8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.18
                                 
  
  
 
   リトル・ガール・ウイズ・ビッグ・ヴォイス ー ティミ・ユーロ

 こんにちは、
なんで、「は」と書いて「わ」と読むのか、いまだに不思議がる馬鹿な中年、頑固8鉄です。
「一寸の虫にも五分の魂」なんて言いますが、「小柄な女性にも巨大な声」というくらい、史上最もソウルフルでエモーショナル、そしてパワフルと言われた歌手が60年代に活躍しました。

 彼女の名は、ティミ・ユーロ。
 彼女の最初のヒット、とどろくようなダイナマイト・ヴォイスの「ハート」がラジオやジュークボックスで流れた当時、多くの人は、
 「これってさ、黒人のアンチャンだろ?」
 「ばかこくでねえ!ガッツある、でけえ黒人のおばちゃんだべが!」
 「ちげえよ!都はるみだってば。」(爆)
 なんて、やりとりがあったそうな。

ところが、実際にスコピトーン(当時のフィルム製PV)や実演で登場したユーロを見た人は、びっくら仰天トコロテン。
20歳そこそこの、アイドルっぽい小さな白人女性だったからです。
ユーロは、若くかわいらしい小柄な白人女性で、しかも、トップ10に入った大ヒットは1曲だけだったせいか、「よくいる一発屋のアイドル歌手」だと誤解されがち。
そのため、「最も過小評価されてきた歌手」のひとりといわれていますが、この5フィート(152センチ)に満たない小柄な女性は、史上初にして、世界一素晴らしい、「ブルーアイド・ソウル歌手」(白人ソウル歌手)だったのです。
 それは、同時代のアリーサ・フランクリン、アーマ・トーマスといった黒人ソウル歌手に決してひけをとらないもので、白人と黒人をヒットチャート上で、厳密に区分けしていた当時の音楽事情を考慮すれば、極めて異例のことでした。
自分自身が彼女の大ファンであることを公言した最も有名な人物は、エルヴィス・プレスリーで、後年、ユーロ版「ハート」のカヴァー・ヴァージョンを出してもいます。



 ティミ・ユーロこと、ローズマリー・ティモティー・ユーロは、1941年にシカゴで生まれました。
シカゴというのは、ご存じのとおり、マディ・ウォーターズを抱えるチェスレコードがあった有名なブルーズの街です。
ティミは、子供のころからヴォーカル・レッスンを受けていたのですが、先生が、「この子は、特殊な声帯と肺を持っている」と言うくらい、持続力のある、極めて大きな声の持ち主だったそうですが、当時、ユーロ家で、家政婦をしていた黒人女性が、そんな子供時代のティミを地元のブルースクラブへ連れて行ったのです。
そこで、ダイナ・ワシントン、ミルドレッド・ベイリーといった、高名なジャズシンガーを目の当たりにしたティミは、「わたしにだってできるわ!」と、黒人音楽の歌い方を目指すようになります。
1952年に家族が引っ越したカリフォルニアで、彼女が最初に聴衆の前で唄ったのは、家族が経営するイタリアンレストランでのこと。彼女の歌うカンツォーネを聴いたレストラン客、スパゲティを口からダランとたらしたまま放心するわ、スープを鼻から飲んでしまうわ、ピッツァをパンツに入れてしまうわの大騒ぎとなってしまったのです!(多分に嘘)。
やがて、彼女の唄は、客の間だけでなく、評判は高まっていき、ナイトクラブなどで唄うようになります。



 プロとしてデビューしたのは、1959年。リバティーレコードのオーディションに合格し、契約したときでした。
 しかし、彼女は、当時としては、大変な変わり者。というのは、自分に向かない素材は絶対に唄わないという主義を最初から貫いていたからです。
当時の流行と彼女の外見イメージに合わせるために選ばれた、アイドルっぽい、自分が好きになれない唄は全部放り出してしまい、「こんなのイヤ!ゼーッタイにイヤよっ!」と、つっぱねたあげく、リバティーとの契約を一方的に破棄してしまいます。それでは、単なる思い上がった渋谷あたりをうろちょろしているコナマイキな馬鹿娘みたいですが、そうでないことを彼女は自分で証明してみせました。
彼女は、当時まだ、ソウル音楽が一般的でなかった時代に先んじて、ソウルフルな歌い方をし、そのためには、本当に自分が心から歌える楽曲が必要だ、と考えていたのです。
そして、自分が向いていると思った、ロイ・ハミルトン1954年のR&Bヒット曲「ハート」を、アカペラで唄って録音し、それをプロデューサーのクライド・オーティスのところに持って行って聴かせます。そして、これにすっかり感心したオーティスは、ティミと再契約を結ぶことになるのでした。
「ハート」は、結局、1961年にリリースされ、ポップチャートの4位、リズム&ブルーズチャートの22位という大ヒットを記録しました。
 そして、レコードをラジオで聴いた、多くの人々は、テレビに映ったティミを見て、びっくり仰天。その轟くようなソウルフルなビッグ・ヴォイスは、黒人歌手、しかも、相当大柄な女性、もしくは男性だとすら思っていた人が多かったのですが、実際は、20歳そこそこの、アイドルっぽい小さな白人女性だったからです。
 当時、同じような容姿の人気歌手にブレンダ・リーがいましたが、ティミの声は、ブレンダ・リーよりはるかにクロっぽく、誰もそんな人物を想像していなかったのです。
フランク・シナトラと共演した球場コンサートで、音響のトラブルでマイクが使えなくなってしまう事態になったとき、ティミは満席の客を前に生声で歌い、満席の聴衆を沸かせるという伝説を残したりもしています。そのビッグ・ヴォイスは、球場全体に響き渡りました。




 その後、ティミは、1961年から1965年にかけ、11曲のトップ100ヒットを出していきますが、トップ10に届くヒットは結局出ずじまい。
フランク・シナトラとツアーに出たり、クライド・オーティスがリバティレコードを辞めた後は、後釜のフィル・スペクターと組んで、「ホワット・ア・マター・ベイビー」を、ポップチャート12位、R&Bチャート16位に送り込んでヒットさせたりもしますし、バート・バカラックと組んでイージー・リスニングチャートでも活躍したりするのですが、レコード会社のおえらいさんの言うとおりにすることを拒み、頑固にマイペースな活動を続けてきたティミは、結局、69年、結婚を機に引退することにしました。
そして、60年代後半から70年代にかけて、ほとんど引退状態だったティミですが、結婚生活がうまく行かなかったこともあり、1980年に復帰を目指します。
 しかし、健康上の問題(声帯と食道に出来た腫瘍)など、困難が続きました。
なんとか、オランダでアルバムをリリースしたのをきっかけに、ラスヴェガスで定期的にショーを行う活動に入って、音楽界に復帰。その後、ヨーロッパでリリースしたアルバムは、徐々に売れていき、完全に復帰するかと思われました。80年代当時の映像を見ても、健康上のトラブルを押して、ますます、ソウルフルに唄う彼女の姿は感動的です。しかし、80年代終わりころから、健康状態が悪化、表舞台から遠ざかっていきました。
とうとう、90年代終わり、喉頭ガンで、歌手にとって、命より大切と思われた声帯を切除。一命はとりとめたのですが、長い闘病の末、2004年にガンで亡くなりました。享年63歳。



 かつて、ベテランの大歌手、ダイナ・ワシントンが、「ティミ・ユーロは、喉で唄っているのではない。あの声は、心から直接出てくるものだ。」と言ったことがあります。
ユーロ自身、生前、「私は、他人の孤独、心の痛みがわかる。私は、唄でその痛みを分かち合うのだ。」という事も言っていました。
ティミは、自身に与えられたオリジナル楽曲だけでなく、レイ・チャールズ、ウイリー・ネルソンなど、たくさんのアーティストの楽曲をカヴァーしましたが、全て、他人の物真似ではなく、彼女自身の楽曲のように思えるほど自分のものにして、独自の唄を聴かせました。大ヒットになったロイ・ハミルトンの「ハート」、キティ・カレンの「リトル・シングス・ミーン・ア・ロット」などのティミ版は、知名度こそないものの、おそらく、これら楽曲最高のヴァージョンと言えます。
我が国ではほぼ無名、といっていい、ティミ・ユーロの歌声を記録した多くの録音は、今日、欧米では、ほぼすべてCD化され、高い評価を得て、一般的に販売されていますので、この機会に聴いてみられることをお勧めします。

 
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