8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.138


チカーノ・ロック・スターからテックス・メックス・キングへ 〜フレディ・フェンダー
 
みなさん、こんにちワンマンバスでございます。(古語)
8です、ええ、そうですとも!8でございますよ、ボン!すっかり大きく成られて・・(無法松の一生)
・・・・・えー、さて、写真のこの方、ご存じでしょうか?
違う!!!断じてアライグマじゃありません!!人間ですよ!
え?なに?よくわかりましたね!!そのとおり!!
アルベルト・アインシュタイン博士ですね!・・・・と言いたいところですが、違います、確かによく似てるけども。
違います!!葉加瀬太郎じゃありませんっ!!
この方は、フレディ・フェンダー。
日本では知名度ゼロですが、グラミー3回受賞、しかも、ポップ・チャートでプラチナアルバムをとっている、テキサス出身の大スターです。
50年代からメキシコでヒットを出すなど活躍しているので、ロックファンにはよく知られている、リッチー・ヴァレンス(バディ・ホリーとともに、1959年に飛行機事故で亡くなった伝説のチカーノ・ロッカー)と同時期の人ですが、フェンダーが合衆国側で全米大ヒットを出し、全国的に有名になったのは、1960年、ヴァレンスの死から1年後のことでした。
さて、フレディ・フェンダーは、50年代後半のヒスパニック系ポップスター、70年代のカントリー音楽のスター、そして、90年代にグラミー賞をとったテキサス・トルネイドウズのメンバー、という3つの成功したキャリアの持ち主です。
フェンダーは、テキサス州サンベニートの出身で、当初は本名のバルディマール・ウエルタとして音楽活動を開始しました。フェンダーは貧しい家庭の出で、最初に演奏した音楽は、ポルカといったコンフント音楽(テハーノ音楽、テックス・メックス)で、1947年に、ハーリンゲン、テキサスのKGBTラジオ局で、「パロマ・ケリーダ」を歌い、アマチュア・コンテストで一等賞(10ドル)をとったのが、音楽人生の始まりでした。
同時に、そのころ、フェンダーはブルースを黒人たちから直接教わったといいます。彼の両親はいつも移住して歩く労働者で、同僚の多くは黒人であったため、子供時代、周辺に当たり前のようにいたブルースマンたちから直接教わったということのようです。生なブルース音楽が、もともと持っていたテックス・メックスという音楽的素地とミックスして独自の音楽を創り出していったフレディ・フェンダーの大きな要素になっているわけです。
16のとき、3年間の海兵隊に参加し、その後、テキサスのホンキー・トンク・バーやダンスホールで演奏しはじめました。彼の最初のレコードのうちの2つ、エルビスの「冷たくしないで」とハリー・ベラフォンテの「ジャマイカン・フェアウエル」のスペイン語バージョン吹き込み(ファルコン・レコード)は、1957年にメキシコと南米でナンバー・ワン・ヒットとなり一気に有名人に。



1959年に、ハリウッドに呼ばれましたが、それは、当時、ファッツ・ドミノがいたインペリアル・レコードと契約するためでした。そこで、ウエルタという本名からグリンゴ(ヒスパニック系からみたいわゆる「英語圏の白人層」)に受け入れられやすくするために、名前をフレディ・フェンダーに変えたのです。(フェンダー・ギターから姓をとり、韻を踏んでフレディにしたらしい。)
1960年、「ウエイステッド・デイズ・アンド・ウエステッド・ナイツ」が全国ヒットになりましたが、ここで大きく運命が狂います。フェンダーは、マリファナ所持容疑で逮捕され、刑務所送りになってしまいました。前科者となって、いきなり成功の糸口を切られたフェンダーは、3年後、密かにニューオリンズで再出発し、そこで5年間、地道にブルース、スワンプ・ポップ、ケイジャン・ファンクといったタイプの音楽を次々に自分のものにしていきました。これが、後の本当の成功につながります。



1969年には、フェンダーはふるさとに戻り、フルタイムのメカニックとして働き、音楽はウイークエンド・ミュージシャンとして、活動することにしました。
そして、1974年、彼はヒューストンで自作曲「ビフォア・ザ・ネクスト・ティアドロップ・フォール」を録音し、このマスターテープがABCドットレコードに買われて、1975年4月8日、ついに、ビルボードのポップ・チャートとカントリー・チャートのナンバー・ワンになりました。これはチャートの歴史上、無名の新人がいきなり出したレコードが2つのチャートで1位となった最初で最後の例として知られています。



続いて、60年にヒットした「ウエイステッド・デイズ・アンド・ウエステッド・ナイツ」の改作版、「シークレット・ラブ」、「ユール・ルーズ・ア・グッド・シングが次々に大ヒットになり、それらが収録されたアルバムはマルチ・プラチナ・レコードになりました。ビルボードはフレディを1975のベスト・アーティストとして選出し、名実ともに大スターとなりました。



テレビ、映画などに出演し、世界的な有名人となっていったフレディですが、1990年には、ダグ・ザーム、フラーコ・ヒネメス、オーギー・マイヤーズとテキサス・トルネイドウズを結成、歌手/ギター奏者として更に活動を広げ、トルネイドウズはとうとうグラミー賞を受賞。


そのすぐ後、ロス・ロボスと組んだ「ロス・スーパー・セブン」でも再びグラミーを受賞。
そして、2001年、自身の総決算とも言うべき、ルーツ回帰作、「ラ・ムシカ・デ・バルディマール・ウエルタ」で、幼いころからなじんだ旧いメキシカン・ボレロの名曲の数々を見事に歌い上げ、3度目のグラミーを受賞しました。



ところが、このあたりから、体調を崩しており、度重なる肝臓移植手術を繰り返した後、とうとう2006年に亡くなりました。69歳。



全米で有名な司会者、デビッド・レターメンがフェンダーを称してこう言っています。
「あらゆる音楽の中で最高の歌手」。
まさに、その通り、と思います。
この人、日本では知名度がない、と書きましたが、すぐに過去の名作を忘れるアメリカでも同じで、どんどん廃盤になり、なかなか名アルバムが入手出来ない状況になっています。CDがなく、旧いアナログを手に入れないといけない。ebayなどでは、たくさん出品されますが、二束三文でたたき売り状態。なんでこう、自国の「宝物」を大事にしないかなー、アメリカ人って・・と思ってしまいます。
さて、我が国では知名度ゼロと言われるフレディ・フェンダーのすごさ、わかっていただけましたでしょうか?



では、最後に、わかったかどうかテストをしておしまいです。
「フレディ・フェンダー、本物はどれだ?」(難問ですが頑張ってね!!)



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