8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.139


大隈講堂・時計台下の音楽

みなさん、こんばんわかんない!
何言ってるのかよくわからない8鉄です。

さて、以前、「聖者の行進」という思い出話を書きましたが、今回はその続きです。
わたくし、あらためて思い返してみると、結構、ロカな(つか、カントリー、ですけど)名門サークルの出身なんですよ。
さて、以前書いたとおり、ニューオリを脱退したわたしは、昭和55年の初夏、早稲田大学で長い歴史を誇る有名サークルだったアメリカン・ミュージック・ソサエティ(アメ研)に入ったのです。創設者はマガジンハウスで「ポパイ」や「ブルータス」「オリーブ」といった雑誌を次々とヒットさせ、テレビ番組「トゥナイト2」の司会者としても有名だった石川次郎さんで、1961年に創設されました。(わたしの生まれた年です!)1960年代と1970年代前半くらいまでは、まさに全盛期だったようで、有楽町のホールや地方巡業で大変なギャラを稼いでいたそうです。分野は、カントリー(ロカビリー含む)、ブルーグラス、フォーク(PPMなどのアメリカンフォーク)で、その人材の多くが卒業後、テレビ局、ラジオ局で活躍されたために、音楽界の「裏側の大物」が結構たくさんおられます。
直接ではないですが、当時のOBの方々の仲間内には、ジミー時田、とか、いかりや長介(ドリフターズ)とか、ミッキー・カーチスなどがいました。

さて、私が入った80年は、すでにそんな全盛期を過ぎていて、もう、あまりこうした古めかしいアメリカ音楽がひっぱりだこ!という世界ではなくなっていました。そんなおまえにとっての、アメ研の4年間を、一言で総括してみろ、といわれたら、実は案外、簡単だと思っています。
「たいしたことはなにもなかった。」ということだ、と思っているのです。

人間、不思議なもので、何十年という年月を経て覚えていることというのは、たいてい、「嫌なこと」のほうです。「悲しい出来事」もそうです。楽しいかったことというのは、ほとんど覚えていません。なんとなく、「楽しかったような印象」だけが残っている。それは、「悲しい出来事、つらい出来事がほとんど起きなかった」ことを意味しています。
実際には、私個人は、大学時代は大変でした。ショッキングが出来事ばかりだったと言っていい。なにしろ、両親がほとんど同時に死に直面する大病をわずらいました。特に、父は重度障害者となって、長い間、介護に明け暮れる毎日だったのです。
だから、私の大学時代の記憶は、ほとんど、家庭で起きた出来事ばかりで埋め尽くされています。あとは、あえて言えば、当時、付き合っていた彼女との思い出がいろいろとある、といったところです。
まあ、そんなわけで、アメ研のことを思い返すと、具体的な出来事をほとんど覚えていないのです。

当時、私が、アメ研を知った訳は単純明快で、早稲田の学生だったからです。
アメ研の練習場所というのは、大隈講堂の時計台の下で、常に、在学生4万人の目に触れていたはずです。だから、早稲田の在学生で知らない人はいないサークルだったのです。
内部にいると、ブルーグラスやカントリーを演奏するサークル、として自分たちは認識していないけれど、実は、別の側面があったことを後々になって知りました。それは、「大隈講堂の前で毎日ジャムをしていた」というだけで、同世代の早稲田の学生のほとんどに通じる、という側面です。
後に、知り合った音楽好きの方で、早稲田出身であることがわかって話をすると、「ああ、あそこにいたのか。」と、それだけで分かってもらえるのでした。
人前で演奏する、というのが勇気のいることだとすれば、アメ研メンバーは、そんなこと考えもせずに、入ったときから知らず知らずに、不特定多数の通行人相手の「大隈前での数え切れないほどの演奏」をしてことになります。意識しなくても、勝手に舞台度胸がついていく、これが、はじめから「大隈講堂前でジャム」が日課だった早稲田のアメ研ならではのことだったかもしれません。
あまり、個々の出来事は覚えていないと書きましたが、最初の一歩は印象深いものです。あいまいではありますが、こんな感じだったと思います。場所は時計台下で、数人が合奏している。

「すごいですね。わたしも高校生時代にギターでブルーグラスをひとりで弾いて歌ってました。」

「そうなの?それは、ぜひ、うちにはいらなきゃだめだよね!」

「ちょっと、見学していっていいですか?」

「いいよいいよ!是非そうしなよ!」

それだけです。後は放置。
「今度、ギターもって遊びにおいで。」と言われたと思います。
で、ジャムのような練習のようなものに混ぜてもらった。楽器の奏法について、アドバイスをもらったりもした。
その次が印象深い。3年生のメインバンド、というのを見た。ただ、演奏しているのを見学していただけです。演奏そのものより、メンバー間のやりとりのほうが面白かったんですね。

「おめえよー、相変わらず、音が5つしかねえよ!」

「るせえな!おまえこそ、なんだそのへなへなのフィドルは。」

「しょうがねえだろ!夕べ清龍で死ぬほど飲んで・・」


そんな感じのやり取り(ほぼ、創作ですが)。で、みなでゲラゲラ笑いあう、という。
そして、フィドルの人が、「お!おまえ、1年生?」とかなんとか言って、ヘラヘラしながらちかづいてきた。なんか音楽のことでも言うのかなと思ったら、別に普通な調子でニコニコしながら、「おまえ、彼女いる?」
これにはこけました。こけながら、「よし!ここなら俺でもつとまるに違いない!」と思ったのでした。

そのアメ研のたまり場は、正門のまん前にある古ぼけた建物の地下にあった「フジ」という喫茶店。そこにいくと、「アメ研ノート」という連絡帳のようなものがあり、見てみました。でも、そこに書いてあることのほとんどは、「連絡」とは呼べないような、雑文、落書き、ばかり。
いちいち、くだらない。小学生だってもっとまじめな落書きをする。もう、そのくだらなさは、音楽云々をとっくに超えて、芸術の域に達してました。「こりゃ、面白いところに入ったなあ」という印象ばかりが残っていて、肝心の「音楽」とか「バンド」の印象がすっかり薄くなってしまっていました。そんな風にして、わたしの「アメ研生活」はスタートしたように思います。
先輩たちは、何も「指導」をしないところでした。「やりたければ、適当に誰かとバンド組んだらいんじゃね?」なんてことを言われたと思います。とりあえず、前提として、聴いたのは、「カントリーバンドってないんですか?」「今はブルーグラスしかないねえ。」「エレキって入れますか?」「練習場所がないからねえ」とか、そんな感じではありました。
あいまいですが、わたしが、最初にバンドを作るべく動いたはずです。ニューオリの本拠地、喫茶店プランタンの並び、すぐ近くにあった、小さなラーメン屋で「じゃあ、ブルーグラスをやろう。」ということで、とっとと組んでしまおうという話をした覚えがあります。たまたま、私らのときは、高校時代からその手の音楽の楽器演奏に炊けていた連中がそろっていたので、なんとかバンドを結成した。
最初は、夏合宿です。たしか、福島県の辺鄙なところでした。具体的な場所は覚えていません。なーんにもない小さな民宿で、たいして練習もせず、なんだかだらだらとオモシロ可笑しく過ごしていたような印象があります。
そうした姿勢は、実は、後々までも変わりませんでした。わたしたちのバンドは、「練習しない」ことで有名だったくらいです。なかなかバンドというのは、難しいもので、「それでいいじゃないか」という人(わたし)と「そんなことじゃだめなんだ」という人の相克というのが通過儀礼のようにあったとは思います。でも、結果的には、ある意味、「一夜漬け」の世界、という、中間地点で折り合って、なんとか3年間を乗り切ったように思います。

実は、もうここまでで、私たちのバンド(後のサニー・グラスボーイズ16代目)の話は、おしまいなんですよね。バンドって作ってしまったら、それは「終わりの始まり」なんだろうと思います。あとは、ある程度練習して、ある程度レパートリーが出来て、ステージで演奏をし続けるだけですから。ディティールを言えばきりがありません。演目はニューグラスが多かったとか、主な出演先はブルーグラス・インだったとか。しかし、そんな「記録」はある意味、どうでもいいことです。
あえて言えば、ひとつ上の代の人数が少なく、たまたま、わたしたち16代目が15代を飛ばして14代からメインバンドを引き継いだこと(通常、どこのサークルもメインバンドは任期が1年だが、16代は2年生から3年終わりまで2年間メインバンドだった)、それにつれて、大きなステージにはやくから出演出来たことくらいでしょうか。
もっと、大きな出来事は、何年だったか忘れましたが、神保町にブルーグラス・イン、銀座にロッキー・トップという「(当時は)ブルーグラス専門」のライブハウスが出来たことでしょう。14代はたぶん、短期間出演した後、解散になりましたが、私たち16代目はかなり出演させてもらったと記憶しています。新宿のカントリーの老舗、ウィッシュボンにも満席のなか、出演して好評だった記憶があります。要するに、全然練習しないわりには、結構金を稼ぐバンドだったのです。たまたま、そういう時期に居合わせた、というのが正しいと思います。新宿NSビル開店記念セレモニーとか、日産の新車発表会とかのイベントなどは、1時間かそこらでひとり数万円を稼いでいたと思います。
全盛期をはるかに過ぎて、それまでは定期演奏会、学祭くらいしかなかった時代だったのが、わたしたちのころから、ライブハウス出演という、あまり学生バンドには縁がなかった世界が開けたのでした。
しかしながら、時代の流れでしょうか、各大学のブルーグラスサークルがこの時期に次々と消滅していきました。わたしらはまだ結構人がたくさんいて、かなり後年まで残れたほうだと思います。


バンドの話はひとまずおいて、わたしが在学中のサークル全体としての、大きな出来事は、いわゆる「溜まり場」が、フジから建て替えられた第二学生会館のロビーに移ったことでしょう。なお、この第二学館の1階の片隅に、当時流行った「レンタル・レコード店」が出来ました。ディスカス、という名前でした。経営は地下で営業を継続していた定食屋の稲毛屋です。わたしをはじめ、アメ研のメンバーはここでバイトをしはじめ、夏休みも冬休みも早稲田に通った覚えがあります。結構長い間バイトをした記憶があるのですが、数年しか持たずに閉店したはずです。すでにブームが過ぎてしまったのでしょう。バイトの店員は、ただでさえ安価な稲毛屋でさらに割引で食べられたので、開けてもくれても「メシは稲毛屋」だった覚えがある。わたしはすぐに偏食するので、好きな豚汁定食を毎日食べていたこともあります。290円くらいではなかったか。わたしのような奨学金という借金で通う貧乏学生には大助かりだったと思います。
フジにも相変わらずよく行きました。マスターが船橋在住で、よくわたしの住んでいる佐倉市まで釣りに来る、と言っていました。なぜか、いついっても、マスター本人が自分の店のテーブルゲーム(懐かしいテーブル式デジタルゲーム)の麻雀をしていたような記憶があります。あんな風に暮らせたらいいだろうな、と思ったものです。
そのほかにも、日常生活ではいろいろとアメ研メンバーで開拓した「安くてうまい店」や特定の人と通った店は、他の出来事を吹っ飛ばすほどに、とても印象に残っています。なんででしょうね?食いしん坊だからでしょうか。当時、わたしは現在ほど酒飲みではなく、高田馬場の栄通の飲み屋街はあまり印象に残っていません。
そんな中で、フジ以外に定番となった新しい「アメ研行きつけの店」というのは、早稲田通り、西門側にあったロック喫茶「ジェリー・ジェフ」でありました。

同期や後輩をつれて、毎日のように通っていた時期もあったと思います。ロック喫茶というとおり、ロックのレコードをいつもかけている店なのです。いつもジンライムを飲んでいたような記憶があります。で、ロックも好きなので、よく後輩に蘊蓄をたれていたのでした。今考えると馬鹿馬鹿しいことをしていたような気がしますが、私は、本当に「音楽キチガイ」だったのですね。わたしの蘊蓄話は、店で有名になってしまい、いまだに当時のママから揶揄される始末です。それがひいては、このコラムになっている、と思えば、なかなか足しにはなっているのかもしれません。それはさておき、そのジェリー・ジェフのマスターはテレビ関係の仕事をされていて、常連客には、業界の方が大勢来ていました。これは、卒業後の話になりますが、個人的にいろいろアドバイスをもらったりお世話になった方々ともたくさん、ここで知り合いました。アメ研をきっかけに行きだした結果、結構長いつきあいになった。そういう意味で、忘れがたい店でしたが、残念ながら、ここも閉店して久しくなってしまいました。

また、当時は、ユニグラス、という団体がありました。関東の学生ブルーグラスバンドの連合組織みたいなものです。その関係で、大学を越えた横のつながりというのが、結構ありました。さらに、大企業がスポンサーについていた大きなコンサート、ビーブロッサムがあって、数は限られますが、そこに出演していた学生バンド同志はとりわけ仲がよかったと思います。思いつくままに書くと、東京農大、日大、日大農獣医、青学、立教、専修、法政、慶応といったあたりでしょうか。特に、早慶、というのは、野球から来ているのか知りませんが、よく引き合いにだされるので、結構つきあいがありました。まったく、異なるタイプのバンドで、「バカの早稲田、緻密な慶応」と言われていたと記憶しています。慶応は、テクニックで見せるバンドだったと思います。わたしたちは、いままで述べたとおり、「練習しないバンド」ですから、でたとこ勝負で、ノリがすべて、です。それに、今考えるとある種の「すべり芸」を売りにしていました。失敗するほど、ウケるわけです。うまくフォローすれば。そういった「すべりネタ」のほとんどのMCをわたしが担当していましたが、そちらのほうが演奏より受けて、道玄坂オープリーと言われていたイベントでは、バンドのみでなく、司会者としても仕事を頼まれたりしました。道玄坂オープリーというのは、当時まだ閑静だった渋谷道玄坂にあったヤマハ楽器のイベントです。そういえば、ここの、「フォークギター教室」のゲストで出演したこともありました。
わたし個人的には、農大と最も親しかったです。農大もわたしたちに似た愉快なバンドでした。さらにプライベートな話でアメ研と関係ないですが、清泉女子大につきあっていた女の子がいたので、よく遊びに行きました。女子大に正々堂々と入って遊びにいっていたのは、メンバーの中では私だけでしたね。これが一番楽しかったかもしれません。
蛇足ですが、私自身は、アメ研のメインバンド、幹事長職を全うした後は、ブルーグラス音楽からは足を洗いました。4年時には、あまり顔を出さなかったと思います。社会人になってすぐに始めたのは、全く別の楽器、ニューオリでやり損ねた木管楽器(サックスとクラリネット)で、1年ほど、R&Bバンドに加入したこともあります。あとはテックスメックスにはまり、アコーディオン奏者になり、いろいろマスターした楽器をひとりで駆使して多重録音自主製作盤を作ってロック系インディーズと関わったりした後、90年代の10年間は音楽活動から手を引いていました。21世紀になって、戦前ジャズやドゥーワップ、昔やっていたテックスメックスの復刻、、と、次々に活動を替えながら現在に至っています。

わたしが在籍したのは1980年から1984年までですが、そのころ最盛期を迎えていたアメ研は80年代後半に徐々にフェイドアウトしていきました。もう、20年以上前に消滅してしまっています。
不思議なことに、漫然と思い出すのは、そのときそのときの、季節感のようなものです。春の合宿で行った台風の千葉の海の黒さであるとか、大隈講堂の暑い夏の日の日差しの強さであるとか、学際の準備をしたときの秋空の青さとか、そういうものなんですね。具体的に、いつ何の曲をやったとか、どこで誰にあったとか、そういうことはほとんど忘れてしまっています。思い出はモノクローム、色をつけてくれ、という歌詞の流行歌が当時あったと思いますが、わたしの若いころのアメ研の思い出というのは、なぜかフルカラーです。それは、毎日が決して楽ではなかった大学生活、18歳から22歳までの、楽しい思い出の一コマであったからだと思います。


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