブラウンの
R&B「ティアドロップス・フロム・マイ・アイズ」をカバーした
実績があり、黒人音楽も演奏できると定評があったサドルメンに白羽の矢をたてた。
結果、それがビルボード誌で、「カントリーとR&Bの奇妙な融合」と書かれた新しい音楽、
ロックンロールへの布石となりました。
ちなみに、当時、サドルメンの写真はどこにも出ませんでした。白人であることを伏せていたのです。

ロケット88


現在振り返ってみれば、フォア・エイシズ・オブ・ウエスタン・スイングのころのヘイリーサウンドと
サドルメン以降の初期ロックサウンドはあまり似ていない。突然変わったように見えます。
それは商業上の戦略からかなり意図的に変えたのだということを意味します。
あえていえば、楽器編成がウエスタンスイングのまま、という点はある。ヘイリー流の初期ロカビリー
がその後あまり主流にならなかったのは、スティールギターやアコーディオンがメインだったせいかもしれません。
こうした編成のロカビリーバンドというのはたぶんサドルメンだけです。
エルビスをはじめとしたサンレコードの面々は、ギター中心の簡素な編成でしたが、
本当の「ロックバンドのスタンダード編成」は、
のちのバディ・ホリー&クリケッツまで待たないといけません。

流行だったウエスタンスイングの歌手として上昇下降を繰り返していた40年代のヘイリー。
まあ、49年にはすでにハンク・ウイリアムスが大人気となり、南部ヒルビリー音楽人気におされて、
ジーン・オートリーやウエスタンスイングそのものが下火になってきていたのですから、
そこにこだわっていたらなかなか難しかったのでしょう。

ヘイリーはロックの生みの親のひとりですが、エルビス以降のロックに押されて
人気が下火になったときも、古い自分のスタイルからはなれようとせず、
ますます人気を失っていったことを思えば、古いものにこだわる癖があって、基本的に時代の
先端へ出ていこうというタイプではなかったのだと言われています。


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