8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.16
                                 
  
  
 
 ミスター・エキサイトメント (ジャッキー・ウイルソン ストーリー)

 イエー!!こん!にち!WHAAAAAA!!
イエー、ベエベエ!イエー!
何言ってるのかわかりませんが、ソウル音楽といえば、ノリノリでエキサイト!
エキサイトといえば、「ミスター・エキサイトメント」こと、ジャッキー・ウイルソンであります。

強引というか、やけくそなノリで始まった頑固8鉄コーナー、今回は、トップ100に55曲、トップ40に24曲を送り込んだ大スターにして、史上、最も偉大なソウル歌手のひとり、ジャッキー・ウイルソンのお話。

 ウイルソンは、1934年、ミシガン州のデトロイトで生まれ、ハイランド・パークで育ちました。子供のころから、唄うのが大好きで、10代のはじめには、ゴスペルグループを作って教会で唄ったりしていたのですが、信心なんて露ほどもなく、ただ、安物ワインを買う金が手に入ったからだったといいます。
ガキのころから大酒食らってるんだからロクなもんじゃないが、イケメンで、モテモテだったため、めちゃめちゃ生意気なやつだったウイルソン、世間が許しておくわけもありません。
おまけに、シェイカーズというストリート・ギャング団まで率いていたウイルソンは、とうとう、少年院送りになりましたが、そのとき、更正担当のえらい人から「人殴るんなら、合法的に殴れ!」と、青春テレビドラマのようなことを言われたのか、ボクシングをやりはじめます。



 やるときゃ、とことんやる!ってのが悪ガキのウイルソン、16歳でデトロイトのチャンピオンにまでなるのですが、勢い余って、17歳でうっかりできちゃった婚。
しょうがねえな、じゃあ、子供のためにも、ボクシングなんて野蛮なことはやめて音楽だ、ベエベエ!と思ったのか、従兄弟のレヴィ・スタッブス(のちに、フォア・トップスのリード・ヴォーカルとなる)と一緒にヴォーカル・グループを組んで音楽を始めるのです。

そして、運良く、当時、「リズム&ブルーズのゴッドファーザー」と言われていた大物プロデューサー、ジョニー・オーティスにたちまち才能を認められたウイルソンは、スリラーズ(のちの、ドゥーワップグループ、ロイヤルズ)というグループの一員として契約させられるのですが、実際の参加はせずじまい。

そして、当時、大人気だったヴォーカル・グループ、ドミノウズが、人気リード歌手、クライド・マックファター脱退のため、歌手を募集していたところ、ウイルソンはオーディションに見事合格、ドミノウズの看板歌手となり、「セント・テレサ・アンド・ローズィズ」をヒットさせます。



 そして、1957年、ソロとしてブランズウィック・レコードと契約、最初に出した、痛快な楽しさあふれる「リート・プティット」が、R&Bチャートでヒットしました。この曲を書いたのは、ベリー・ゴーディ・Jrという、ウイルソンと同じボクサーあがりの男で、この人は、後々、モータウン・レコードの社長となります。
さらに、ゴーディと共作者、ロクエル・デイヴィスのソングライターコンビによる、「トゥ・ビー・ラヴド」「ザッツ・ホワイ」、「アイル・ビー・サティスファイド」が、続々とヒットしますが、1958年の「ロンリー・ティアドロップス」では、ポップチャートでトップ10入り。
ウイルソンは、名実ともに、驚くべき声域と、抜群の歌唱力を誇る、全国的人気スターに躍り出ました。

レコードだけではありません。踊りながら唄う、そのエネルギッシュで、アクロバティックなステージアクトは大評判となり、エルヴィス・プレスリーをはじめ、「ウイルソンのようになりたかった」と言ったマイケル・ジャクソンまで、後のアーティストに絶大な影響力をもったのです。
観客・聴衆を熱狂の渦に巻き込む、ウイルソンを人々は、「ミスター・エキサイトメント」と呼ぶようになります。



 さらに、1960年には、「サムソンとデリラ」のなかの、カミーユ・サン=シーンズの「マイ・ハート・アット・ザ・スイート・ヴォイス」というオペラを焼きなおした「ナイト」が、全米ナンバー4まで駆け上がり、世界ヒットになります。
60年代は、その後も、「ベイビー・ワークアウト」「ドッギン・アラウンド」「アローン・アット・ラスト」といった具合に、天性の美声を活かした大声のバラードと、激しくはずむ、ダンサブルなソウル曲の両方がヒットし続けます。

 しかし、そのクセのある独特の声と、ロックンロールのリズムは、主流ソウル音楽の流行にはうまく当てはまらず、1966年の「ウイスパーズ」、1967年の「ハイヤー・アンド・ハイヤー」もポップチャートでトップ10入りする大ヒットにはなるのですが、70年代に入ると、活躍の場は、再びR&Bチャートにとどまるようになります。

 ウイルソンは、私生活では、相当めちゃくちゃな人で、女たらしで有名だった上、アルコール、コカイン、アンフェタミンに及ぶ薬物中毒患者でしたが、彼の音楽の素晴らしさが損なわれるようなことは一度もありませんでした。
 しかし、1975年、ニュージャージーで開かれたディック・クラーク・ショーのステージで、「ロンリー・ティアドロップス」を唄っている最中、突然の心臓発作に見舞われたウイルソンは、意識不明となり、その後、一度も意識が戻ることなく、9年後の1984年、49歳で亡くなりました。



 ウイルソンは、植物状態のまま、9年の歳月を生き延ましたが、その間は、もはや死んだも同然でした。人々はウイルソンをすっかり忘れており、その音楽も、いつの間にか、過小評価されるようになっていました。

 しかし、本当に死んでしまった後、改めて、世界中で再評価の動きが進んだのです。
そして、ついに、2004年には、ローリング・ストーン・マガジンが選んだ、歴史上最も偉大なアーティスト100の68位に選ばれることになりました。
 現在では、世界中の多くの人が、初期の最も偉大なソウル歌手であることを認め、20年以上も前に亡くなったウイルソンを記憶の片隅にとどめるようになってきています。
そういう意味では、ウイルソンは、今、再び、その声とともに、もう一度、人々の心に生き返り始めているといえるのではないでしょうか。

 さて、そんな人生の不思議に思いをよせながら、THE KINGの、切れ味鋭くもありそして縦のハンドステッチが施されたナッソージャケットに身を包み、夏の夜に聴こえてくる、今は亡き、ジャッキー・ウイルソンのすすり泣くような偉大なソウルヴォーカルに耳を傾けるのもまた、人生の楽しみのひとつではないでしょうか。

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