8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.141


昭和・麹町譚
俺の出身地、東京都千代田区番町、麹町界隈について、ペラペラ漫然と歴史をググってみたのだが、美辞麗句か通り一遍の歴史しか出て来ないことに気が付いた。俺が知っている、子供の頃の麹町は、そんなものではなかった、と思う。
もともとの発端は、学校をどこにするか、という点にあった。それが、この地域独特の「風土」を物語っていると、今でも、思う。
普通、小学校は、当時、素直に、居住する地域によって学区が決められていた。わたしは、二番町に住んでいたので、そこは、「番町小学校」の学区だった。ところが、わたしは、麹町小学校に入学した。
理由は、オトナになってから、親から聞いた。それは、「番町小は、大金持ちばかりだから、差別されるので、麹町のほうがマシだから、入学校を変更してもらった」ということであった。
つまり、最初に言ってしまうと、この地域は、おそらく、日本全国で、もっとも「持つ者と持たざる者」の格差が大きい地域だったと思っている。
わたしは、0〜3歳までを、「千代田区二番町7」という住所で過ごしている。わたしがどこに住んでいたのか、というと、一言で言うと、即席で作ったバラック小屋、だった。
大きな敷地であり、メインは旧自治省の某外郭団体の事務所、兼、宿泊施設だった。その一段高い小高いところに、お偉いさんの住む巨大な日本家屋の「官舎」があり、運転手として雇われたわたしの父は、その敷地内に、即席の小屋のような家屋を建てもらい、そこに住み込みで働いた。そこでわたしは生まれた、ということになる。お偉いさんの巨大な官舎は、まさに「丘の上のお屋敷」であった。毎日、そこを見上げながら、わたしは3歳までを過ごした。

昭和30年代から昭和40年代当時の番町、麹町界隈は、現在のような、人が住んでいない、完全なオフィス街とはほど遠い、今で言えば、西荻窪あたりと変わらない風情の街であった。
しかし、東京の他の地域と決定的に異なるのは、江戸期から脈々と続く、「お屋敷町」であったことだ。それは、番町地区全域に及んでいた。現在は、ほとんどが売り払われ、ビル街になっているが、もともとは、延々と続く、「巨大邸宅群」であった。
最初に断っておくが、これは「街」にまつわる話であり、人にまつわる話ではない。わたしは、差別されたりいじめられたりした覚えがないとは言わないが、それを根に持っているわけではない。
さて、わたしは、幼稚園(麹町幼稚園)に入るころ、一度、引越しをしている。二番町7から二番長11へ。11になにがあったのかというと、旧自治省の官舎である。それはそれは、ボロボロの、ときどき、コンクリートの外壁がバラバラと崩れ落ちるような、酷い状態の「団地式アパート」であった。(日本で最初の団地型アパートハウスのひとつだったそうである。非常に古いものだったのだ。)
わたしの一家が住んでいた1階の部屋はとりわけひどいもので、あちこちがスキマだらけで、日が当たらないじめじめとしてかび臭い安普請の部屋であった。巨大なムカデやゴキブリなどが平気で出入りし、外に出れば青大将がいたりネズミの屍骸がごろごろ転がっていたりする様は、まるで、山中のテントに住んでいるようだった、と思えば、当たらずとも遠からずである。そこにわたしは18歳まで住んでいた。
その周囲がまた、すごかった。何がすごいかというと、その「落差」である。
北側に隣接する建物は、物騒なお国柄ゆえ、極端な警戒態勢にあるイスラエル大使館である。それは、わたしたちの住む1階のすぐ外にある苔むして緑色になった5メートルほどの崖の上の敷地にも隣接していた。その敷地というのは、数年前まで、「昭和を思わせる麹町の名所」となっていた「小林邸」で、数百坪の巨大な邸宅である。また、そのすぐ近くには、旧大倉財閥の旧家があった。
崖を上ってみたこともあるが、小林邸本体はとうとう、一度も目撃したことがない。なんの縁もないシロモノだった。
西側に隣接していたのは、homatという、在日アメリカ人(エリート)専用の高級マンションで、あの当時に、キャデラックやビュイックといった高級車がいつも出入りしていた。もちろん、入ったことなどないが、アメリカ人の友達はいた。
東に隣接するのは、それらと正反対のもので、車が入ることができない路地であった。そして、その路地には、コンクリートブロック塀を乗り越えるとすぐに屋根に降りることができるのだが、みるからに粗末な、木造バラックの長屋が並んでいた。いつも、がら空き、外から中が丸見えだった。ここにも友人がいた。
人に優劣はない。しかし、住まいには明らかに優劣がある。その落差は、今思うと、想像を絶するほどであった。
旧華族系、財閥系の大邸宅と大使館系の裕福な外国人マンションと、公務員などの中間層が暮らす逓信住宅などの官舎、戦後直後の路地裏バラックの残存物が渾然一体になった街が、番町地区であった。つい10年ほど前にほぼ全域を歩いて確かめたが、最初に番町地区から消されたものは、「路地」である。
番町地区には、小林邸以外にも名所があった。それは日本テレビである。(現在は移転)。日本テレビの隣接地域は、麹町地区に届くまで、小林邸がほぼ全てを占めるほど、この邸宅の規模は大きかった。また、わたしがもともと生まれたところである二番町7の隣は、茶道の裏千家の本山であり、これまた巨大な敷地を持っていた。そのまた隣は、ベルギー大使館である。ご存じのとおり、このあたりは、中央区銀座と並んで、日本で最も地価が高いことで有名だ。
なお、わたしは記録を取る趣味がないので、いつどこで、がまるでわからないが、わたしの心象風景にはあまり補正がかかっていないはずである。わたしの父は、写真と8ミリ映画を撮るのが趣味だったので、当時の「記録映像」が山ほどあるためだ。繰り返し観たドキュメント映像の風景は記憶の補正を許さない。
面白いことに、麹町地区と番町地区は、8メートルほどしかない細い道を隔てているだけなのに、局所的に観ると、全体の趣がかなり異なる街だった。わたしの住んでいた社宅の通りを挟んだ真向かいが麹町4丁目である。当時の麹町側は、極めて狭小な家屋と路地が多く、空き地も多かった。ちょうど、「ビルディング」が次々にできはじめていた時期だったと思う。
都電(路面電車)が廃止され、拡幅される前の新宿通り沿いには、富士銀行、三菱銀行、などの低層のビル、ガソリンスタンド、郵便局、米屋、とうふ屋、魚屋などの小さな個人商店、戦後直後に建てられたいわゆる「市場」(そのうちのひとつである麹町ストアは、現在でも建造物だけは残存)があり、今の光景からは想像出来ないが、大きなビルディングは数えるほどしかなかった。現在もそのまま残っているのは、鉄道引済会館である。
平河町、紀尾井町に入ると、そこは現在と変わらないニューオータニや赤坂プリンスホテル、文藝春秋ビルの世界であり、「人が住んでいる」という世界からは、すでに遠かった。
なお、手軽にインターネットで、当時の麹町風景写真を見ることが出来る。

この写真集の中では、麹町4丁目角のバラック、「麹町マーケット」の写真がとりわけ非常に懐かしい。入り口近くの左手に入っていた駄菓子屋が大好きだった。なお、写真で右手の看板に書いてある「万力屋」という文具店がこの土地のオーナーで、市場を取り壊し、すべて新築の文具店にした後、現在は、巨大なビルディングになっている。
ところで、話がそれるが、麹町小学校というのは、番町、永田町と並んで、全国レベルで「別格」とされてきた学校群である。東大というのが終点にある、と、当時言われていた。(その先はもちろん「霞ヶ関」である。)速い話が、英才教育が大好きな金持ち連中が、よってたかって「越境入学」をさせたがる学校だった。いかにも高度経済成長期らしい話だ。なかには、わざわざ麹町に別宅を買った人までいた。どれほどの出費かわからないが、ご苦労様なことである。
我が家は、経済的にはごく普通の、中小企業レベルのサラリーマン程度の家庭であり、なにも変わったところはないのだが、周囲との「落差」があまりに大きいので、相対的に極めて「貧民」に属しているという意識がなかったといえば嘘になる。麹町小の「越境組」には金持ちが多く、同級生の中には、青山一丁目をまるごと持っているようなやつがいたりしたのだから。「あいつのほうが1万円給料が高くてくやしい」とか、そういうのはわかるけれども、本当の格差というのは、まったく尺度が違うことを、わたしは子供のころから知っていた。ケタが何桁も違うのである。わたしは、逆に金にこだわらなくなった。そんな差など埋まるはずがないからだ。
しかし、そういう「格差社会」というネガティブな印象を持った観念が偏った一面的な見方であるということを速くに体得してもいる。どういうことかというと、「巨大な財産を持つ連中がどれほど苦心惨憺な人生を送っているか」という側面を知っていたからだ。彼らは、簡単に言うと、「代々伝わる財産の管財人」である。極端な物言いをすれば、財産に縛られ、それを守るために人生のすべてを捧げているようなものだ。子孫代々にまで及ぶ呪いみたいなもんだ、とすら思える。逆に、「持たざる者」は、自由である。それはバーターの関係にある。そういった見方を、わたしは子供のころから自然と身につけた。クリス・クリストファーソンの有名なカントリー・ソング「ミー・アンド・マイ・ボビー・マギー」の一節「自由とは、失うものが何もないこと」を、わたしは子供のころから実地で知っていたようなものだった。
それに、人そのものというのは、そんなこととは関係ないことも知っていた。資産があろうがなかろうが、どこに住んでいようが関係なく、嫌なやつや嫌なやつだし、いいやつはいいやつだ、というそれだけの話だ。

 ところで、麹町の真ん中をとおる新宿通りから都電(路面電車)が消え、拡幅されてから、ものすごいスピードで再開発は進んだ。現在のような高層ビルが立ち並ぶオフィス街になるのに、10年かかっていないのではないか。昭和50年代に全てが置き換わっていったように思う。
なお、後日談だが、私たち一家が、二番町を離れ、千葉県佐倉市の片田舎に引っ越したのは、そうした最中の昭和55年のことである。「持たざる者」の宿命である。しかし、いずれ追い出される官舎から離れても、巨額の住宅ローンを抱えて「住宅のために生きる」という本末転倒をしないため、わたしの父はささやかな工夫をしていた。若い頃に佐倉市に土地をいくつか二束三文で買い、55年に一部を売ってその金で家屋を建てたのだ。
当時の佐倉(京成臼井)は、駅がほとんど無人駅といっていい寂れたところで、鬱蒼とした林と田畑しかない、本当の片田舎だった。
「秋田から東京、流れ流れて、江戸ところ払いみたいな、こんな片田舎に・・」と肩を落としていた父の姿が忘れられない。それでも、わたしは嬉しかった。
父が、借金ゼロ、ささやかにこつこつ貯めた金だけで建てた新築の家は、16畳の部屋が3つもあり、さらにそれ以上に広く、庭も広く、都内の狭苦しい地下室のような部屋から抜け出した開放感に満ちていた。ひばりのさえずりを聴きながら、真新しい畳の香りがする16畳の和室に寝転がって父と眺めた天井の広さを今でも思い出すことが出来る。
余談だが、京成臼井は、我々が引っ越した直後に駅が移転し、王子台、という巨大なベッドタウン造成が急激に進んだ。そして、さらに、バブル期に、東急が「みずきが丘」という高級分譲地を造成し、1軒が7000万〜1億超えという高値で全戸売りさばいた。
そのころには、そういった新興団地に囲まれ、旧団地として雑然とし、孤立してしまった我が家周辺からみれば、またしても、その「落差」で貧民化したように感じたものだ。
それから間もなくして、バブルが崩壊し、土地がすさまじい値崩れを起こした。簡単に言えば、あれよあれよという間に、半額以下に落ちてしまった。みずきが丘の「高級住宅」を買った「お金持ち」連中は、買ったときの半分の価値もない、片田舎の建て売り住宅に巨額のローンを払い続けることになってしまった。売り切った東急不動産がとっとと退散したのは先見の明があったからだろうか。世の中というのは不思議なものである。
持たざる者は、持ちたがる。持つものは維持したがる。いずれであれ、それと引き替えに何かを失う。わたしは、「そこそこ、ちょっとだけ持っているくらいがベスト」と思う。そうでないと、なにかの番人のような人生になってしまう。わたしには、それが楽しいことだとは到底思えない。
それもまた、番町時代に街から得た教訓である。


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