8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.175

タラハッシー・ラッシー~最後のロックンローラー、フレディ・キャノン



パリサデス・パークという曲知ってますか。好きな曲のくせに、一時期「デル・シャノンの曲」と勘違いしていた
のですが、ホントはフレディ・キャノン。歌い方とか時代とかよく似てるんですもの。ごめんね!天国のフレディ!
なに?勝手に殺すな?
ごめんちゃーい!お元気で存命中みたいです。
フレディ・キャノン本名フレディ・ピカリエッロは、1936年マサチューセッツ州のリビア生まれ。
父親はトラックの運転手として働いており、地元のバンドでトランペットと歌も演奏していたそうな。フレディは、
ラジオでビッグジョーターナー、バディ・ジョンソンなどのリズム&ブルース音楽を聴いて育ち、ギターを弾いて
遊んでいたらしいと、このあたりまではよくある話、
というか、俺とほとんど同じじゃん。ホントにアメリカ人なのかっ! 逆か、俺が変なのか。
高校卒後、1958年に歌手としてレコーディングデビュー。ちょっとしたヒットをだして、
その後、州兵に加わり、トラック運転
手となって、結婚し、父親になった。ふむふむ、そりゃそうだ、よくある話。

次。自身のグループ、フレディ・カーモンとハリケーンを結成し、ボストン地域で人気を博し、
このころにあのトレードマークとなった張り詰めたような歌い方(デル・シャノンに似てる)をして、
それが受けた。レコードもボ・ディドリーのサウンドに近い曲が多いですわ、初期のキャノンは。
よほど好きなんでしょう。とにかく熱狂的な曲ばかりで、そこが「ロックンロールしかやらない人」と
いう定評に結びついているんでしょう。かっこいいですよ、文句なしに。
また、彼は地元のテレビダンスショー、ボストンボールルームでレギュラーに。
そこで、彼の母親が書いた歌詞にフレディが曲をつけ、ボブ・クルーとフランク・スレイの執筆と制作チームに
持って行ってデモを作り、少し手直しをした後、録音。
これが「タラハシーラッシー」で、フィラデルフィアでスワンレコードを所有していた有名なテレビホスト、
ディック・クラークにの耳にとまります。クラークは、原版にさらに手を加え、バスドラムサウンドを強調し、
ハンドクラップとフレディの「whoo!」の叫び声を追加し、歌を再編集してオーバーダブして完成した
シングルはついにスワン・レコードによってリリースされ、同社社長のバーニー・ビニックに
よって名前もとうとう「フレディ・キャノン」になって大ヒット。
1959年、ビルボードホット100で第6位になり、ビルボードチャートに登場する22曲の最初の曲となり、
R&Bシングルチャートでも第13位になりました。トップランクのレーベルで彼の初期のレコードが
発行された英国では、ナンバー17。
「タラハシーラッシー」は100万部以上を売り上げ、ゴールドディスクになりました。
フレディはプロデューサーのフランク・スレイと共に今後5年間スワンのレーベルに留まり、
ディック・クラークは、彼のテレビ番組、アメリカン・バンドスタンドにどんどん出演させました。
(合計110回の出演)



やー、すげえなあ、ものすごくラッキーな人というか。もう「俺みたい」だなんて死んでも言えない。
アメリカって今も昔も凄いのね。もちろん、才能豊かな人だからですけど、
そういう人にはどこかで運が向いてくるかもしれない。日本ではなぜか、
それ以前に、「2代目」とか「弟子」とか「事務所とかそういうしがらみのほうが先に来て、
まるで就活みたいな感じだもん
なあ。うらやましいですアメリカは。

彼のセカンドシングル「オケフェノキー」はチャートで43位でしたが、
次のレコード「ウェイ・ダウン・ヨンダー・ニューオーリンズ」(1922年の曲のロックバージョン)は
ゴールドレコードとなり、アメリカとイギリスのポップチャートで第3位に達し、最大のヒットになり、
ミリオンセラーになりました。キャノンはイギリスでツアーを行い、1960年3月に彼のアルバム
The Explosive Freddy Cannonは、ロックンロール歌手による最初のアルバムとなり、
UKアルバムチャートのトップに。
次の2年間、1962年初頭まで、「チャタヌーギーシューシャインボーイ」、
これまたニューオーリンズジャズの古典、キッド・オリーの「マスクラットランブル」のロックバージョン、
のちにダニーとザ・ジュニアーズが録音した「ツイスティン・オール・ナイト・ロング」
(バッキング・ボーカルにフランキー・ヴァリとフォーシーズンズが出演)などヒットが続きました。
しかし、彼の最大のヒットの1つは、のちにTV Gong Showのホストで有名になるチャック・バリス
(覚えてますか、日本でもやってました。)が書いた「Palisades Park」で1962年5月に登場。
スレイがプロデュースしたジェットコースターのサウンドエフェクトをオーバーダブして、
Hot 100で3位、R&Bチャートで15位、英国で20位になりました。これもゴールドディスクに。



実に順調にヒットソング歌手の流れにのってますねえ。なんのスキャンダルもなく、
なにしろ「真のロック信者」とまで言われていたほどのロックバカ。こういう音楽は好きでやる!
みたいな永遠のアマチュア精神持った人は実はめちゃくちゃ強い。

キャノンは、1962年に英国で制作された映画「Just for Fun」に、ボビー・ヴィー、ジョニー・ティロットソン
などとともに出演しました。アメリカでの人気は薄れたものの、
彼は英国や世界のどこかで数年間人気のあるツアー活動を続けました。
1963年、彼はワーナーブラザーズレコードと契約、1964年にはアメリカの最後の2つのヒットである
「アビゲイルビーチャー」と「アクション」が出ました。「アクション」は現代の日本の音楽マニアでもびっくりするような、すごいメンバー(レオン・ラッセル、ジェームズ・バートン、グレン・キャンベル、デビッド・ゲイツなどを
含むロサンゼルスのトップセッションミュージシャン連中)とレコーディングしたもの。
これもゴールドディスク。
1967年にワーナー・ブラザーズ・レコードを去った後、キャノンはサイア、ロイヤル・アメリカン、
メトロメディア、MCA、アンディー、クラリッジ、ホーン、アマーストを含むいくつかのレーベルでシングルをリリース。 1970年代以降もディック・クラークと仕事を続け、世界中をツアーしました。
して最も重要なことは、キャノン自身がスワンレコードとワーナーブラザーズの原盤の所有権を持っていることです。音楽界で本当の意味で成功する(社会一般的にという意味)は、金持ちになることで、
キャノンは抜け目なくちゃんとやってのけたわけ。
破滅型の人も多い音楽人の中で、持前の才能と幸運に恵まれたキャノンは、
社会的にも有能な人で、「いとも簡単に人生を歩んだ」のです。


GO TO TOP