8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.15
                                 
  
  
 
ザ・ワイルデスト!  ルイ・プリマ


 ごんぬつぱ。頑固8鉄です。
フリマ、っつーと、公園で近所のおばちゃんたちが、昭和の服だの使わない花瓶だのスヌーピーのぬいぐるみだのを売ったり買ったりするもんですが、プリマっつーたら、ルイ・プリマ。 プリマハムじゃありません!

レコジャケなんか眺めると、「うひょほー!」なんて感じの顔ばかりで、まともな顔で写ってるのが一枚もないんじゃないか、っていうお笑い・面白系に見えますが、実は、ものすごい実績と経歴のトランペッター兼歌手兼バンドリーダー兼エンターテイナー兼俳優兼声優兼テレビタレント兼大作曲家兼ゴルフ場経営者兼レコード会社オーナー。「兼」が多すぎて、何が書いてあるのかわからなくなるほどのマルチタレントでありました。

それに、面白いことに、この人、自作の有名曲「ジャスト・ア・ジゴロ」の通り、5回も結婚している、大モテ男。実はホンモノの「女にモテるイタリア男」は、ブラッド・ピットだのキムタクだのみたいなイケメンでもなんでもない、オランウータンオヤジなのでありました。

 
 ルイ・プリマは、1910年、ニューオルリンズ生まれ。
プリマが、その音楽活動をスタートさせたのは、1920年代のことで、最初は、7人編成のスタンダードなディキシーランド・ジャズ・バンドでした。時代の流れにうまく沿って1930年代には、スイングジャズのコンボで成功し、1940年代はビッグバンド・ジャズの世界で成功、1950年代は、ラス・ヴェガスのショウマンとして成功、1960年代には、ポップ・ロックで成功・・・という、軽薄さ、というか、したたかさ。

1920年代のディキシーランドジャズ期から1970年代のプログレ・ロック期まで、多年に渡って、成功を収め続けた人に、先に紹介したビッグ・ジョー・ターナーがいますが、ターナーが、まったくスタイルを変えずに生き残ったのに対し、プリマは、流行廃りに敏感に反応、ころころとスタイルを変えながら厳しいショー・ビジネスの世界を生き抜いたのです。



 プリマの両親は、イタリア、シチリア出身の移民。いかにもイタリア系らしく、母親がクラブで唄う歌手だったこともあり、音楽一家だったため、子供の頃はバイオリンを習っていました。しかし、プリマ本人は、ものごころついたころから、野球好きの体育会系で、バイオリンをやる繊細さに欠けると思っていたのです。そして、育った場所がニューオルリンズだったわけですから、多くの地元のミュージシャンと同様、ニューオルリンズ特有のジャズサウンドに影響を受けます。
「なんかよ、オレっちはよ、イターリアーンなんだけどよ、スパゲティばかりじゃ飽きるじゃねえかよ。バイオリン、なんだかムズイしよ。だから、ママーンに許しをもらって、ど派手にジャズることにしたわけさ、グラーッツェ!」なんて言ったとも思えませんが、プリマは、トランペットを吹き始めます。盟友には、後のジャズの神様、ルイ・アームストロングがおり、トランペットプレイばかりでなく、スキャット・シンギングなども、アームストロングから学んだようです。

 兄のバンドに加入したのを皮切りに、自分のバンド、「ルイ・プリマズ・ニューオルリンズ・ギャング」を結成。1934年には、ニューヨークに行き、有名なクラブ「ドア」と契約、多くのニューオルリンズ出身ミュージシャンとともに、定期的にステージ活動をします。そして、1936年に自身が作曲した「シング・シング・シング」が大ヒット。これを、カーネギー・ホールに出演したベニー・グッドマン・オーケストラがとりあげたことによって、さらにこの曲の知名度はあがり、今日では、ジャズのスタンダードになっています。
ちなみに、シンプルな曲なので、日本の小学校のブラバン演目にも頻繁にとりあげられ、いつだって「つぎのきょくわあー、ベニー・グッドマンのおー、しんぐ!しんぐ!しんぐ!でーす!」(MC担当小学生)と紹介されますが、「ルイ・プリマの〜」が正解。しっかりしてくださいよ、音楽の先生!!

 プリマは、その後、ロス・アンジェルスに行き、様々なナイト・クラブで活動。30年代は、流行しだしたトーキー映画に乗り込んで、ハリウッド製音楽映画に出演、脳天気なイタリアン役で、ビング・クロスビーと共演したりします。
 さらに、40年代になり、ショー・ビジネスでは、ビッグ・バンド・ジャズが儲かりだすと、プリマもすかさずビッグ・バンドを結成、リーダー、トランペッター、ヴォーカリストとして活躍します。
「しっかしなあー、おっさんばっかりなのもなあー、色気ないし、つまんねえなあー、どっかにいいオンナいねえがー!」なんてナマハゲみたいなことを言ったかどうかその証拠なんて全くありませんが、40年代末、バンドに彩りを添えるべく、キーリイ・スミス(後にプリマの4番目の妻となる。美人。)を加入させ、バンドの看板歌手にします。
 そして、50年代に入ってからは、ノヴェルティ・ソング(イロモノ、面白系)専門のバンドに特化していき、そのスタイルが、今日、ブライアン・セッツアー・オーケストラなどで有名な「ジャンプ・ジャイブ系」といわれるものになっていくのです。



 しかし、50年代が進展するにつれ、ビッグ・バンドの人気は下降線の一途。経済的困難に陥ったプリマは、妻のキーリイ・スミスとふたりで、イーストコースト中の小さなクラブを転々としますが、キャブ・キャロウェイなど、友人の助けを借りて、ラス・ヴェガスのサハラ・ホテルのラウンジ出演に腰を落ち着けます。
おりしも、ビル・ヘイリー、エルヴィス・プレスリーなどが有名になり、時代はすっかりロックンロールになっていました。
そこで、プリマは、友人のサックス奏者、サム・ブテナに小さなロックンロール風コンボバンド(ザ・ウイットネスィズ)を作ってもらい、このバンドが、プリマとキーリイ・スミスをバックアップするスタイルが定着します。キーリイ・スミスは、コメディセンス溢れる、お茶目な女性だったようですが、ステージでは、完全なポーカー・フェイスで、常に愉快そうにヘラヘラしているプリマと好対照、という演出をし、そのコミカルな音楽とともに、愉快で楽しいステージを繰り広げたのです。その評判はどんどん広がり、ラス・ヴェガスで夜通し、一晩に何度もステージをこなし、毎朝6時に終わるという、すさまじい活躍ぶりでした。


そして、1956年に、キャピトル・レコードから、この時期のジャンプ・ジャイブ系コンボによる極めつきといえる名盤「ザ・ワイルデスト!」がリリースされます。
「ボナ・セーラ」「ズーマ・ズーマ」「アンジェリーナ」など、いかにもイタリアンな楽曲を織り交ぜ、スピーディできびきびしたシャッフルリズムを売りにした、迫力あるジャンプスタイルのこのアルバムは、ラス・ヴェガスでのプリマのステージの雰囲気をよく再現していて、今日でも、この手の音楽のお手本になっています。

 しかし、元来がラス・ヴェガスのショーマンですから、あまりに仕事が多すぎたせいで、すれ違いが多くなってしまったキーリイ・スミスとは離婚、プリマの長年ファンだったギア・マイオーネ(またまた、美人。)と結婚し、ギアは、キーリイ・スミスの後釜歌手になります。
時代は、1960年代に入っており、ハヤリのロック・サウンドはどんどん変わっていきますが、プリマはそれもどんどん利用して、ラス・ヴェガスの芸人として生き延びるのです。
「うけさえすれば、パンツだって脱ぐ!オランウータンにだってなってやる!」と言ったか言わないか定かではありませんが、1967年には、ウオルト・ディズニーの映画「ジャングル・ブック」で、アテレコ出演(オランウータンのキング・ルイ役)したり、サウンドトラックを吹き込んだりもしました。
さらに、プリマは、ショウ・ビジネス以外にもたくさんの顔を持っており、自分のゴルフ場を経営したり、自分のレコード会社を設立したり、そのエネルギッシュな活躍ぶりは、他に類を見ないものでした。



 雑誌広告やテレビ、ラジオ、レコード、ステージなどを通じて、すっかりお茶の間の顔となったプリマは、70年代も芸能界のセレブとして大活躍をするのですが、1975年、脳腫瘍に倒れます。そして、手術中に昏睡状態となり、そのまま意識を取り戻すことなく、3年後の1978年に67歳でその生涯を閉じました。

 後年、未亡人のギア・マイオーネが語るところによると、プリマは、家族や仲間内には、大変朗らかで親切な、見たままの通りの愉快な人だったようですが、音楽のこと、ビジネスのこととなると、誰とも逢わず、ひとりで考え込んでいることが多かったのだそうです。
 また、プリマには、常に目的があり、それを達成するための仲間には、たとえビジネスだけの関係であっても、非常に誠実でいい人だったようですが、ひとたび、目的に合わなくなると、ばっさり切り捨てる、という人でもあったようです。
そうしたものの考え方によって、厳しい芸能界を50年にも渡って生き延び、落ちぶれてしまうことを避けられたのかもしれません。
道化自身が、本当に面白い人とは限らないのです。本当に長年に渡って地位を維持するためには、したたかな計算が必要で、仲間を切り捨てていく冷酷さもやむを得ないのが、厳しいショービジネスの世界なのだ、ということを、プリマの人生は教えてくれます。



 さて、THE KINGでは、切れ味抜群のロックンロールアイテムを中心に、ルイ・プリマが駆け抜けた時代、戦前から戦後にかけての、アメリカの自由な精神を21世紀の日本に蘇らせるべく、頑張っております。そして、その精神はスマートでタフな「ザ・ワイルデスト!」でありたい・・・・ではありますが、プリマのように流行廃りに敏感に反応し、イチイチころころとスタイルを変えながら起用に生きるツテはなく、また、人をばっさり切り捨てるなど、冗談じゃない!っというのがここでの考えでもあります。 微力ではありますが、みなさんのリクエストにも応えていきたいとの事で、また新作ラインナップにも乞ご期待!でありますぞ!
っとその前にとにかくビシ!!!っと注文をするように!

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