8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.169
 
さらば昭和の男



隣の親父は、私が東京から帰宅する8時ころにいつも外でたばこを吸いながら体操をしていた。
もちろん、昭和の男、下着姿である。
「こんばんわー。」
「おう、おかえり。お疲れだな。」

毎日、同じことの繰り返し。60歳で都営地下鉄を退職してから、毎日の日課のひとつだ。
彼は都営浅草線のどこかの駅の駅長だったはずだ。
それにしても、煙草を吸いながら体操では体にいいのか悪いのかわからない。

引退してからも昼間はいつもいなかった。
自宅以外に林の一角の調整区域に広い土地を持っていて、野菜を育てたりしていたらしい。
一度だけ、まだ、何もなかったときに彼に案内されて見に行ったことがある。

「ここに畑を作る。山小屋も建てる。」

これからとりかかることをいくつか言葉少なに説明してくれた。
私たちの団地は昭和50年代に周囲が大開発される以前に作られた最古参の団地で、
当時は一面の林の中にポツンとあった。
その当時に買った土地が未開発のまま残された区域に残っていたのかもしれない。
彼は自宅とその土地をいつも軽トラックで往復していた。
トマトやタケノコが採れるとよくわたしにおすそ分けをしてくれた。

彼は出身が東京下町で、いかにも昔かたぎの江戸っ子らしく、面倒見がよかった。
わたしの親父が卒中で倒れたときも、わたしの母が入院したときも、
わたしの娘がやっかいな病で病院通いしているときも、彼はいろいろな場面で手助けをしてくれたものだ。
わたしの親父の葬式でも彼はすべてを取り仕切ってくれた。

亡くなったことを彼に伝えると、
間髪入れずに葬儀の関係は俺に任せておけといった。

彼は一言だけで物事を進める男だった。




鉄骨造の彼の家は屋上があり、
印旛沼の花火大会ではそこから花火がよく見えた。わたしたち家族も近所の連中と
何度か彼の家の屋上でビールを飲みながら花火を観たものだ。

そういえば、我が家の巨大なミドリガメが脱走したことがある。
行方不明になり、どこを探しても見つからなかった。
1週間ほどして、彼の奥さんに尋ねてみたところ、
「うちの旦那が亀を駐車場で見つけて、畑のほうに連れていったよ。」という。
池に放してしまうかもしれないとのことだったので、
半ば諦めていたのだが、ある日、彼が軽トラで連れて帰ってきた。
亀は無事我が家に戻ったのだが、隣の親父も飼うつもりだったらしい。
亀で出会うなんて縁起がいいと思ったようだ。
そのせいか、亀は手厚い待遇だったようで、毎日刺身をもらい、
我が家の狭い庭に置いた水槽ではなく、林の中の広い池で自由に楽しんできたようだ。
さしずめ、つかの間のバケーションといったところか。

彼は退職後も元気に過ごしていたが、昔からの悪癖で、飲みすぎることが多かった。
電車やバスでべろべろに泥酔した彼とばったり出くわして、抱きかかえるようにして帰宅させたこともあった。
駅のベンチで泥酔ということもよくあったらしい。スーダラ節そのままである。

そんな彼をいつの間にか見かけなくなった。どうしたのか、
と思っていたら、なにか病気になって入退院を繰り返していたらしい。
たまに家に帰っても外に滅多に出ず、誰も状況がわからなかった。

数週間前、彼の家に救急車が留まり、誰かを運びだしていた。
しばらくして、同居の娘さんに「親父さんは入院中なの?」と尋ねたところ、
小声で「いまは自宅療養中なんです。」というので、これは病状は本人に口止めされているな、とピンときた。

以前から、弱いところは他人にみせない、

そういう男だった。男は黙ってサッポロビール的な、何も言わずに実行する、
強い男というイメージを崩すことをとても嫌がっていたのかもしれない。
まずいな、これは、と思う間もなく、数日後、彼は自宅で亡くなった。
なんで亡くなったのか、歳はいくつなのか、わたしたちは知らない。あえて知る必要もない、と思う。
そんなことはどうでもいい。彼はもういないのだ。

遠い昔、自宅の隣の空地で勝手に畑を作っていた彼は、
わたしと散歩している幼かった娘に出くわすと、いつも育てた花をくれたものだ。
小さかった娘は生まれつきの持病があり、あまり外出をせず、引っ込み思案で、黙って微笑むだけだったが、
うれしそうにしていた。
あの光景は、おそらく、わたしたち家族の記憶の中にいつまでも残るだろう。
「おい、お嬢ちゃん。花あげるよ。持っていきな。
」といって微笑んでいた隣の親父は、

最後まで昭和らしい男だった。




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